金融庁の「モニタリング基本方針」には、例えば、次のような記述があります。
まずは、大手銀行に対しては、「主要行等の行動も、総体として、経済や金融・資本市場全体に大きな影響を及ぼしうる。」また、地方銀行等の地域金融機関等に対しては、「個別金融機関にとっては合理的な行動が、総体として、経済や金融・資本市場全体に影響を及ぼす可能性についても留意する。」
金融庁は、重点施策の第四番目に、「マクロ・プルーデンス」を掲げていますが、それとの関連で、いわれていることですね。
金融庁の「モニタリング基本方針」は、金融機関に勤めている人でも、限られた人以外には、難解な文書です。なかでも、「マクロ・プルーデンス」は、わかりにくい。
まず、プルーデンスというのは、金融の専門用語というよりも、むしろ、英語の通常の意味として、とらえたほうがいいでしょう。つまり、思慮深い態度のことですから、自己の行動が周辺に与えるであろう諸影響に対して、事前に、合理的かつ総合的な顧慮を十分に払うことを意味し、故に、場合によっては、慎重であることにも帰結するものです。
では、マクロとは何かといえば、それは、ミクロに対していわれることです。ミクロとは、個々の金融機関の行動の影響です。ならば、マクロとは、全金融機関の行動の集積がもたらす影響のことです。つまり、「モニタリング基本方針」の用語でいえば、「総体として」、ということです。
しかし、金融機関にできることは、自己の行動について、プルーデントであるように努めることだけであって、その結果、金融機関全体の行動の集積がどうなろうが、自己の関与し得ないことではないでしょうか。
「マクロ・プルーデンス」のわかりにくさは、まさに、そこにあります。先ほどの引用にある通り、「個別金融機関にとっては合理的な行動」、まさに、プルーデントな行動が、「総体として、経済や金融・資本市場全体に影響を及ぼす可能性」については、金融庁としても、「留意する」以外に、対応のしようがないのです。
なお、この「留意する」の主語は曖昧で、金融庁としては、金融庁自身が留意するという意味だけではなくて、各金融機関自身にも、「留意する」ことを求めているのだと思われます。
「留意する」といわれても、留意することはできても、だからといって、自分にとってプルーデントであると信じる行為を、留保することはできないですよね。
確かに、そこが、「マクロ・プルーデンス」の極めて難しいところです。具体的な例について、検討してみましょう。
ある銀行が、国債を大量に売却しようとします。売却実行に先立っては、事前に、プルーデンスに基づいて、反省的検討が行われなくてはなりません。
その結果、その銀行固有の事情に基づくものとして、銀行経営の全体的整合性のなかで、十分に合理的な行動と判断され、かつ、売却額が市場の価格変動に与える影響についても、一定の時間をかけて売却を行う等の工夫により、不利な取引にもならず、また、市場の混乱要因にもならないと判断されるならば、売却を実行すればいいのです。
これは、正当かつ合理的な銀行の経営行動であり、一つの銀行の行動としては、つまり、ミクロにおいては、完全にプルーデントであることに、何らの疑義もありません。
しかし、マクロにおいて、プルーデントな結果になるかどうかは、実は、よくわからないのです。なぜなら、同時に、他の多くの銀行においても、それぞれが、それ自身の固有の事情だと信じて、同様の国債の売却を決めているかもしれないからです。
銀行経営に本質な差はないので、全ての銀行が、同時に、同じことを、考える可能性はありますよね。
銀行業の問題は、いかに多数の銀行があって、それぞれが相互に競争しているように見えても、業務の内容が基本的に同一なので、同一条件に対しては、同一方向の経営行動がとられやすいわけです。しかも、皆が全く同一の金融規制に服している以上、ある銀行が、規制上の理由から、ある方向へ動けば、他の全ての銀行も、同一方向へ動く可能性が高いのです。
国債価格は、銀行が一斉に売れば、暴落し、逆に買えば、暴騰する。つまり、銀行行動のマクロな集積が、市場に極めて不都合な攪乱要素をもち込んでしまう。故に、金融庁は、「マクロ・プルーデンス」を重点施策に掲げざるを得ないのですね。
これは、日本だけの問題ではありません。全世界的な問題です。2008年の「リーマン・ショック」に起因した金融危機も、背景にある事情は、銀行等の金融機関の同一方向への行動の集中です。
危機の前提として、いわゆるバブル的な騰貴が先行します。バブルは、銀行等の与信の集中がなければ生じません。日本の昭和の時代の不動産バブルや、「リーマン・ショック」に先立つクレジット・バブル、即ち、サブ・プライム等への与信の集中的拡大は、典型的事例です。
