オリンパスの製品が、例えばカメラが、好きなのですか。それとも、あの不祥事にもかかわらず、オリンパスという会社が好きだとすると、なかなかに、変わった好みといわざるを得ませんね。
これまでにも繰り返し述べてきたことですが、オリンパスの不正と称するものの具体的内容とは、要するに、有価証券投資等に起因して1990年代に生じていた未実現損失(いわゆる含み損)を、正規な会計処理によって認識せず、高度な技巧を凝らし、また長期の時間をかけて先送りし、近時の買収案件に絡めて巧妙にのれんに転換し、のれんの償却という形態で償却したこと、これに尽きます。
いうまでもなく、これら一連の処理は、不適切な会計処理であって、従って、正しくないという意味では、まさに不正な会計処理であった、ということです。それは間違いない。しかし、それでは、会計処理方法にかかわる技術的な不正の他に、何らかの実体的損失なり、弊害なりがあったかといえば、ないとはいえないまでも、実のところ、著しく正義に反するという意味での不正は見当たらないのも事実です。
不正な会計処理とはいえ、架空利益の計上のような悪質なものではないのです。そもそも、なぜ、このような手の込んだ細工をしたのか、理由もよくわかりません。実質的な経済的損失は、複雑な操作に関連して発生した費用が171億円あるだけです。操作に関係した経営者や従業員が不正な個人的な利益を得た節も見当たりません。総じて、他者を害するような悪意、あるいは不当に自己の利益を得ようとするような悪意を、見出すことができないのです。
悪意がなければよい、ということでもないでしょう。
敢えていいますが、私は、悪意を感じないどころか、歪んだ善意のようなものすら感じます。おそらくは、この不正経理にかかわった人たちは、誰のためでもなく、ひたすらに会社のためを思っていたのだと思います。そこに、会社人間としての社会常識を欠いた哀れな人の姿を見ることは見ますが、決して悪人を見出すことはできないのです。
私の心情からすれば、そのような人を批判することも、軽蔑することも、嫌うこともできないのです。どちらかというと、好きだというしかない。同時に、そのような人を生んでしまうオリンパスという会社についても、どちらかというと、好きだというしかない。故に、表題のとおり、オリンパスが好きです、になるのです。
当事者は、社会常識の一端を欠落させ、不正な会計処理の重大な反社会性を正しく認識することなく、歪んだ善意のもとで、会社のためだけを考えて、ことをなしたのでしょう。しかも、実害を最小限にとどめ、そういってよければ、実に手際のいい仕事をしたことに対し、もしかしたら、満足、あるいは誇りすら、感じていたかもしれません。悪人だとしたら、滑稽なくらいに真面目な悪人だといわざるを得ません。
そもそも、これは、悪質な犯罪でしょうか。それとも、悲しい喜劇でしょうか。誰が、悲しい喜劇の主役を憎むことができましょうか。不思議な好意を感じることは、異常でしょうか。大体が、ウッドフォード氏を社長に起用したこと自体が、悪さの認識のなかったことの証拠ですよね。そのウッドフォード氏からことが露見するというのは、ほとんど滑稽な感じがするくらいです。
会社のために不正な会計操作が行われていたのだとしたら、その限りにおいて、会社の不当な利益が意図されていたのではないでしょうか。そこに組織としての悪意はないでしょうか。
そこが一番難しいところですよね。そもそも、会社のためとはいえ、会社の何の利益のために、このような大がかりで手の込んだ不正経理が行われたのでしょうか。よく理解できないですね。いずれにしても、不正経理を長年にわたってとり仕切ってきた人々にとって、それが会社のためだと思えたとしたら、何らかの会社の利益を想定していたのでしょうが、それは何だったのでしょうか。
前回の論考でも指摘しましたが、実は、第三者委員会報告書でも、この肝心の原点の理由は明らかにされていない。おそらくは、原初の経緯は、もはや古いことで、当事者自身にもわからなくなってしまっていたのでしょうね。もちろん、一度不正が始まってしまえば、後は、その隠蔽と時間をかけた最終処理自体が自己目的化したのでしょうから、不正経理の維持に利益があることになったのでしょう。ただ、どうしても、原初の理由はわからない。
自己資本比率を、非常に長い間、不当に高く偽装したことは間違いないですね。
そうですね。もしも、悪意ある操作だとしたら、自己資本比率の偽装でしょうね。含み損失の簿外移転の転機とされる2001年3月末では、オリンパスの総資産は5841億円、純資産は1922億円でした。この時期における含み損失の総額は約1000億円とされています。この金額を単純に総資産と純資産から控除すると、2001年3月期の自己資本比率は、33%から19%に急激に下がってしまいます。一方、この時、有利子負債が約2300億円もあったわけです。
