もしも、資産運用に腕前の良し悪しがないとしたら、事業としての資産運用など、成り立たなくなってしまうのではないでしょうか。
さすがに、資産運用の巧拙というものがあり得ない、とまでいうつもりはありません。しかし、もしも、巧拙があるとしても、それが何であり、どの程度重要なものなのかは、必ずしも明確ではないと思うのです。
資産運用に腕前の良し悪しがないとしたら、事業としての資産運用など、成り立たなくなってしまうのか、という問いに対しては、逆に、資産運用という事業の成立要件として、腕前の良し悪しが、どの程度の意味をもつというのかと、問い返すこともできるでしょう。
では、腕前の良し悪しは、どの程度の意味をもつのでしょうか。
わずかです。わずかがいいすぎならば、腕前の良し悪しよりも重要なことがある、としておきましょう。かつて、「資産運用の腕前の良し悪し(プライベート・エクイティ)」というコラムの中でも、「運用会社の技術の巧拙以前に、その運用会社の運用戦略、運用方法そのものの評価が先行しなければなりません。戦略そのものに巧拙はあり得ず、戦略の実行方法についてのみ、巧拙を論じることができるからです」と書きました。
運用成果にとっては、運用戦略の選択の良し悪しのほうが、運用技術の巧拙よりも、大きな影響を与える。これは間違いないでしょう。ここで、運用戦略の選択が運用の巧拙ではないのか、と問うこともできます。社会の常識としては、おそらくは、そのとおりでしょう。しかし、現在の資産運用業界の常識では、運用の巧拙は、選択された運用戦略の範囲内に限定されて理解されているのです。その限りでは、運用の巧拙のもつ意味は小さいということです。
ところで、その以前のコラムは、昨年の12月10日付のもので、「株式、債券、プライベート・エクイティ、不動産、インフラストラクチャ、実物資産、ヘッジファンドなど、様々な分野ごとに、運用技術の問題を取り上げていこうと思っています」と書かれていますが、実際には、プライベート・エクイティだけとりあげて、それっきりになっているようですが。
実のところ、そう書いたこと自体、すっかり忘れておりました。そのうちに、少し関心も動きましたので、改めて、今回、趣向を変えて問題をとりあげなおした次第です。
今の関心は、そもそも、投資収益に決定的に影響を与えるのは、資産選択や、運用戦略の選択であるはずなのに、なぜ、資産運用の業界では、重要性の低い、狭い範囲での運用の巧拙にこだわっているのか、ということです。
わかり易くいえば、株式か債券かの選択のほうが、株式の中での銘柄の選択よりも、決定的に重要な影響を与えるのに、なぜ、資産運用業界は、株式の専門家、債券の専門家に分かたれて、それぞれが、狭い範囲での銘柄分析に、つまり運用成果全体に対する関係では重要性の低いところで、限界的な巧拙を競うようなことになっているのか。そういう問題意識です。
しかし、中華かイタリアンかフレンチか、はたまた、和食か、というような選択は、顧客に属する選択であって、板前に任された選択ではないでしょう。板前は、各自の専門領域で勝負する、そうではないですか。
上手な喩え、ありがとうございます。しかし、上手な喩えは、ときどき危険です。お金には味がない。その根本的な論点に、ある種のすり替えがある。お金は量が問題なのです。
食事にたとえるならば、一定のカロリーなり栄養価なりを指標として、その数値目標の達成を志向するとしたらどうなりますか。この場合でも、人間にとっての食事は栄養の補給だけでは成り立たず、「おいしく飽きずに食べられる」ための固有の文化的条件を充足しなければならない。
そのようにして、病院や学校の給食が工夫されているのではないのか。そうだとすれば、資産運用の技術は、板前の技術よりも、栄養士の技術に近いのではないのか。文化的な食事の条件を充足しながら、一定の数値課題を実現する、そのようなものが、技術なのではないでしょうか。
一つの分野で、おいしさを追求する板前の芸術的側面ではなくて、最低限のおいしさを条件として、科学的に栄養の組み合わせを実現するような栄養士の技術的側面に、より多く、資産運用の技術につながるものをみる、ということでしょうか。
そうです。板前が技術を発揮できるのは、特別なおいしさを求める特殊な趣味的な顧客の存在を背景にしています。それに対して、栄養士の仕事を支えているのは、病院や学校の一般的な社会的需要です。そこが、根本的な違いでしょう。
あるいは、別のいい方をすれば、特定分野における趣味的なこだわりに応えることと、食べるという一般的な社会的需要に応えることとは、異なるということです。そして、資産運用は、個人の趣味として行われるのではなく、企業年金などの社会的責務を帯びた投資として行われる場合には、本来は、株式や債券という特定分野におけるこだわりにではなく、全体としての資産構成の適切さにこそ、その重要な機能がなければならないということです。
それはそうでしょうが、例えば、企業年金の場合には、資産運用の全体を、運用の委託者としての年金基金の意思決定と、運用の受託者としての運用会社の意思決定との二つに分けて、管理している。資産の選択や構成という意思決定は、委託者としての年金基金の問題であって、運用会社の問題ではない。運用会社にとっては、特定分野でのこだわりが、そのこだわりだけが仕事なのではないでしょうか。
現実はそのとおりでしょう。しかし、常識的に考えれば、実におかしい。資産構成が運用成果に大きな影響を与える。特定分野での銘柄選択は、その効果が小さい。一方、より高度な資産運用の専門性をもつのは、年金基金ではなくて、運用会社のほうでしょう。
ということは、専門家のほうが、より小さな仕事をし、専門家でないほうが、より大きな仕事をしていることになる。これは、社会の常識からみれば、少しおかしいでしょう。
では、資産の構成のような基本的なこと、投資成果に一番大きな影響を与えることをこそ、運用委託の目的にすべきということでしょうか。それは、いわゆる「お任せ運用」ということなのでしょか。
そこが、究極の問いです。なぜ究極かというと、資産運用が事業であるのは、運用の委託を受けているからであって、委託とは、当然ですが、何らかの意思決定を任されているということです。「お任せ運用」でない運用などないのです。
委託者たる年金基金の立場からいえば、何を任せるかが、究極の問いになるのです。運用会社の運用の巧拙よりも、運用委託者の委託の巧拙のほうが、圧倒的に重要だということでしょう。運用会社の運用の巧拙を論じることに意味が生まれるのは、運用会社が運用の巧拙を十分に発揮できるような、あるいは、発揮せざるを得ないような、そのような運用委託の工夫がなされるときだということです。
年金基金等の資産配分の決定には、実は、何種類もの異なる方法があり得る。いわゆる「伝統的四資産分類」に基づく運用委託など、たくさんの可能性の中の一つにすぎないのです。
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。