やはり、現実の問題として、原子力発電を含めた電気事業に関する実務能力は、東京電力を頂点とした電気事業連合会体制のもとに偏在してきたのだろうと思います。
原子力事故のあと、東京電力の経営体質に関して、多くの批判がなされました。興味深いことに、批判の中心は、原子力政策における東京電力の絶大なる影響力にあったといっていいでしょう。つまり、東京電力の側に原子力発電に関する経験と知識が偏在していたがゆえに、原子力政策そのものが東京電力の事実上の影響下にあったため、誰も東京電力を監視・監督できなかったことが事故の原因とみなされているのです。これは単に原子力発電についてのみ当て嵌まることではないはずであって、電気事業の全体について、同様の状況にあったと思われるのです。
こうした状況認識を背景にして、私は、東京電力問題に関する一連の論考を通じて、ただ一つのことを主張してきたのです。つまり、東京電力の責任よりも先に政府の責任が問われるべきではないのか、この一事のみです。
なぜ、情報や知識が東京電力側に偏在していたことをもって、東京電力が批判されなければならないのか。そのような状況を招いたのは、政府が、原子力政策を含む電気事業政策の全体を、東京電力以下の電気事業連合会加盟各社に丸投げしていたからであって、原子力事故の責任を含めて、電気事業政策の問題についての真の責任は、そのような政府の手抜き行政にあるのではないのか。ゆえに、私は、原子力損害補償責任についても、政府の責任が主で東京電力の責任が従であるとの主張を一貫して行ってきたのです。
原子力発電については、そもそも国策としての原子力発電を民間の電気事業者に行わせたことから、国策であるにもかかわらず、政府側に原子力発電に関する経験と技術の蓄積が行われなかったのですね。
それにしても、原子力発電が国策であること、このことの確認が重要です。今、政治の場で大きな争点になっているのは、原子力政策です。政治家が、その廃止や縮小を政治課題に掲げるならば、それは国策だからです。原子力発電が、世界唯一の被爆国の日本で、国民の難しい決断として始められたのも、そして、それが今日まで続いているのも、国策として行われてきたからです。
国策を民間事業者に行わせること、国策として民間事業者を育成することは、特におかしなことではないですが、原子力発電のように高度な規制と監視が要求される分野については、事前に注意深く制度設計をしておかなければ、おかしなことになる危険性も自明であったと思われます。これも事故後に指摘されたことですが、東京電力を規制・監視する立場にあるべき政府部門が、逆に東京電力によって絡め取られ操縦されていたという状態は、政府が民間に丸投げする形で原子力発電を推進してきたことの当然の帰結であったはずです。
事故後の各種調査報告書は、基本的な事故原因を政府の規制・監視機能の欠陥に求めているのであって、現象面として、その欠陥の裏にある東京電力の隠然たる力や不遜で傲慢な態度を批判していたとしても、それは国民感情迎合的で政治責任回避目的の文学的修飾にすぎないのです。
政府も世論も、東京電力を怪物的な黒幕の悪者に仕上げようとしましたが、仮に東京電力がそのようなものであったとしても、東京電力をそのようなものとして育て上げたのは、当の政府です。政府が高度に技術的なことも含めて、全てを東京電力に任せたがゆえに、東京電力を管理することができなくなったのです。そこに、政府の大きな責任がある。
そうして原子力発電が政治的に管理できないものになってしまったから、今度は急転直下、政治的に脱原子力発電というのでは、あまりにも無責任ですね。
日本の経済社会体制は、少なくとも建前としては、民間資本の自由な活動に基礎を置くわけですが、原子力発電のような特殊なものについては、高度な規制が必要であるわけです。民間電気事業者に原子力発電を任せつつ、その民間事業者を管理・監督できるだけの知識・経験・技能を政府部内に蓄積することがどうしたら可能になるのか。そこの工夫こそが、原子力政策です。それはそうでしょう、原子力発電自体は、民間の企業が行うのですから、政府の役割は他にないでしょう。
ところが、政府は、政府の仕事を何もしてこなかった。東京電力を頂点とする9社の電気事業者に、全てを任せたのです。規制の根幹にかかわることまでも任せてしまったのです。その結果として事故を防げず、その事故の結果として、東京電力が批判を受け、挙句の果てに脱原子力発電、これはおかしいでしょう。政府こそが、無責任な手抜き行政について、全面的な批判を受けるべきであり、政府の無策を原子力発電自体の廃止で片づけるというのでは、あまりにも無責任です。
