日本の企業年金の資産運用の世界では、信託銀行が大きな位置を占めています。その信託の形態には二種類があって、一つは、信託銀行が投資判断から事務面の管理までを一貫して行うもの(指定金銭信託)で、もう一つは、投資判断は外部の投資運用業者が行い、信託銀行は事務面の管理だけを行うもの(特定金銭信託)です。
運用者としての信託銀行が問題となるのは、指定金銭信託ですが、これにも二種類あって、一つは、年金基金それぞれの固有の委託の主旨に応じて、信託銀行が個別に管理運用するもので、単独運用指定金銭信託(指定単と略されます)と呼ばれ、もう一つは、年金基金共通の標準的な管理運用を行うためのもので、古くから年金信託と呼び慣わされてきたものです。
企業年金基金のうち、極めて小規模で生命保険契約のみに運用しているものを除けば、残りのほとんど全ての基金が年金信託を利用していて、しかも、複数の信託銀行に分けて委託することが多いので、世のなかには、小口の年金信託が極めて多く存在することになります。
年金信託は、指定単とは異なり、そもそも標準化された契約であることと、多くが小口契約であることから、各受託信託銀行は、運用対象や運用手法毎に共通の信託(年金投資基金信託などと呼ばれます)を設定して、自己の管理する多数の年金信託の資産を統合して運用することで、効率性を高めています。このような運用の仕組みを合同運用といい、それに使われる特別な信託のことは、合同運用口と呼ばれてきました。
合同運用口というのは、それ自体が信託ですから、そこには、委託者、受託者、受益者が存在します。
さて、合同運用口の委託者は誰かといえば、各年金信託ですが、信託は人格をもたず、信託の受託者が包括的な管理権をもつことが信託制度の本質ですから、法律上の委託者は、元の年金信託の受託者である信託銀行になります。
合同運用口の受託者は、やはり、元の年金信託の受託者である信託銀行です。理論的には、他の信託銀行を利用してもいいわけですが、信託銀行の事業として、経営と運用の効率化のために、合同運用口を設定しているわけですから、当然に、同一の信託銀行です。
合同運用口の受益者は、元の年金信託であることが自明であって、それは、即ち、同一の信託銀行となります。
そうしますと、合同運用口という信託では、委託者、受託者、受益者が同一の信託銀行になりますが、そのような信託は、法律上、成立し得るのでしょうか。
現行の信託法のもとでは、委託者、受託者、受益者が同一の信託も成り立ちます。少なくとも、それが成り立たないとするような法律の規定は存在しません。しかし、合同運用口は、歴史が古く、年金信託が発足した直後からある、つまり、旧信託法の時代からあるのです。その旧法のもとでは、二つの疑義があったはずです。
第一に、旧法においては、第一条で信託を定義して、「財産権ノ移転其ノ他ノ処分ヲ為シ他人ヲシテ一定ノ目的ニ従ヒ財産ノ管理又ハ処分ヲ為サシムルヲ謂フ」とされていたことです。それにしても、句読点を打たずに片仮名で書かれた昔の法律は読みにくい。しかし、ここには明瞭に、「他人ヲシテ」と読めます。
この条文の解釈は、委託者にとって受託者は「他人」でなければならない、という意味であると解せられてきました。実際、日本語として、そうとしか読めません。ということは、いわゆる自己信託、つまり、信託宣言による信託は、旧法のもとでは認められていなかったということです。従って、委託者と受託者が同一の信託銀行となることは、法律上、できなかったはずです。
第二に、旧法には、「受託者ハ共同受益者ノ一人タル場合ヲ除クノ外何人ノ名義ヲ以テスルヲ問ハス信託ノ利益ヲ享受スルコトヲ得ス」という第九条があったのです。この条文の意味は、必ずしも明瞭ではなく、解釈に諸説あったようですが、通説は、「信託ノ利益ヲ享受スルコトヲ得ス」を、受託者は受益者になれない、という意味に解していました。
なぜ受託者は受益者になれないかというと、通説では、信託における受託者と受益者の関係は、債権における債務者と債権者の関係と同じく、対立関係にあるので、両者が同一人となるときは、混同により関係が消滅すると考えられてきたのです。
なお、例外として、「共同受益者ノ一人タル場合ヲ除クノ外」とありますが、合同運用口の場合、受益者は一つの信託銀行ですから、例外に当たりません。故に、受託者と受益者が同一の信託銀行となることは、法律の文言をそのまま解した限りでは、できなかったはずです。
では、法律の文言上できなかったはずの合同運用口の設定は、どのようにしてなされたのでしょうか。
それは、高度な法理論による信託法の解釈によってなされてきたのです。
簡単にいえば、合同運用口に対する委託者兼受益者としての信託銀行と、合同運用口の受託者としての信託銀行とは、形式的には同一の法主体だが、実質的には異なる法主体である、という理論です。つまり、合同運用口に対する委託者兼受益者としての年金信託は、それ自体として、あくまでも実質的な意味においてではあっても、独自の法主体性を有するという理論です。
この論理の背景には、間違いなく、信託財産に実質的な法主体性を認めた四宮和夫の有名な法理論があったはずです。おそらくは、当時の信託銀行業界は、四宮先生の学説の権威に基づき、合同運用口の開発を行ったのだと思われます。
もっとも、四宮学説をまつまでもなく、常識的な感覚としても、年金信託を年金信託の受託者と同一視することはできないでしょう。むしろ、両者を同一とする法律の形式のほうに違和感を覚えるのが自然です。
