前回コラム「市場型リスク管理の限界」は、その名の通り、市場型のリスク管理の限界を論じたのです。今回は、それとの対比で、「リスクをとるリスク管理」としての、リレーションシップ型のリスク管理を論じてみたいと思います。
話は飛びますが、私は、前々回10月29日のコラム「インデクス運用は、常識に照らして、まともな行為なのか」において、市場の効率性を前提にしているインデクス運用は、市場の効率性を実現するという、市場参加者としての市場に対する責任を放棄した、いうなれば「ただ乗り」であるという趣旨の批判を展開しております。
つまり、市場参加者がアクティブに、良いものを買い、悪いものを売るという、売買を通じた銘柄への厳しい評価を行うことが、市場の効率性を支えているわけですが、パッシブなインデクス運用というのは、そのような真剣な市場参加者の活動の結果として得られる市場の効率性を、努力なしで手に入れる行為なのだという批判をしているのです。
市場の効率性は、市場参加者が市場に対して責任を負うことによってのみ、維持されるのです。インデクス運用は、自らは市場に責任を負わないで、他人の果たした結果だけをとろうとする無責任な運用です。どんな世界にも、そうした無責任な人はいる。しかし、その無責任層が、あまりに多くなると、社会の秩序は保てなくなる。インデクス運用が主流であるような市場では、もはや、市場の効率性が保てないはずなのです。
このコラムでも、同じ趣旨のことを、市場原理一般論として、いいたいのです。リスクをとるということは、市場参加者の責任です。
市場参加者が、リレーションシップ型のリスク管理を徹底することで、市場機能を維持しているのです。前回のコラムで述べた市場型リスク管理が有効であるためには、売るリスクに対して、買い向かう投資主体の存在が不可欠です。市場型リスク管理は、自己でとれないリスクを市場に投げ出すこと、いうなれば、市場機能にリスク管理をゆだねることです。それが有効であるためには、市場からリスクを拾う人が必要なのです。これは、当たり前のことでしょう。
有価証券運用は、証券の本質からして、証券の属性の一定の安定性を前提にしています。しかし、属性の変化は、程度の大小はあるにしても、どの証券についても避け得ません。属性の劣化が基準を超えたとき、つまり、リスクが高くなったとき、売却によって、そのリスクをカットするのが、市場型リスク管理の基本であり、証券運用の基本中の基本であったわけです。
問題は、一般に、このようなリスク管理では、多くの投資家が同時に売却に向かい、売買成立するにしても、価格の下落率が大きくなりすぎるのではないか、という点です。つまり、属性の劣化による理論的な下落率以上に、下落してしまうのではないか、いいかえれば、証券の本源的価値を大きく下回るような時価が付いてしまうのではないか、ということです。これは、現在の資本市場では、可能性以上の、現実の問題です。
本来、市場原理というのは、市場価格が、本源的価値へ収束することを前提にしているわけです。価格が本源的価値を下回れば、当然に、魅力度は上昇します。ゆえに、買需要が喚起されて、需給均衡するはずなのです。なのに、なぜ、市場原理は機能しないでしょうか。魅力度を評価できる投資家、本源的価値の評価に立脚した投資行動をする投資家、リスクをとれる投資家、が少ないからでしょう。
本源的価値を評価するということは、当然に、より深い証券分析が必要であり、そのための独自の情報の収集は不可欠です。
この証券分析を、報酬を取って行うのが、プロフェショナル・サービスとしての資産運用業です。
社債の格付を例にとりましょう。米国の社債市場は巨大です。そこには、多数の専門の資産運用会社がひしめいています。これらプロフェッショナルな社債投資の専門家には、格付は不要だと考えられています。プロは、発行体の財務情報等に遡って、独自の信用分析を行うので、外部格付など信じないからです。逆に、格付を信じている、というか信じざるを得ない非プロの(さすがに、アマチュアの、とはいえない)投資家の投資行動が、時価と本源的価値の間にズレを作り出すところに、投資機会を見出すのが、プロの仕事なわけです。
株式投資も同じです。なぜ、資産運用会社のアナリストは、企業訪問をして、経営者との面談を行うのか。なぜ、資産運用会社には、個別企業の徹底した調査分析、その企業を取り巻く産業の調査、そして経済全体の調査があるのか。いうまでもなく、株式の本源的価値と株価との間のズレ、即ち投資機会を探すためです。
もしも、市場が、こうしたプロを中心に構成されていて、各プロが、市場での売買を通じて、自己の信じる本源的価値分析を戦わせているならば、プロと非プロの売買が交錯するならば、リスクを売る投資家とリスクを買う投資が拮抗するならば、証券価格は、各プロが値付けた異なる本源的価値の平均値へ、収束していくはずなのです。そして、そのような条件が成就するときに初めて、市場価格が本源的価値を反映するという意味での、市場の効率性が実現するのです。
そのような市場の効率性が実現しているとき、売りは、つねに本源的価値を反映した適正価格の近傍で、買需要を見出します。つまり、流動性が保証されます。ゆえに、市場型のリスク管理が有効になるのです。ですから、例えば、格付が下がったから、二期連続赤字だから、時価が購入時より5%以上下がったから、というような、本源的価値分析を省略した、素朴な市場型リスク管理手法でも、それなりに機能するのです。
ところが、もしも、市場型リスク管理手法が主流になったら、どうなるでしょう。
下がったら買が増えるという市場機能は働き得ず、下がったら逆に売が増えるという、「市場の失敗」を引き起こしてしまいます。おそらくは、これが、今の資本市場が抱えた大きな問題なのです。
それにしても、いつまでたっても、タイトルにつけた「リレーションシップ」が出てこない。前回に続いて、リレーションシップに至る前に、紙幅が尽きそうです。要は、いいたいことは、証券を「紙」として扱うような市場型リスク管理ではなくて、証券の発行体という「人格」にまで遡れば、当然に、そこには投資家と発行体との間のリレーションシップ(社会的関係性)が生まれるはずだ、ということです。
リーマンの社債なら簡単に買える。なぜなら、簡単に売れる前提だから。まさに市場型リスク管理です。ところが、リーマンに融資するとなると、厳密かつ慎重な審査手続きがとられる。リーマンとのリレーションシップを前提にしたリスク管理です。なぜ、証券運用では、リレーションシップ型リスク管理が行われにくいのか。ここが、私の最大の疑問点です。なぜ、リーマンの社債を満期まで保有する前提で、銘柄分析しないのか。
上場株式や社債のようなパブリックなものは、市場型リスク管理、融資や非公開株などのプライベートなものは、リレーションシップ型リスク管理、この二分論がおかしい。
パブリックなものについても、発行体とのリレーションシップに基づいた厳格なリスク管理を行う、つまり、リレーションシップの中で本源的価値の変動を細かくモニタする、この資産運用の基本が実践されない限り、ビジネスとしての、即ちプロフェッショナル・サービスとしての、資産運用など成り立ち得ないのは、自明です。
融資や非公開株などのプライベートな関係性における資産運用、まさにリレーションシップ型リスク管理が徹底しておこなわれる資産運用、については、本当に紙幅が尽きましたので、またの機会にとり上げたいと思います。先取りして、一つだけ申し上げれば、このプライベートな運用についてすら、融資の証券化や、クレジット・デリバティブの利用のように、市場型のリスク管理が入り込んでしまっていることの重大な問題性を、改めて取り上げたいと考えています。改めて、というのは、2008年10月 3日のコラム「金融危機にみる保険(リスクヘッジ)とモラル・ハザードの関係」で、金融危機のさなかに、この問題を取り上げているからです。危機が収束したように見えても、問題は解消していません。
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。