産業金融については、これまでも、「産業金融の王道」という主題で何度か論じたことがあります。ところが、よくよく考えてみると、王道を歩むとは理念に忠実であることだから、先に理念を論じるべきだったのです。理念の導きがなければ、正しく歩むことはできないのでした。
では、産業金融の理念とは何か。まず、産業金融というからには、ただの金融ではありません。産業のための金融といえば、自明のことをいうにすぎないようですが、千差万別、多種多様に異なる産業界の資金需要に対して、それぞれに最適の多種多様に異なる資金供給の方法を工夫することは、現実的に極めて困難です。ただし、少なくとも確実にいえることは、金融の供給側の事情によって産業界の資金需要に適切に応えられないような事態は、産業金融の理念に反しているということです。
一方で、金融の機能には限界があります。金融の論理として、あるいは金融の制度的制約の問題として、資金供給できない状況というのも、いくらでもあり得るのです。その場合、もしも資金需要が正当なものであり、資金使途が社会的必要に基づくものならば、国の経済産業政策の見地から、資金調達を円滑化ならしめるように、国策として金融を含めた制度設計の全体を工夫しなければなりません。その工夫が産業金融の仕組みです。ゆえに、産業金融は単なる金融ではなくて、もっと広く大きな枠組みであり、理念であるわけです。
それは制度金融といわれるものではないのでしょうか。
制度金融というのは、産業政策を分担する各省庁や地方産業政策を担当する自治体などが行う公的金融の仕組みです。これも一種の産業金融の仕組みには違いありませんが、単なる直接的な金融面での補助政策であって、金融という本来の資本主義の原点であるべき領域に入り込んだ異質な公的部門の働きというものです。
このような民間の金融機能を直接的に補完する公的な制度金融は、産業金融としては、例外的なものと考えるべきでしょう。本来の産業金融は、あくまでも、民間の金融機能に対する工夫によって、産業界に資金供給がなされ得るように金融の外側の条件を整えることでなければなりません。むしろ、公的な制度金融が必要でなくなる方向に民間金融の活力を促進利用していくような政策こそが、本当の産業金融政策というものだと思われます。
産業金融の理念というとき、資本主義の原点としての民間金融の機能をこそ、主役として想定すべきであると思うのです。公的部門は後方支援的な役割にとどまるのが、本来の姿でしょう。ところが、我が国の場合、公的金融機能が大きな役割を演じています。私は、ここに大きな問題をみるのです。
公的金融機能が直接的に産業界に供給されることが常態となっているというのは、資本主義経済体制のあり方として、いかがなものか。資本の蓄積が不充分であった高度経済成長期ならいざしらず、現在のように資本の過剰蓄積の弊害のほうが目立つような状況でも、公的金融機能は必要なのでしょうか。そもそも、民間金融では対応し得ないような案件へ公的金融が利用されるというのは、その投資資金の回収可能性を徹底的に突き詰めていったとき、まさか回収を見込まない補助金では税金の投入方法として疑問があるし、逆に経済合理的な回収可能性を見込むならば民間金融でも対応できるはずであるし、さて、どう考えるべきなのでしょうか。
公的金融機能が直接的に産業界に供給される状況というのは、やはり、一時的な金融機能の不全のような場合に限られるべきなのでしょう。そういう意味では、最近作られた「官製ファンド」といわれる産業革新機構や農林漁業成長産業化支援機構などの役割はよくわかるのです。なにしろ、これらは、明確に、産業構造の変革を促進するための有期の制度として、構想されているのですから。
多くの制度金融のように、恒久制度化したものは、金融規律の側面からも原則として廃止の方向へ向かわせるべきではないのでしょうか。これら公的制度金融の替わりに民間の金融が機能していくような制度的条件を構築していくことにこそ、政策は取り組むべきでしょう。
では、産業金融というのは、民間の金融機能と金融の外の経済産業政策との連携ということでしょうか。
むしろ、民間の金融機能と民間の産業事業構想との連携というべきでしょうね。そこに補完的な公的政策連携が必要になる場合もあるということです。もともと金融が主役ということはあり得ないし、ましてや公的部門が主役ということもあり得ない。主役は、どこまでいっても、産業界です。産業界の事業投資があってこそ、そのための投資資金の調達があり、その調達に対して資金供給をしてこそ、脇役の金融としての投融資が成り立つのです。また、もうひとつの脇役として公的な補完措置があるのです。
問題の要点は、事業の構想だけでは、金融の論理として、簡単には資金供給できないことです。当然ですが、どのような事業にも程度の差こそあれ不確実性がつきまとい、特に新規の事業構想ともなれば、極めて大きな不確実性があるのです。金融の論理というのは、このような不確実性が管理可能な範囲にとどまること、一定の合理的に予測可能な範囲に制御できることを要求するのです。この不確実性の制御手段の体系が産業金融の仕組みなのです。
ならば、既に世界的にある程度標準化されている現行の金融制度の設計自体が、産業金融の仕組みではないでしょうか。
実は、そうなのです。例えば株式会社の制度と、株式を使った資金調達の役割が代表でしょうね。現代の資金調達は、株式に事業の不確実性を寄せることで、融資や社債による資金調達を可能にしているのです。債権者の立場からすれば、株式部分の厚みが損失を吸収してくれる限り債権の安全性は保たれるというわけですから、お金を貸しやすいのです。
