成長なくして、投資なし。成長への投資にこそ、投資の王道があるのです。しかし、同時に、投資なくして、成長なし。そこに、成長を支えるものとして、投資の社会的機能があるのです。
投資の王道を歩むためには、技法と、技法を支える熟練が必要であり、投資の社会的機能を果たすためには、責任と、責任を支える倫理が必要です。
資産運用の担い手とは、投資の担い手です。投資の担い手の受託者としての責任とは、要は、高度な専門的知見と経験に裏打ちされ、厳格な倫理と社会的使命感のもとに働く職業人、即ち真のプロフェッショナル、としての行動規範なのです。
今、投資の、あるいは資産運用の担い手の責任が問われるということは、政策当局における事実認識として、責任が果たされていない現実があるわけです。このことについて、資産運用に携わる当事者には、真剣な反省が求められているのです。
資産運用の担い手の職業人としての責任が果たされない限り、正しい投資はなく、正しい投資がない限り、日本の成長もないのです。逆に、責任が正しく果たされれば、日本は成長できる、その信念に、安倍政権の経済政策の前提があるのです。
政策はなされた。残された問題は、この成長への信念を、産業界と金融界が共有し、自らのものにできるかです。もちろん、答えは決まっています。選択はないのです。産業界と金融界は、成長への信念のもと、自らの責任を果たさなくてはならないのです。
成長の主役は、産業界ですね。
もちろん、成長の主体は、産業界です。投資の機能、即ち、成長資本の供給という資産運用の社会的機能は、あくまでも、脇役としての金融機能なのです。しかし、同時に、脇役としての金融機能なくして、つまり、成長への資金の供給なくしては、産業界の成長もあり得ないわけです。
成長とは、革新です。故に、安倍政権の成長戦略の柱は、産業界の革新を誘発し、促進し、支援するような規制改革であり、社会・産業構造の抜本的な改革なのです。
しかし、政府の機能もまた、金融機能と同じように、成長の主役ではありません。政府の仕事は、主役である産業界の成長のために、政策としてできること、例えば法制度等の環境の変更や整備などを、徹底的に残りくまなく、やり遂げるのみです。政府は、いわば、触媒、産業界に変革と成長を促す触媒なのです。
政府が触媒なら、金融も触媒たり得るのではないか、成長への投資という金融のあり方は、産業界の構造改革、革新、そして成長への飛躍を促すような仕方で、まさに変革の触媒として、機能し得るのではないか、この論点を突き詰めることが金融界に課された喫緊の課題なのです。
資産運用の担い手は、触媒として、何ができるのでしょうか。
産業界の統治改革を誘発し、促進させ、加速させることです。触媒とは、化学反応には直接作用しないものの、そのきっかけを与え、その反応速度に影響を与えるものですが、統治改革を化学反応と見立てたとき、まさに、投資の機能が触媒として働くのです。
実は、産業界の統治改革は、安倍政権の重要な政策課題なのです。なぜ、統治改革か。それは、変革とは、程度の差こそあれ、現状の否定であり、飛躍だからです。そもそも、現状を否定し、現状を乗り越えるような飛躍ができていたのなら、現状の停滞には落ち込まなかったのです。故に、統治改革です。変革は、現状の経営の延長にはなく、経営自体の変革でなければならないからです。
しかも、変革は外部からの強制ではなく、内部から起きなくてはいけない。変革は、破壊でも、崩壊でもないからです。変革の条件は、内部になくてはいけないのですが、変革を起動するきっかけは、外部から来なければならない。それが、触媒です。触媒は、政府の政策と金融の機能です。
なぜ、投資あるいは資産運用の担い手が統治改革の触媒になり得るのでしょうか。
それは、真の投資においては、投資対象の厳格な選別が行われるからです。選ぶことによって、選ばれた企業に、また、選ばれなかった企業に、大きな影響を与えることができるのです。なぜなら、金融の立場からは、投資であり、あるいは資産運用であるものは、産業界の立場からは、資金調達だからです。
もしも、投資対象として選ばれなかったら、その企業は、資金調達が困難となり、逆に、投資対象として選ばれた企業は、有利な資金調達が可能となります。では、その選択の基準は何か。それが統治改革なのです。
つまり、投資あるいは資産運用の担い手は、投資対象の厳格な選別において、統治改革を求めるのです。その結果、改革を断行して成長していく企業は、より有利な資金調達のもとで、成長を加速していくでしょう。そのことが、投資に対して、より大きな成果をもたらすのです。
逆に、選ばれない企業、改革を断行できない企業は、淘汰されていくわけですね。
もちろん、産業界の全ての企業が統治改革を断行することが望ましい。しかし、それは、あり得ないでしょう。むしろ、変革は、競争を含意します。統治改革できないものは、淘汰され、統治改革を断行したものに吸収されて、消滅していけばいいのです。
要は、産業界の内部構造変化によって、競争が生じ、成長するものと、没落するものの二極に分かれればいいのです。産業界内部に滅びるものを含みつつ、産業界全体としては成長していく、そのような動態的な変革こそが成長なのです。
そのとき、競争の鍵は、優れた企業統治なのです。優れた企業とは、優れた企業統治の仕組みをもつ企業であり、そのような企業が産業界を牽引していくことで、産業界全体の統治が向上し、それが、日本国全体の成長につながっていくのです。
投資の立場からは、統治改革を求める方法として、選択だけでなく、対話もあり得ますね。
