銀行には大量の融資案件がくるのでしょうから、審査の効率化は大切なことです。効率性だけでなく、審査基準の客観性と透明性も大事です。そうすると、どうしても財務諸表などの数値情報の解析による審査に大きな比重がかかるようになる。でも本当は、その数値解析から漏れる要素を拾ってこそ、「産業金融の王道」を貫けるのだということですね。
どうみても貸せる先と、どうみても貸せない先、この両極は明瞭なのでしょうね。でも、どちらも、貸す側の銀行にとっては、損にも得にもならないと思います。というよりも、商売にならないということです。それは、そうでしょう、どうみても貸せる先は、確かに損はないでしょうが、誰でも貸せる先なので競合が激しく、金利が最低に収斂してしまって利益はでないし、どうみても貸せない先は、そもそも融資しないのだから、損も得もない。
安全な融資先は資金需要が弱く、資金需要が強い先は必ずしも安全ではない。これは、金融の構造的な矛盾です。本当は、金融取引にも市場原理が働くのですから、価格(融資の価格は金利ですね)の調整によって需給は見合うはずです。つまり、理論的には、貸せない先などないのです。銀行が貸せないと思うくらい内容の悪い融資先については、その大きな危険性を織り込んだ価格(金利)が適用されるだけなのです、市場理論的には。
ということは、金利には市場原理が働かないということでしょうか。
さて、そういい切ることには躊躇を感じます。おそらくは、非常に込み入った仕方で、どこかで市場原理が働いているのでしょうね。ただし、銀行という高度に規制された業態のなかの現実としては、金利の需給調節機能には、明らかな限界があります。ですから、現実として、貸せない先というものが生まれてしまいます。
わかりやすい制約としては、法律上の金利の上限があります。もっとも、法律で金利の上限を規制することについては、その妥当性について深い議論があります。当然といえば当然ですが、市場理論からいえば、上限を設けることで金利による資金需給の調節機能に歪みがでるのは自明ですから、市場原理主義者からの批判があるわけです。
それから、審査に要する費用と所要資本の制約の問題もあります。特に、銀行の資本規制が著しく強化されてからは、資本制約は大きな問題です。簡単にいってしまえば、貸倒損失等の信用損失について、銀行の経営の健全性を損なうことがないように、損失の見積額に対応する自己資本の留保が求められるので、その所要資本に対応する資本利潤もまた、費用になってしまうのです。
これらの費用を総合的に考慮して金利の原価を見積もると、危険性が高くなるにつれて信用創造の原価が急速に上昇していきますので、法定の金利上限が効いてきて貸せない先が生まれるということでしょうね。これが銀行業の仕組みです。
そうはいっても、銀行として貸せる先の範囲内では、市場原理に基づいた資金需給の均衡が実現しているのではないでしょうか。
ある程度は、そういえるのでしょうね。事実、リスクに応じた金利、ということもいわれています。しかし、市場原理というのは、原価に利益をのせて価格を決められるということではありません。それでは、電気事業の総括原価方式と同じで、市場原理ではありません。
問題は、信用創造の原価を金利に反映できるかということです。ところが、銀行の資金量に比して融資残高が小さい現状では、そもそも資金供給能力と資金需要の間に大きな構造的不均衡があるのですから、金利を高くすることは難しい。要は、過剰な競争が、まさに市場原理として、金利の低下を帰結しやすいのです。
そうすると、貸せない先を切り捨てて貸せる先に顧客を絞ると、そこでは競争が厳しくて、なかなか利益のでるような融資案件を作れないということでしょうか。
おそらくは、それが日本の銀行の現在の構造問題ではないでしょうか。かといって、本業以外の有価証券運用の環境もよくないですね。やはり資本規制の影響で、主たる投資対象が国債では、金利が低くすぎて利益などでない。投資信託の販売や投資銀行業務からあがる役務収益ですが、これも現状では伸びていない。銀行にとっては厳しい経営環境ですね。
だからこそ、改めて本業としての産業金融の王道に立ち返るべきではないのか、というのが主張なのですね。
そうです。ここで、産業金融の王道に立ち返るということは、何を意味するのか。それは、財務諸表分析による一次審査によって貸せる先と貸せない先に分類された後の二次審査の強化のことなのです。
これは当然のことでしょう。財務諸表分析のような数字の分析では、多少の技法の差があるにしても、どの銀行でも同じような結論がでるのであって、そこに本質的な競争はなく、真の競争は、その先の融資判断にあるのは自明だからです。要は、数字では表現されない要素についての定性的な判断にこそ、銀行業の本質がなければならないのです。そこにこそ産業金融の王道があるのです。