実際、私も、先ほど、「さて、合同運用口の委託者は誰かといえば、各年金信託ですが、信託は人格をもたず、信託の受託者が包括的な管理権をもつことが信託制度の本質ですから、法律上の委託者は、元の年金信託の受託者である信託銀行になります」と書きましたが、こういう説明は技巧的で、普通の人は、合同運用口の委託者は年金信託であるといえば、それで素直に納得できるはずです。
学説による法創造の稀有な事例ですか。
学説が法源たり得るかどうかは、興味ある問題ですが、本件の場合、年金信託の資産運用の効率化のために合同運用口の設定が必要であったという実務の要請が優越し、その正当化のための学説に基づく理論構成がなされたという意味では、甚だ実践的かつ効用重視の事案で、日本の法実践の事例としては、確かに異色だと思います。
ただし、こうした創造的な取り組みが可能だった本当の理由は、実害があり得なかったからだと思います。
実際、合同運用口の信託の有効性が否定されたところで、合同運用口のなかの財産を、持分に応じて、元の年金信託に直接に帰属せしめれば足りることです。そうすることで各年金信託間の利害に不公平が生じることなどないように、最初から合同運用口の運営がなされてきたのですから、そこに何らの問題が生じることもあり得ません。
つまり、合同運用口をめぐって紛争が起きる可能性もなく、紛争が起きなければ、判例による実務の追認や否認も起きるはずがなく、そうして、今日まで、平穏無事に合同運用口の実務は行われてきたということです。
もっとも、規制当局の介入はあり得たのですが、当時のことですから、何事も大蔵省のお墨付きのもとで行われていたわけで、その可能性もなかったということです。
そうこうしているうちに、信託法が抜本的に改正になって、合同運用口の法律上の疑義も解消したということですね。
信託宣言で委託者が受託者になれるということと、受託者が受益者になれるということ、この二つを、現行の信託法は、正面から認めています。この二つを認めるについては、それぞれに、社会的必要性が認められたからですが、合同運用口のような二重信託、つまり信託を階層的に重ねることの必要性も考慮されたことは、間違いないと思われます。そういう意味では、実務が先行して、制定法が追認する形ですから、やはり、興味深い法創造の事例ではあるのです。
現行法では、受託者が受益者になれるようになっていますが、同時に、旧学説のように、混同によって信託関係が終了することも、法文上、明瞭になっています。ただし、混同が生じるのは、受託者が受益権の全てを自己の財産(固有財産)として取得したときです。ということは、逆に解すれば、受託者が信託財産として受益権の全てを取得しても、混同は起きないということです。
混同が起きないということは、二重信託における内包された信託の場合、受託者と受益者(元の信託の受託者)が同一人でも、同一人として効果は生じないということです。それは、二重信託の受託者が同一でも、異なる階層において異なる信託財産を代表する以上、異なる法主体になるということですから、事実上、四宮学説(といいますか、学説の通説であり、常識的感覚にも馴染む)が認められたわけです。
こういう法改正の背景には、信託を階層化する合同運用口のような仕組みの実務上の必要性や、資産流動化等の実務として、受益権の証券化等の要請のもと、受益権の独立性を確保する必要性が強くあったのです。もともと、信託法の改正作業では、一つの重要な目的は、金融の仕組みに多用される商事信託を実務の面から改善することになっていたからです。
例えば、受託者が受益権の全てを固有財産として取得すれば、信託は終了するのですが、終了までに一年という猶予期間が設けられていることも、同様な背景があると思われます。つまり、信託銀行等が資産流動化目的で資産を信託財産として取得した後に、一旦、転売目的で、その受益権の全てを自己勘定で取得する、実務としては、そういうことが行われていることを、法律は、想定しているのです。
法の創造的変動は、社会の進歩にとって、必要なことですから、判例による法創造機能の弱い日本では、実務先行の信託法改正のようなあり方も、あり得ますね。
法律には、実務を規制し、実務の逸脱を阻止する機能があるわけですが、不可避の効果として、実務の進歩を阻害する面も生じやすい。そこに、革新的な法創造機能を、どのようにして確保するのか、これは、法政策の問題です。
自己責任原則のもと、紛争の発生を前提として、判例による法創造機能を強化していくのか。そうした思想を背景に、弁護士の大幅な増員を図る政策もとられたのでしょうが、現実には、うまくいっていないようです。
ならば、信託法のように、学説(当然に、条理に基づく)による創造的法解釈の必要性も小さくはないでしょう。その場合、規制当局の対応等、行政の関与は、どうあるべきか。旧信託法のもとで合同運用口が可能だったのは、大蔵省の承認があったからなのです。ならば、今、金融の創造的革新の面で、金融庁の果たすべき役割は、非常に大きいような気がします。
以上
次回更新は2月27日(木)になります。
2014/02/13掲載「信託の受託者の忠実義務」
2014/02/06掲載「金融危機さなかの信託銀行批判」
2014/01/30掲載「企業年金の資産運用におけるフィデュシャリーの責任」
2014/01/23掲載「九州石油業厚生年金基金訴訟に思う」
2014/01/16掲載「フィデュシャリー、あるいは信じて託すること」
2014/01/09掲載「トラスト、あるいは信託の本旨」
≪ アーカイブから今週のお奨めは「厚生年金基金」 ≫
2013/12/26掲載「厚生年金基金、やめるなら正しくやめようよ」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。