そして、今度は、どの政党も、程度の差こそあれ、基本的に原子力発電の縮小もしくは廃止を提言しています。しかし、かような提言自体は、政策としての実現可能性を欠いた無責任なものです。政策について重要なのは、脱原子力ではなくて、脱原子力の方法です。産業政策的に必要だからこそ国策として行われてきた原子力発電です。脱原子力は、産業政策全般における電気事業政策の抜本的転換を意味します。その大きな構想抜きでは、脱原子力は空疎です。
政策は、大きな課題から系統的に派生的な課題へと論理的に配置しないと、実現可能性が希薄になります。もしも脱原子力発電を、科学哲学的な思想信条の問題として政策課題にするなら、その経済的技術的な意味における実現への道筋を示さないといけません。それができないなら、実現不能な無責任な放言になるか、無策のまま実現を強行すれば、電気の安定供給を危機に陥れ、廃炉の安全性も保証できないような危機的事態を招くだけです。
原子力事故の原因については、少なくともこれまでの調査報告等によれば、原子力技術自体の問題ではないことになっています。そうではなくて、その技術制御にかかわる人的組織の問題とされているのです。はっきりと人災であるといわれています。ここについての抜本的改善策こそが問題なのです。仮に、脱原子力を実現するとしても、廃炉までは稼働させなければならず、廃炉自体にも、経済的負担や技術者の確保などの大きな困難な問題があるのです。代替電源の開発に要する巨額な投資資金の確保や、開発費用の電気料金への転嫁の問題など、とにかく多数の困難な大問題が絡んでいることなど、いわずもがなですね。
直接的な原子力の問題だけではなくて、それに関連した電気事業のいわゆる自由化という名の構造改革についての総合的な展望を示すことが、政治の責任として求められているということですね。しかし残念ながら、政権与党も含めて、どの政党も、何らの具体像を示せないなかで、脱原子力だけがいわれている。ひどすぎますね。
一つだけ明らかなことは、政党には、電気事業政策の立案能力など、全くないことです。別に電気事業政策だけではなくて、経済金融政策や産業政策については、どの政党も全く無知なのでしょうね。自由民主党の安倍総裁の金融緩和論など、無知蒙昧を曝け出していて、聞くほうが恥ずかしくなるくらいです。誰か専門家が注意したほうがいいと思いますが、みんな呆れて黙っているのでしょうか。
日本維新の会の橋下代表代行が、大事なのは政策よりも組織を動かすことだ、自分や石原氏には大阪府や大阪市、東京都という巨大組織を動かしてきた実績がある、と豪語していました。これは、政治家の発言としては、正しいのでしょうね。
政治における電気事業政策論議は、例えば、脱原子力の方向性、電源構成の多様化に伴って発電事業者の参入を容易にすること(いわゆる発送電分離を含む自由化ですね)、電源構成の転換が電気安定供給に影響を与えないようにする緩和策と、逆に新エネルギー基盤への巨額な投資が経済成長の起爆剤になるような産業政策の方向性、それくらいにとどまるのでしょう。
この先の高度な技術論は、行政機構の能力の問題です。いわゆる霞が関の官僚の問題です。ところが、橋下氏は、霞が関主導からの脱却ということもいわれています。さて、そうなると、誰が実践的で実務的で現場経験に裏打ちされた具体的政策立案をするのでしょうね。もっとも、実践的で実務的で現場経験に裏打ちされた具体的政策などという気の利いたものを霞が関の役人に期待するのは、最初から、役人と民間人の棲み分け上、無理かもしれませんね。でも、橋下氏が動かせると豪語しているのは、行政組織でしょう。さて、どうなっているのでしょうか。
民間を動かすしかないですね。行政組織を通じて民間に働きかけることで、官主導の官民関係を、政治主導によって民主導の民官関係に転換するということなのでしょうね。
そういう意味では、電気事業は、現にそうなっているのではないでしょうか。原子力政策が東京電力を頂点とした電気事業連合会体制によって担われてきたように、電気事業政策の全体が、電気事業連合会体制によって担われてきたというのが、実態ではないでしょうか。行政機構のなかで聖域化していたのは、原子力発電だけではなく、電気事業の全体です。