そこで、数字上は貸せない先に貸してこそ、という今回の表題になるのですね。
念のために申しますが、数字上は貸せない先というのは、多くの場合、融資判断上も貸せないと思います。しかし一方で、少なからざる事例において、数字を超えた精査によって、融資可能になる場合もあるだろうということです。
ここで大切なことは、融資判断は、あくまでも銀行の責任における融資判断であるということです。そうでなければ、信用の規律が揺らいでしまうからです。悪名高い亀井静香先生の円滑化法(正式には「中小企業者等に対する金融の円滑化を図るための臨時措置に関する法律」という長い名前)のように、数字上の基準から外れた融資先について、銀行が条件緩和等の措置を行うことに対して法律のお墨付きを与えてしまうことは、非常に危険なことです。
融資の難しいところは、業況の変化によって債務者の属性値が変化していくことですが、財務諸表上の数値が一定の範囲を超えて悪化してしまえば、所定の手続きに従い融資判断の変更をせざるを得ないわけです。判断の結果として、銀行としての自己の責任において支援を継続すべきと考えれば、そうすればよく、それを法律の要請の名のもとに行うことは、信用規律の崩壊の危険すら孕むことといわざるを得ません。
もっとも亀井先生は、今の銀行には産業金融の王道を貫くような気概はなく、法律でも作らなければ、数字上の形式判断だけで安直にことを済ましてしまうだろう、というふうに考えられたのかもしれません。その限り、私も心情的には亀井先生に近いですが、立法に及んだのは明らかにいきすぎだったと思います。
話を元に戻すと、数字上は貸せないが敢えて定性判断でならば貸せるというのは、どういう場合でしょうか。
簡単な例でいうと、二期連続赤字です。商売には浮き沈みがありますから、単年度の赤字転落は、ごく普通にあることでしょう。しかし、二期連続赤字となれば、一時的な景気変動の影響か、事業構造に起因する深刻な問題かは、簡単に判断できません。その簡単ではない判断を要求するためには、二期連続赤字という数字上の問題点を指摘して注意喚起することが必要です。しかし、それは二期連続赤字だから融資できないという結論を安直に導くためではないのです。
おそらくは、好意的にみて、亀井先生の問題意識はここにあったのでしょう。今の銀行は、行内規定の適用を安直に考えすぎているのではないのか、二期連続赤字が、本来は単なる注意喚起のために機能すべきものなのに、それがそのまま融資判断の基準に使われてしまっているのではないのか、そのような疑念が亀井先生にはあったのでしょう。そこは、私も全く同様に考えているのです。
つまり、数字上の第一次審査は、本来は決して融資判断ではないのです。そうではなくて、融資判断を行うための精査の方針を決めるためだけのものにすぎない。あくまでも、本当の審査は、第二次的な精査に基づく融資判断にあります。問題は、第一次の数字による審査が、第二次の本当の審査を経ることなく、そのまま通過してしまってはいないか、という疑念にあるのです。
ここで、私は、今の銀行を非難する気はありません。審査には人手も費用も所要資本もかかります。先ほどいいましたように、信用創造の原価が高いわけです。その高い原価を金利に反映できるかどうかは、なかなか難しいところです。そこに銀行の悩みもあるのです。
ここで、銀行業の本質を考えてみましょう。もともと金利競争が起きる背景は、お金には商品の差別優位がないからです。そこが製造業の競争とは違うところです。製造業は製品の差別優位を競うのであって、差別性のない商品の価格競争を行えば、繁忙貧乏になるだけで利益などでないのです。しかし、銀行業もまた収益事業であるならば、融資の差別優位ということがなければなりません。それが銀行独自の融資判断であり、金融庁もいっている顧客密着金融ということの本質なのです。
要は、銀行は事業の本質へ立ち返るしかないのです。それを私は産業金融の王道といっているだけです。
ところで、もしも安直に数字だけで融資判断をするとしたら、数字上は貸せても本当は貸してはいけないところに貸すことになる危険性もありますね。
おそらくは、それが新銀行東京の巨額損失の一つの背景でしょうね。要は、数字上貸せる先だけに安直に貸していたのでは、銀行の利益はないばかりでなく、審査能力の低下が信用損失の拡大も招くのです。利益がなくなり損失が増えれば、銀行の経営は行き詰まります。だからこそ産業金融の王道へ立ち返らなければならないのです。
以上
次回更新は11月15日(木)になります。
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森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。