資産配分を決めるときなどには、各資産の期待収益率をおくわけですが、疑念すらもたれることなく、株式の期待収益率を、債券の期待収益率よりも、高く設定します。
私も、おそらくは、株式の期待収益率は債券の期待収益率よりも高いのだろうと、考えてはいるのです。しかしながら、単純に、そうだとは考えていません。この問題は、株式の期待収益率は債券の期待収益率よりも高いという、事実認識の問題ではなくて、株式の期待収益率は債券の期待収益率よりも高いはずだ、あるいは、高くあるべきだ、という、規範的な問題なのだろうと考えているわけです。
結論からいえば、社会的規範が、経営者に対して、自社の株式の収益率について、債券よりも高い収益率を実現しなければならないことを義務として課し、経営者が、その課題を実現できてはじめて、株式の期待収益率が債券の期待収益率よりも高くなる条件ができるのだと、考えているわけです。
前回のコラム「株価が上昇するための条件について」では、配当を払うが全く成長しない企業と、全く配当を払わないが成長する企業という、二つの両極をとりあげました。
前者、配当を払うが全く成長しない企業の場合は、投資収益率は、配当利回りに一致し、それは、同じ企業の社債の利回りよりも高いはずだ、という見通しを述べておきました。つまり、株式の期待収益率は債券の期待収益率よりも高い、という見通しを述べたわけです。
また、後者、全く配当を払わないが成長する企業の場合は、内部留保の蓄積と、その将来への再投資の成果が、株価を上げていくので、その株価上昇率が、投資収益率に一致し、それは、同じ企業の社債の利回りよりも高い、という見通しを述べています。次回以降の検討として繰り延べた問題が、この上記の両極の株式の投資収益率のうち、後者、即ち、成長企業のほうが、高いのであろうという、いわゆる成長株理論です。
常識的な姿は、一定の配当を払いつつ成長する企業、ということになるのでしょうから、それら企業の株式の投資収益率は、上記の両極の中間に分布する。そうすると、企業が、適当な配当を払うか、内部留保を効率的に再投資して成長するか、もしくは、その両方を実現するか、する限り、株式の投資収益率は、債券の投資収益率を上回る、と、まあ、そういうことに、なるはずです。
これは、何のこともなくて、至って常識的な見解です。このことを、逆にいえば、企業が適当な配当を払わないか、内部留保の効率的再投資ができないか、もしくは、その両方ができないときは、株式の投資収益率は、債券の投資収益率を上回り得ない、ということです。
これも、常識的見解です。実のところ、日本の株式市場について(特に、日本の、という必要はないです。この論点は、どの国の株式市場についても、当て嵌まるのだろうとは思いますが、特に、日本では、顕著な問題なのだろう、ということです)、問題にされてきた経営統治論は、まさに、この論点を突いているのです。いわく、配当性向の妥当性と、内部留保(より、広くいって、企業の保有する資産)の成長戦略への効率的再投資、この二つが、経営統治論の焦点であるわけです。
ということで、先に出した結論になるのです。配当性向と内部留保の投資効率、この二点について、経営者が明確な責任を負うということ、つまり、企業統治の改革がない限り、株式の投資収益率が、債券の投資収益率を上回るという保証はない。
議論は、ここで終わりではない。ここから始まるのです。
経営統治論が、単なる精神的なもの、倫理的なものでは、弱すぎるだろうということです。社会的な仕組み、制度として、経営責任の履行が保証されなければならないはずです。いうまでもありませんが、その仕組みが、株主総会です。
さて、そうすると、株式の投資収益率が債券の投資収益率を上回る条件は、株主総会が機能することに帰着するようです。そして、株主総会の機能を規定するのは、おそらくは、株主の構成です。だとすると、株式の投資収益率が債券の投資収益率を上回る条件は、株主の構成の問題へと行き着くのです。
経営陣が株主であるような場合については、普通は、投資としての意味がないので、あまり検討されることもないのでしょうが、実は、意外に興味深いのです。これも、前回コラムで触れた事案ですが、もしも、これらの経営陣が、会社から報酬を受け取らずに、株式からの配当を中心的な所得としていたらどうでしょうか。当然に、その配当利回りについて、それなりに高いもの、少なくとも、債券の利回りを上回るものを、期待するのではないでしょうか。
おそらくは、ここに、株式の投資収益率と企業統治をめぐる問題の原点があるのではないかと思います。経営陣が株主であるということが、経営陣が資本家としての資本利潤を得るということ、であるならば、その所得は、株式配当になるということでしょう(別に、報酬をとっても、その分、配当原資が減るだけです。配当か報酬かの選択は、税効率の問題でしょう)。これで何がいけないかというと、何もいけなくはない。これで、いいのでしょう。
ここから導かれることは、成長しない企業は、公開企業である必要はない。
もしも公開企業であるならば、公開企業としての企業統治のあり方を考えるよりも、非公開企業化して、経営と所有を一体化させることで、問題を問題でなくしてしまうことのほうが、手っ取り早いし、そうすべきなのです。このような、株式市場からの退場が、株式市場の平均的収益を妥当なものに保つための、一つの条件です。
次に、ここに、成長という要素を加えると、どうなるのか。二つ、考えられますね。一つには、内部留保の再投資。おそらくは、これが基本なのでしょう。もう一つは、外部資本の導入。この外部資本の導入については、「外部」の範囲を、限定をつけずに広くする「公開」という方法と、範囲を限定する「非公開」という方法があります。
ということで、株式を株式市場に上場している公開企業は、成長戦略へ向けた資本(外部資本と内部留保の合計)の再投資の効率について、社会に対して(なぜなら、社会全体が、潜在的には、株主になり得るから)、責任を負うことになるのです。
広く社会に対してまで責任を負い得ないならば、理解を得られる株主だけを受け入れればよい。しかし、そのようなことは、定義により、公開企業には認められない。だから、非公開化が必要なのです。また、成長に責任を負えないならば、やはり、非公開化せざるを得ない。
公開企業の株式への投資収益率が、債券への投資収益率を上回るためには、経営者が、社会的に成長戦略の妥当性を説明できることと、その戦略実現へ向けた徹底した資産の効率的管理を証明できること、この二つが基礎的要件なのです。
そのような経営者の経営する企業しか、公開株式市場に残らない、といいますか、残れない、ようにするためには、非公開化の仕組みがどうしても必要なのです。
成長を放棄するならば、経営陣が自分で買収するか、再成長軌道へ転換できる新経営陣によって買収されればよい。経営陣が、自己の成長戦略が社会的に認知されていないと思うならば、友好的な外部株主とともに、自ら買収すればいい。
公開株式市場で、資本主義の精神が活きるためには、非公開株式の世界にある資本主義の力、買収という力が強くなくてはならないのでしょう。株式の期待収益率が債券の期待収益率を上回るための条件について、という表題との関係でいえば、借金(その金利は、債券の利回りを基礎にしている)をして、株式を買い取ったほうが望ましい、というような状況は、公開株式市場ではあり得ない。あり得た場合は、その通り、買収される。だから、株式の期待収益率は債券の期待収益率を上回る、という理屈になるのだと思います。
ちなみに、本稿、一度も片仮名を使っていません(正確にいうと、「コラム」を二度使いました。これは、しかたない)。お気づきでしたでしょうか。使わなくても、書けるものですね。
以上
次回更新は、連休のお休みを挟みまして、5/6(木)とさせていただきます。
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。