こういう状況からしますと、1000億円の損失を一気に償却することは、それなりに大きな影響のあることで、勇気のいることであったようにもみえます。ところが、逆に、損失償却を吸収できる財務体力のあったことも事実です。事実、この時のオリンパスは、他の上場企業に比して、著しく財務内容が弱かったわけではないと思います。
昭和バブル期のいわゆる「財テク」に起因する含み損は、多かれ少なかれ、多くの会社にあったのです。この点は、第三者委員会も指摘しています。しかし、オリンパスだけが、なぜか、償却を避けて経理操作に走ったのです。その点も、第三者委員会は指摘しています。おそらくは、オリンパスと同等の財務内容の会社で、同等の含み損を抱えていた会社は、損失償却を実施したのだと思います。実際、財務体力的には、償却が可能だったからです。なのに、なぜ、オリンパスは、そうしなかったのでしょうか。ここが、本当に、よくわからないところです。
2009年3月期に、のれんの巨額償却という形で、繰り延べられてきた損失は、一気に実現します。その結果、この時点で、オリンパスの総資産6276億円に対して、純資産は940億円となり、自己資本比率は15%にまで急低下してしまいます。このとき、有利子負債は、約6700億円にも達していたのです。財務安定性は、この時点で、2001年3月期の実態と比較してすら深刻に悪化した状態に、陥ります。
しかし、それから2年半、事件が明るみにでるまでは、この著しく低い自己資本比率、自己資本に比して過大にみえる有利子負債の問題は、オリンパスの経営に大きな不都合を与えてきたようでもありませんし、株価も、どちらかといえば堅調に推移してきたようです。結局、この操作が、自己資本を見かけ上維持するためだったとしたら、その効果といいますか、実益はどれくらいあったのでしょうか。私には、よくわからないのです。
少なくとも、結果から判断する限り、苦労して操作した割には、実益はなかったように思えます。少なくとも、事実上の債務超過を回避する目的で損失を隠してきたというような、明確な理由と実益があるわけではないのです。実際に、含み損を加味したとしても、事実上の債務超過に陥っていた期間はないものと考えられています。つまり、操作によってオリンパスが得たものは、ほとんどないのだと思います。はっきりいって、愚かしいということはいえても、悪賢いとはいえない仕事です。
操作には、かなりの経費がかかっていますね。これは、まずいのではないですか。
もちろん、まずいに決まっています。処理された損失額が1177億円であるのに対して、その処理に要した金額は1348億円とされています。その差の171億円が、操作に要した経費です。この171億円の損失については、全く正当性がなく、当事者の責任が厳しく問われることは、自明でしょう。
しかし、それとても、極端に過大な費用とはいえない。1000億円を10年間にわたって手の込んだ処理をしたとして、その経費が171億円ですから、年率1.7%くらいの経費率になるにすぎない。金利(その他の手数料を含む)と考えれば、著しく過大であるわけではありません。このようないい方が少し不適切なことを承知で敢えていいますが、仕事の規模と長さと複雑さからすると、最少の費用で上手にやったな、というのが私の実感です。
第三者委員会報告書は、操作に関与した協力者として、外国の銀行三行と日本人三名の具体名を明らかにしています。もちろん、私はこういう手合いは大嫌いです。おそらくは、これらの銀行や個人は、それなりに儲けたのでしょうね。オリンパスの足元をみて、割高な報酬を得たのでしょう。しかし、法外な暴利をむさぼった、というほどでもないようです。
また、ここから先に反社会的勢力へ資金が流れたという事実もないようですし、オリンパス内部の関係者の個人的利得に還元されたものも、少なくとも、これまでの調査では、ないようです。要は、必要最低限の経費内で上手に操作したという感じです。ここにも、オリンパスの当事者の悪意のようなものは感じません。むしろ、真面目な会社員らしい仕事ぶりを感じます。つまり、きちんと会社の仕事として上手に実行されているわけです。誰もが、その非常識さには呆れるでしょうが、一方で、妙に感心してしまうのは、私だけでしょうか。
新事業創生という理念はどうですか。嘘っぱちだったようにもみえますが。