投資の立場から産業界に改革を求める方法には、二つあります。第一が、選択であり、第二が、対話です。投資の原則は、あくまでも、対象の選択ですが、最近では、合わせて、対話の方法も重視されてきています。
対話が重視されるのは、簡単にいってしまえば、経済というか、効率の問題だと思われます。多数の企業の淘汰を伴う産業再編というのは、確かに、資本主義の原理原則のようでもありますが、雇用の移動を考えただけでも、膨大な社会的費用を伴うのも事実でしょう。
また、投資の立場からいっても、一方で、改革を断行して成長する企業からは、大きな投資成果が得られるかもしれませんが、他方では、そうでない企業からは、それなりの損失がでることも避けられないでしょう。
全体としては、利益が損失を上回れば、それでいいとはいえ、より良い方法があれば、それに越したことはない。そこで、対話です。
いうまでもありませんが、対話というのは、投資家と企業経営者とが、双方の立場を尊重して、問題解決型の建設的な議論をすることですから、投資家の要求を突きつけるというような下品なものではありません。対話のなかから、改革への創造的な答えがでてくれば、投資家にとっても、企業経営者にとっても、双方に利益になることです。
安倍政権も、この対話による企業統治改革は重視していて、それが、日本版スチュワードシップ・コードの策定というかたちで実現しています。今後の課題は、ここに織り込まれた理念の実践です。そこに、資産運用の担い手の責任があるのです。
資産運用の担い手とは、具体的に、誰のことでしょうか。
年金基金等の重大な社会的責任のもとで投資を行っているものと、そのような投資家から委任を受けて、業としての資産運用を行っている投資運用業者等です。
そのなかで、これまでのところ政策的に重視されてきたのは、年金資金管理運用独立行政法人(GPIF)に代表される公的年金等と、投資信託です。特に、GPIFの場合、その改革は大きな政治課題になっています。今後は、企業年金基金等についても、抜本的な改革が求められてくることは間違いないでしょう。
また、広義の資産運用の担い手として、ここには、銀行等も含めておくべきでしょう。融資と投資は、異なるものではありますが、産業界への成長資本の供給という機能においては、同じものだからです。
実際、金融庁においても、従来からの銀行等に対する監督のあり方を大きく変更してきており、重点が成長資本の供給能力に移っています。この辺にも、安倍政権の緻密な政策連動をみてとることができます。
資産運用の担い手自身の統治改革も重要ですね。
産業界の統治改革以前の問題として、まさに先決問題として、資産運用の担い手における統治改革こそが、喫緊の課題としてあるのです。資産運用の担い手の改革がなければ、投資は、産業界の統治改革を促す触媒としての機能など、果たせっこないからです。
しかし、問題は、資産運用の担い手の統治改革を促す触媒は何かということです。ひとつには、政策です。実際、安倍政権は、資産運用の担い手の統治改革を重要課題においています。では、政策として、何ができるのか。資産運用の担い手の自己変革として、何をなすべきなのか。
それが、受託者としての責任の確立なのですね。
そうです。従って、政策としては、徹底した規制の強化です。「投資のプロとしての専門性を発揮し、真に投資家の利益の最大化を目指した運用が行われるよう」に、あらゆる方策が講じられるべきですし、金融庁としても、講じる用意があるはずです。
しかし、より重要なことは、資産運用の担い手自身が、受託者としての責任を自覚し、徹底した自己変革を遂げることです。そこに、一刻の猶予も、小さな甘えもあってはならない。
受託者としての責任ということは、専らに受益者のために、ということですね。
資産運用の担い手にとって、受益者とは、年金基金等であれば加入員受給者、投資信託であれば個人投資家等、投資運用業者であれば、表面は年金基金等の顧客でも、実質は背後の加入員受給者等です。専らにということは、字義通り、専らにということです。
では、現状は、どうか。年金基金等は、委託者である母体企業や政府等のほうをみていないか。投資信託は販売会社のほうをみていないか。投資運用業者は、最終受益者のことを忘れていないか。
問われているのは、投資の技術以前のことです。倫理です。
2014/07/03掲載「受託者としての資産運用の担い手」
2014/04/10掲載「信託受託者の忠実義務を徹底的に考える」
2014/04/03掲載「信託に厳格な受託者責任を課すために」
2014/03/27掲載「ファンドのディレクターとトラスティー」
2014/03/20掲載「国際金融センターへの挑戦と信託」
2014/03/13掲載「GPIF改革、あるいは投資家の内部統治と信託」
2014/03/06掲載「投資信託は本当の信託なのか」
2014/02/27掲載「投資詐欺事件における信託銀行の責任」
2014/02/20掲載「信託の合同運用における法創造」
2014/02/13掲載「信託の受託者の忠実義務」
2014/02/06掲載「金融危機さなかの信託銀行批判」
2014/01/30掲載「企業年金の資産運用におけるフィデュシャリーの責任」
2014/01/23掲載「九州石油業厚生年金基金訴訟に思う」
2014/01/16掲載「フィデュシャリー、あるいは信じて託すること」
2014/01/09掲載「トラスト、あるいは信託の本旨」
≪ アーカイブから今週のお奨めは「GPIF改革」≫
2014/05/08掲載「GPIFのリスクを正しく論じるために」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。