人的資本、英語でいえば、human capitalであって、まさに、HCの屋号の謂れです。人の処遇については、よく、人件費という費用の扱いではなくて、人への投資という資産として考えるべきだといわれます。今回は、金融としての投資の理論的道具立てを使って、人への投資を理論化しようという試みですね。
実は、私は、2000年前後の数年の間に、人的資本投資という概念を核に、企業における人事処遇の金融的理論化を行い、現実の実務に応用して、一部からは、高い評価を受けていました。この処遇の科学を自負した体系には、独自の名称も付けました。Human Capital Accounting、略してHCAというのです。
2002年に、私は、HCアセットマネジメントを設立して、投資運用業に専念することとなり、HCAは、HCアセットマネジメントの略称になります。ただし、当初は、HCAに処遇の科学としての意味も残していました。残しておきたかったからです、そもそも、HCという屋号自体が、HCAの理念に基づいているのですから。しかし、その後、当社の略称もHCになり、HCAは完全に封印されました。
なぜ、今、HCAの封印が解かれたのでしょうか。
企業年金の将来について、強い危機感をもつに至ったからです。実は、HCAのなかでは、退職金に極めて重要な機能が与えられています。日本における企業年金の源流は、退職金制度にあります。退職金の支給形態に、退職時一括払いに加えて、退職後の年金として受給できる選択肢を導入したことが、企業年金制度の始まりだったのです。その企業年金の存続が脅かされるということは、退職金制度が危機に瀕するということであり、HCAの中核理念が否定されるということです。もはや、黙ってはいられない。
これまでも、日本の成長戦略における企業年金の重要性を論じてきましたね。
二つの経路から、日本の成長戦略における企業年金の戦略的重要性を論じてきました。第一が雇用の質、第二が成長資本の蓄積、この二つです。
第一の論理はこうです、日本産業の国際競争力は、価格にはあり得なくて、圧倒的な質の優位にしか見出し得ない、産業の質は雇用の質が規定する、雇用の質は安定雇用と長期勤続のもとでしか維持できない、退職金の前提は安定雇用であり、退職金の機能は長期勤続奨励である、企業年金は退職金の年金化である、故に、企業年金は成長戦略にとって重要である。
第二の論理はこうです、日本を再成長軌道に乗せるためには、大規模な構造改革が必要である、それには巨額な新規投資が必要である、その成長資本を民間部門で供給できるのは、日本の金融構造のもとでは、事実上、企業年金資金しかない、安倍政権は、成長資本の不足を政府資金で補完しようとしているが、同時に政府資金は「呼び水」としており、いずれ民間資本へ転換しなければならない、ところが、民間資本の受け皿としては、金融構造を簡単に変革できない以上、企業年金資金の強化と活用以外に方策はないはずである。
その大切な企業年金制度が危機に瀕するとは、どういう背景があるのでしょうか。
もともと、2000年前後にHCAが生まれた背景には、当時における企業年金の危機があったのです。当時の産業界にとって、退職給付会計の導入が最大の関心事でした。この新会計基準が危機を作り出したのです。
懸念された影響は、低金利下における債務評価額の増大です。もともと、日本の企業年金は、高めの利率を想定して債務額を算定し、その債務額を目標に資産を留保していたのですが、新会計基準の導入で、その積立利率を大きく下回る市場金利で債務を再評価することとなり、形式的に会計上の債務額が増大したのです。ところが、資産額は変動しないので、その差が大きな積立不足となり、会計上、その不足を貸借対照表上で認識しなければならなくなりました。また、退職給付費用も新基準で計上することとなり、企業の年金退職金への関心が一気に高まったのです。
企業経営の関心が高まること自体は、望ましいことです。しかし、当時の事情として、止むを得ないことだったのですが、経営の関心は、退職給付に関する債務残高と費用の削減に向かったのです。故に、企業年金の危機です。なぜなら、理論的に、退職給付債務と費用の削減は、退職給付そのものの削減以外には、あり得ないからです。
一方、絶対的な意味での従業員の処遇の削減はできないわけで、既存の年金退職金関係の給付を削減すれば、それに代わる給付を増やすしかありません。
政府も、産業界の意向を入れて、新たに確定拠出企業年金制度を導入します。これは、退職後に受け取れる仕組みの企業内非課税個人貯蓄制度であり、厳密には年金ではありませんが、企業にとっては債務性がないことから、伝統的な年金退職金から移行する企業が増えたのです。また、退職金の前倒しといいますか、年金退職金を削減もしくは廃止し、月例給与等に振り替える動きも出ました。そうした制度改正のなかで、企業年金制度の解散を行う企業すら、現れたのです。
HCAの一つの目的は、年金退職金制度の再構築にありました。つまり、年金退職金が企業内人事処遇制度としてもつ意味を徹底的に考え直し、不要な機能を他制度へ移行させ、そのことを通じて、費用の合理化を図るとともに、年金退職金の本来の機能を磨き上げようとしたのです。結果的に、企業にとっての人事戦略的な必要性が再確認され、年金退職金制度は、新たなる確固とした基盤の上に再確立されるはずだったのです。
しかし、そこから、日本産業の深刻な危機が始まるのですね。