電気事業政策の結果として、現在の電気事業連合会加盟10社による地域独占が形成されたのでしょうから、最初は官主導の体制だったのです。しかし、それは、もはや歴史の問題にすぎない。現実としては、原子力発電と同じように、ひとたび体制が確立した段階で、官も手を出せないような民主導になってしまっているのでしょう。もはや官には経験・技術・知識の蓄積がないのですから、どうしようもない。
例えば、自由化を巡っては、有名な発送電分離の問題がありますが、その高度に技術的な問題について、どの政治家も、全く理解してはいないのでしょうし、おそらくは、政治家だけでなく電気事業連合会の外の人には、経験もないのですから技術的なことはよくわからないでしょう。
単に、多数の発電事業者が生まれても、送電網をもたなければ、電気が売れないので、事実上の参入障壁になる、だから、送電網の公共財化が必要である。ここまでは政策論としてはいいのですし、その先の技術的な議論は、行政庁なり、民間事業者の問題です。要は、橋下氏のいわれるように、行政組織なり、民間組織なりを動かせばいいのです。逆にいえば、行政組織なり、民間組織なりを動かせなければ、政策の実現はできない。さて、電気事業については、電気事業連合会を動かすしかないですね。
ところが、連合会は、当然かもしれませんが、発送電分離には反対のはずです。しかも、連合会は、発送電分離によって予想される弊害については、高度に技術的な論証をおこなうことができます。連合会は、連合会の外の新規事業参入者とはもちろん、監督官庁と比較してさえ、圧倒的な情報の優位のうえに立っているのです。
この構図は、原子力発電と同じです。東京電力の情報優位のもとでは、事故は防げなかった。ならば、電気事業連合会の情報の優位のもとでは、電気事業改革は容易ではない。さて、橋下氏に限らず、政権与党になった政党は、電気事業改革に反対の電気事業連合会を動かして、電気事業改革を推進しなければならない。橋下氏が豪語するように、この組織を動かすことができるのか。役人に対するような指揮命令は使えないのですが。
そのような背景もあって、政府は東京電力を強引に国有化したのではないですか。
私は、そのように思ってきました。国有企業である東京電力を上手に使う以外には、電気事業改革はあり得ないと思ってきました。しかし、東京電力は、今、弱体化の極にあります。国有化にもかかわらず弱体化したのか、国有化によって弱体化したのか。いずれにしても、とても、電気事業改革の推進者にはなれそうもないですね。
私は、東京電力悪者論にも、国有化にも、断固反対でした。独立民間企業としての東京電力の自己革新に期待しました。革新の担い手は人だからです。東京電力悪者論や国有化は、電気の安定供給に関わる東京電力の人々の誇りを破壊することで、結局は、電気事業改革の担い手の士気を殺ぐのではないのか。むしろ、東京電力が事故によって自律的に覚醒し、政府や国民との新しい関係の構築に向かい、原子力損害補償、事故を起こした発電所の安全な廃炉、電気安定供給、この三つの使命に誇りをもって取り組んでいくことを期待すべきではないのか。私は、今でも、同じ気持ちをもっています。
現実の問題として、電気事業改革の中核的な担い手となりうるのは、現在の東京電力に集積されている人材です。その人材に体現されている知識・経験・技術なしには、改革は行えません。もはや国有化された東京電力なのですが、それでも、東京電力(法人はなくなっても、そこに帰属した電気事業の専門家の人々)を中核とした電気事業改革以外には、方策はないのではないでしょうか。
今、その東京電力から、人材が流出しているそうです。今の政府や橋下氏などの政治家は、そうして、電気事業改革を担う人材が外部化することで、改革が実現されるのだと主張されるのでしょうが、はたしてそうでしょうか。電気事業を支えてきたのは、個人の知識や経験ではなくて、組織としての知識と経験ではなかったのでしょうか。改革は破壊ではない。改革の前に旧制度の破壊が必要なのでしょうか。そうだとしても、その破壊された基盤のうえに新しいものを再生させる力は、破壊されたもののなかにあるのではないでしょうか。
橋下氏が組織を動かすというとき、強権で組織を破壊し、強権で組織を再構築することを意味しているのでしょうか。組織を動かすということの真の意味は、組織の自律的変革の誘因を組織に与えることではないでしょうか。
以上
次回更新は12月6日(木)になります。
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森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。