もしも、新事業創生というのが、損失処理のための適当な買収案件探しのことにすぎなかったとしたら、これはもう、弁護の余地のない悪意に満ちた行為ですよね。ところが、新事業創生という経営課題自体は、ちゃんと真面目なものであったようです。一方、その新事業創生を不正な経理操作に利用したのも事実なのです。さて、どれくらい、新事業創生は真面目なものだったのか。ここのところが、オリンパスの行為の社会的評価として、一番重要な論点になるのではないでしょうか。
まず、アイ・ティー・エックスの完全子会社化について、第三者委員会報告書は、その株式の取得の原初の目的が株価の値上がり益により損失の穴埋めをしようとしたものだ、と断じています。これは、いけませんね。ところが、アイ・ティー・エックスの買収は、不正な経理操作の舞台には使われなかったのです。株価の値上がり益を得るどころか、逆に損失を出したことが、別の経理操作を工夫させることにもなり、また、完全買収という形で失敗を隠蔽してしまう結果につながったようです。
一方、操作の舞台となった国内の新事業三社ですが、初期投資に使われたオリンパスが設立した投資ファンドは、結果はともあれ、新事業創生を目的とした活動はしていたようです。その投資案件の中から、おそらくは、新事業創生の名目にも合い、同時に経理操作の舞台に使いやすかった、三社が選ばれたのでしょう。どうも、新事業創生ではあるものの、必ずしも純粋な動機で決定された案件でもないようで、判断の難しいものになっているようです。
ジャイラスの買収は、もともとは、経理操作に便利なように、もっと買収金額が大きくなる(つまり、その分、のれんも大きくなる)案件を探していたところ、オリンパスの本来の事業多角化の方向性もあって、結果的にジャイラスが選ばれたようです。ここは、どちらかというと、新事業創生という目的のほうが勝っていて、経理操作は従の位置づけだったのではないでしょうか。事実、必ずしも買収金額が大きくない案件を使って巨額な操作をしようとしたので、法外な手数料を利用するという非常に無理のある手法がとられることとなり、結果的に、事案を露見させる一つの糸口を与えることになったのです。
さて、全体として、どう考えたらいいのでしょうか。経理操作目的のために買収したのか、新事業創生のために買収したのだが、たまたま都合がよかったので経理操作に利用したのか。どちらともいえないようですね。両方の意図があったのであろう、ということくらいしかいえません。
これは、私の感覚的なものですが、おそらくは、新事業創生という理念自体が、オリンパスの経営内部では、甘いものだったのではないでしょうか。その甘さが、買収事案を経理操作の舞台とすることに対する抵抗感を小さくしていたのだと思います。ここで甘さというのは、多角化という名のもとでの単なる規模を追求するだけ拡大路線、幻想を追いかけるがごとき経営の趣味にすぎないような事業構想、要は、漫然たる拡大路線のことです。
私は、ここでも、オリンパスのしたことに悪意をみることができないのです。悪意ではなくて、単に緩みきった甘い体質をみるのみです。
まさか、そのような甘い体質は好きではないですよね。
大嫌いです。オリンパスが好きだというのは、そういう意味ではない。そうではなくて、そのような甘い経営でも高収益を維持してきた、そのオリンパスの優秀な事業が大好きだ、という意味です。つまり、超高収益の内視鏡事業がなければ、オリンパスの推進してきたような甘い新事業創生など、成り立たなかったのだ、ということです。ここに問題の深層があるのです。
第三者委員会報告書は、オリンパスの経営体質の欠陥を非常に厳しい論調で徹底的に批判しています。そして、そこに、今回の事件の原因をみようとしています。しかし、報告書が指摘するような経営体質は、オリンパスに固有のものとは到底思えません。程度の問題で、どこの企業にも、日本の企業というよりも世界中のどの企業にも、あることだと思います。オリンパスの程度が少し悪いだけだとしたら、このような異常な事件がオリンパスに起きたことを説明できません。
オリンパスの特殊性は、世界に冠たる内視鏡事業の高収益性にあるのだと思います。そして、その事業からあがる収益を、新事業創生という綺麗な名前のもとで、漫然たる事業拡大に投入するとした、その甘い事業構想こそが、深層にある問題性なのです。新事業創生の名のもとの損失であれば正当化される環境にあったからこそ、買収に伴うのれんの形で損失処理するという仕組みが成り立ったのです。これが、事件の真の原因でしょう。
オリンパスの経営体質の欠陥は、企業統治の仕組みという形式の問題であるよりも、企業戦略という実体の問題であったと思います。つまり、あまりにも優良な内視鏡事業の上には、あまりにもお粗末な経営機能があったわけです。