どうして、こんなことになってしまったのか、原因の究明はともかくも、産業界全体として、内向きの経費削減による縮小均衡へ傾いたことは、結果として、総需要の累積的減退を招いた側面は否定できないでしょう。なかでも、安定雇用が崩れ、故に、年金退職金制度の戦略的機能が見失われたことは、いかにも残念です。再び、企業年金制度から確定拠出等への移行が加速する兆しが出てきたのです。
安倍政権になって、やっと、安定雇用の意義が見直されましたが、成長戦略の実現へ向けての動きが始まろうとしている現段階、まだ具体的な成果を生んでいない現段階では、産業界全体が高度経済成長期のような自信と活力を取り戻すには、時間がかかります。加えて、まだまだ政策の不整合や不備が目立ちます。この僅かな時間の狭間に、企業年金の危機が始まっています。この危機は、克服しなければならない。
政府が強行しようとしている厚生年金基金の事実上の廃止は、明らかに安倍政権の成長戦略に反します。こうした動きも、実は、企業の経営者が年金制度全般への不信感を抱く原因になっているのです。かつて、厚生年金基金は企業年金制度の中核だったのです。その制度を政府が否定することは、産業界に深刻にして不適当な影響を与えてしまう。これは当然でしょう。本当に、困ったことです。
故に、今まさに、HCA、即ち人的資本投資の理論の再興を図るわけですね。そのなかでは、人材の資本化との関連で、年金退職金制度の戦略的意義が再確認されるのですね。
前置きが長くなりましたが、いよいよ、HCAの解説を始めましょうか。基本思想は、企業の成長を支えるのは人間の創意工夫だという、至極当たり前の理念です。
創意工夫は、与えられた仕事を与えられた通りにやっている限りは、生まれ得ないわけで、与えられた仕事以上の付加価値の創出を目指す志向が創意工夫の源泉です。さて、この創意工夫を軸に報酬の体系を考えたとき、そこには、三つの要素を認め得るはずです。第一が、与えられた仕事の対価、第二が、創意工夫への期待の対価、第三が、創意工夫によって生まれた付加価値の分配、この三つです。
次に、創意工夫にも次元の違いを認め得るでしょう。ある仕事の範囲内における創意工夫と、新たな仕事自体を創出する創意工夫との違いです。いま、前者について報酬の三要素を考えたのですが、後者については、全く新たな第四の要素を考えなくてはなりません。それが、企業価値の分配です。企業価値の分配というには、新たなる仕事を生み出すということは、新たなる企業価値を生み出すということだからです。こうして、HCAの中核は、この四つの報酬要素、即ち、仕事の対価、期待の対価、付加価値の分配、企業価値の分配、この四要素の合理的な算出方式の体系となるのです。
さて、報酬というのは、水準が重要ではあるのですが、同時に、払方も劣らずに重要です。払方には二つの軸があって、一つは、月例給与、賞与、退職時給付という形態の軸、二つが、先払い、今払い、後払いという時間の軸です。期待の対価が先払い、仕事の対価が今払い、付加価値の分配と企業価値の分配が後払いになるであろうことは、容易に理解できることです。ここで、後払いを実際に後払いにしたのが、退職時給付であり、それが年金退職金です。
企業にとって、戦略的に重要なのは人間の創意工夫ですが、その創意工夫に対する対価が付加価値の分配と企業価値の分配であり、それが本質的に後払いの性格を帯びるということ、さらに、その後払いの一部は、必ず、退職時まで繰り越されるであろうこと、これらのことから、結果的に、年金退職金が企業にとっての戦略的処遇制度になる、これがHCAから導かれる年金退職金重視の考え方の根幹です。
後払いの意味が、HCAの核心になるのですね。
後払いの意味は、人材の引き留めです。ここで、報酬の機能という新たな概念が導入されます。わかりやすいように、あからさまにいえば、企業の勝手な論理としては、戦力となる人材の候補を引き付け、戦力と化した人材を引き留め、残念ながら戦力外となった人材を引き離す、このような人材の流れができるのが望ましいわけです。
今回は、結論を急いで、詳論は別の機会に譲りますが、資本化した人材というのは、付加価値の分配と企業価値の分配を受ける人材のことですが、企業にとって、これらの人材に辞められたらば困ります。ところが、資本化した人材とは、自立した人材ですから、辞めやすいし、辞めても職に困らないし、他社からの引き抜きにもあいやすい。故に、引き留めなければならない。処遇制度で引き止めるとすれば、長く勤めるほうが有利という仕組みにするのがいい。
この長く勤めるほうが有利という考えを処遇制度で実現したのが、実は退職金であるわけです。退職金設計の要点は、勤続の長さと支給係数の改善速度との間の合意理的関係にあるのです。HCAの新退職金設計では、資本化した人材の引き留め策に戦略的な重要性が与えられていたのです。この先の詳論は、またの機会にしましょう。
以上
次回更新は7月11日(木)になります。
2012/11/22掲載「経済成長期の産業金融と企業年金の役割を再興せよ」
2012/09/06掲載「明るい希望に満ちた雇用環境を創ろうではないか」
2010/09/16掲載「HCがHCである所以について」
2010/09/09掲載「「清兵衛と瓢箪」的な価格騰貴と価値創出」
2009/09/17掲載「企業の競争力、人的資本、企業年金、そしてIFRS」
≪ アーカイブから今週のお奨めは「バンカブルということについて」 ≫
2012/12/27掲載「脱原子力は原子力以上にバンカブルではない」
2012/12/20掲載「原子力発電はバンカブルではない」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。