そこで、重要な問題は、調達資金量の総体を、どのような比率で株式と債務(融資や社債)に分かつかということです。これが、金融の基本となる資本構成の考え方です。私が産業金融の理念というとき、強く意識している重要な論点は、この資本構成の考え方の徹底なのです。
現代の金融は、担い手が専門分野に分けられています。これも、金融制度設計の歴史的推移の結果として、そうなったのです。ゆえに、銀行は融資の専門機関となって、原則として株式の引き受けを行わない。社債や株式を投資対象としている投資運用業者は、通常は融資を行わない。これでは、投融資一体となって、お金を貸せる仕組みを構築してきた産業金融の理念が生きてきません。
私は、現代の金融は、専門化によって、産業界の資金需要に対して産業界の視点で立ち向かうという本来の姿を忘れたのではないか、資本構成の構築という金融の原点を見失ったのではないか、そのような思いを抱いております。ゆえに、産業金融の理念の復興という主張を展開しているのです。
金融内在的な制度的工夫のほかにも、産業金融には様々な工夫があるのですね。
「電気事業法」をはじめとする各種事業法は、鉄道や電気・ガスなどの公共基盤的産業を規制する法律ですが、ここにも産業金融の視点に立った工夫が凝らされています。これは当然で、これらの産業は巨額かつ長期にわたる設備投資を必要としているので、そのための資金調達を安定化させる仕組みが極めて重要だからです。
例えば、総括原価方式は、事業に関する不確実性を取り除いて資金調達を容易にする工夫ですし、先取特権を法定して社債権者を保護しているのも、銀行融資以外に社債による負債調達を安定化させるための仕組みなのです。
このような仕組みは、制度金融ではありません。事業法は、民間金融の働きによる産業生活基盤の整備を目的としたもので、民間金融が働きやすいように事業構造を規制しているのです。まさに、代表的な産業金融の仕組みです。
しかし、それは法律によって規制されたものですね。純民間の仕組みとしては、産業金融の理念はどう働くものでしょうか。
事業法の場合、事業にかかわる不確実性を取り除いて金融を安定化させているのです。金融の視点から見たときの要点は、事業の不確実性なのです。不確実性の制御は、本来は、純民間の工夫で行われるべきものであって、公的な補助制度や規制による保護などは、あくまでも補完にとどまるべきものです。
ここで重要なのは、産業連関という考え方です。事業の不確実性は、基本的に、売上げの不確実性に帰着します。最初から商品の価格と数量と販売先が決まっているならば、不確実性はないのです。誰かの製造した商品は別の誰かの原材料として別の商品に加工され、その商品がまた別の商品へ転化するという具合に、産業というのは商品販売の連鎖で構成されています。その連鎖の体系を産業連関というのです。つまり、産業連関が安定的に構築されていれば、商品販売の不確実性は小さくできるのです。
かつて、日本の高度経済成長期には、日本株式会社といわれたくらいに、日本産業全体としての産業連関が高度に設計されていました。いわば、川上に投資をすれば川下の豊かな平野を潤すように、全体の水流、即ち商品とお金の流れが、設計されていたのです。順次下へ商品の流れていくことが分かっている、つまり不確実性が小さくなっている、だからこそ、お金も安心して流すことができたのです。日本の高度経済成長は、高度な産業金融の働きが生み出したのです。
もっとも、日本株式会社の経営陣は、財務担当が大蔵省、事業担当が通商産業省という布陣だったのでしょう。それほどに、公的な規制や指導や補助による統制がなされていたのです。
今の日本には難しい課題があります。一つには、行政の指導ではなくて、民間の自律によって産業連関の再構築ができるのかということ、二つには、かつてのように閉じた系ではなくて世界全体に開いてしまった日本産業について、そもそも産業連関など構築できるのかということ、三つには、日本のなかで解体した地域の産業連関の復興はあり得るのかということです。この三つとも、現状では解がない。もう長いこと解が見つからない。ですから、金融の取り組みもうまくできない。悪循環の厳しい現実があります。しかし、なんとしても解を見つけないといけません。
要約すれば、産業金融の理念とは、資本構成と産業連関の理念に集約されるのですね。
資本構成の理念は、細分化された金融業態を超えて、産業界の視点で金融機能の再構築を図ることであり、産業連関の理念は、金融機能を超えて、産業の商流の設計に踏み込んでいくことです。
では、ばらばらの金融界、ばらばらの産業界を再統合して、安倍首相のいわれるように、一つの日本を取り戻すしかないのでしょうか。しかし、日本を取り戻すというのは、どういうことか。日本のなかで地域を取り戻すとは、どういうことか。国策主導のもと、地域と民間の役割はどうなるのか。地域主導、民間主導のもとでも、国次元の再統合ができるのか。国次元での統合など、世界経済のなかでは、外交的にも不可能(というよりも危険)ではないのか。実に難しいですね。しかし、民間の立場としては、できることをやるしかない。
以上
次回更新は1月24日(木)になります。
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森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。