オリンパスの事業は優秀なのです。特に内視鏡事業は日本の宝とまでいえるほどのものです。その事業を作り出したのも、オリンパスです。だから、私は、オリンパスが好きなのです。しかし、事業経営として優秀であることは、企業経営として優秀であることを、意味しない。オリンパスは、優秀な事業を経営しながら、その上に、もうひとつ上の企業価値を築くことができなかったのです。つまり、事業経営はできても、企業経営はできていなかった。これが、今回の事件の温床であるわけです。
難問ですな。優秀な事業をもっていることが、経営能力を育てなくするのですね。
おそらく、オリンパスに限らず、日本企業に共通する問題でしょうね。日本企業は、多数の優秀な事業、世界最高水準の事業をもっている。ところが、その事業の上の経営は、必ずしも、事業価値の複合から独自の企業価値を生み得ていない。であれば、再度、原点の事業経営へ回帰していくべきではないのか。選択と集中とは、本来、そういうことでしょう。
オリンパス問題をオリンパスの特殊な問題に矮小化したいのが、他の多くの日本企業の経営者の本音でしょう。本当は、オリンパス問題の深層は広く日本全体に及んでいるのです。そこを、きちんと理解してほしいですね。
ともかくも、オリンパスの内視鏡事業に代表されるような日本の優秀な事業こそが、これまでの日本の成長を支えてきたのだし、今後の日本の再成長軌道への転換を支えていくのでしょう。オリンパスの経営体質を批判することは誰にでもできます。しかし、もしも、オリンパスが再び元の輝きをとり戻すとしたら、それは、オリンパス自身が、自己の事業価値を、その事業を支えてきた物作りの文化を、その文化を支えてきた人の力を再確認して、自信をとり戻すことからしか、始まらないでしょう。
元のオリンパス社長であった下山敏郎氏は、「従業員がかわいそうだ」、「このままでは社員に申し訳ない」、といわれたようですね。
株主よりも従業員が先にくる発想、こういう発想様式に日本の企業の古さをみるのは容易ですが、一方で、こういう文化のもとに今日のオリンパスの事業が築かれてきたのも、事実です。オリンパスの復活は、より広く日本の再成長は、おそらくは、原点にあった日本の力を今に甦らすことに、その起爆剤を求められるのではないでしょうか。もちろん、昔のままに甦らすわけにはいかないのですが、その基底にある精神の復活は必要ですよね。
そういう意味を込めて、改めていいますが、私はオリンパスが好きです。良し悪し以前に好き嫌いがくるのが、自然です。好きだからこそ、良くできるのですから。ウッドフォード氏も、オリンパスが好きだからこそ告発したのだ、というような趣旨を述べておられたと思います。ウッドフォード氏が、ご自分がオリンパスを好きである理由に基づいて、オリンパスの改革を実行されるなら、戻ってこられたらいいでしょう。
以上
以上の議論は、過去の論考を前提にしたものですから、できましたら、下にある関連論考を合わせてお読みいただけると、幸いです。次回更新は、12月22日(木)になります。
≪ オリンパス関連≫]
2011/12/08掲載「オリンパスの第三者委員会調査報告書」
2011/12/01掲載「オリンパスの株価が下がった理由」
2011/11/24掲載「オリンパス問題の深層 」
2011/11/17掲載「オリンパスのどこがいけないのか」
2011/11/10掲載「オリンパスの悲願と裏の闇」
≪ 東京電力特集最新版≫
2012/03/01掲載「東京電力の不徳のいたすところか」(最新コラム)
2012/02/23掲載「東京電力の無過失無限責任と社会的公正」(最新コラム)
2012/02/16掲載「東京電力の責任よりも先に政府の責任を問うべきだ」
2012/02/09掲載「政府の第一義的責任のなかでの東京電力の責任」
2012/02/02掲載「東京電力の責任が政府の責任より大きいはずはないのだ」
2012/01/26掲載「東京電力の株式の価値」
2012/01/19掲載「東京電力を免責にすると国民負担は増えるのか」
2012/01/12掲載「東京電力免責論の誤解を解く 」
2012/01/05掲載「東京電力の免責を否定した政治の力と法の正義」
2011/12/22掲載「東京電力の国有化と解体」
≪ JR三島会社関連≫
2011/10/06掲載「JR三島会社の経営安定基金のからくり」
2009/07/23掲載「JR三島会社の経営安定基金と大学財団」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。