バブルは、一定の時間の後には、崩壊せざるを得ません。バブルの崩壊は、巨額な不良債権の発生として、銀行等の経営を直撃し、深刻な金融危機を生じさせます。日本の20世紀末に生じた金融危機、「リーマン・ショック」後の国際的金融危機、そこで生じた急激な与信の収縮は、やはり、典型的事例です。
こうした、極端な振幅を伴う与信の急拡大と急収縮は、国際的に統一されている金融規制のもとで、銀行等の共通の拘束行動を誘発して、さらに、振幅を増大させつつ、今日の国際的に統合された金融市場のなかで、思いもよらぬ波及効果を生んでいくのです。
金融庁は、一方で、「マクロ・プルーデンス」を重視していますが、他方では、統一的な規制の適用もせざるを得ないわけで、そこに、金融行政の矛盾はないのでしょうか。
矛盾は、確かに、あるようにもみえます。だからこそ、逆に、金融庁は、「マクロ・プルーデンス」重視の姿勢を崩せないのです。
「リーマン・ショック」による金融危機の伏線となったのは、サブ・プライム等への与信の集中です。なぜ、与信が集中したかというと、資産担保証券を使って、原債権が流動化されていたからです。では、なぜ、そのような流動化が可能であったかといえば、銀行等に課せられる資本規制の仕組みの逆をついて、銀行等が無条件で投資できるように、資産担保証券の構造が操作されていたからです。
「リーマン・ショック」によって、それらの資産担保証券の価格は急落して、それらを大量に保有していた金融機関には、巨額な含み損が生じます。含み損は、やはり、資本規制の仕組みにより、銀行等の自己資本の収縮につながり、それが、銀行等による大量な資産売却の引き金を引いたので、価格下落は、全ての社債に拡大し、値もつかないほどの市場の崩壊をもたらしたのです。その結果、巨額な損失を受けた多くの金融機関が、事実上の破綻に追い込まれました。それが、金融危機です。
ならば、金融規制こそが、「マクロ・プルーデンス」を効かなくさせているのであって、逆に、金融規制の立場から、「マクロ・プルーデンス」を主張することは、おかしいのではないでしょうか。
では、規制上問題ないからという理由で、積極的に資金投入して、バブル的現象を作り、規制上できないからという理由で、盲目的に資金回収を図って、金融危機的現象を作ることは、そもそも、ミクロの次元において、プルーデントなのでしょうか。ミクロにおいてプルーデントでないからこそ、マクロにおいてもプルーデントたり得ない、それが、実態ではないでしょうか。
金融庁は、「マクロ・プルーデンス」を通じて、個々の金融機関に対して、ミクロのプルーデンスを求めているのでしょうか。
私は、そのように理解しています。銀行等の金融機関の経営行動においては、金融規制に対してプルーデントであることが求められているのではなくて、金融の社会的機能に対してプルーデントであることが求められているはずです。
もしも、金融規制が金融の社会的機能を維持するためにあるのならば、金融機関が金融の社会的機能に対してプルーデントたろうとすることは、少しも、金融規制に矛盾しないはずです。矛盾するとしたら、それは、金融機関が、単に表層的にのみ規制に順応し、規制の裏にある規制の目的に対してプルーデントな配慮を払わないからだと思われるのです。
例えば、現在の国債価格の異常な騰貴は、もしかすると、「マクロ・プルーデンス」問題の象徴かもしれませんね。
金融規制上は、国債には、信用リスクはないものとみなされます。要は、金融機関にとって、国債は、いくらでも保有できるのです。そうでなければ、こうした現在の異常な事態は、起きにくいはずです。
国債価格の異常な騰貴は、各金融機関がプルーデントに振舞った結果として、マクロにおいて、プルーデントでなくなった事態なのでしょうか。それとも、そもそも、ミクロにおいて、つまり、各金融機関の判断において、プルーデントでないが故に、生じた事態でしょうか。
金融庁としても、当然に、大きな関心事ですね。
金融庁の重点施策の第三番目は、つまり、第四番目の「マクロ・プルーデンス」よりも一つ上にある施策は、「資産運用の高度化」です。そこでは、投資信託等の運用の改革に重点が置かれていますが、金融機関自身の自己勘定の運用についても、人的資源の配置を含む高度化が求められています。
「資産運用の高度化」と「マクロ・プルーデンス」を合わせれば、そこには、当然のごとく、国債に偏重した現在の運用実態の見直しを求める金融庁の姿勢が、明確に現われてくると思われます。
その結果として、全ての金融機関が、国債の売却に動いたら、「マクロ・プルーデンス」が成り立たず、国債価格の暴落をも招きかねないことになりますが、さて、どうしたものでしょうか。
「資産運用の高度化」が、直ちに、国債の大量売却につながるようでは、「マクロ・プルーデンス」以前に、ミクロにおいて、少しも、プルーデントでないわけでしょう。そうではなくて、各金融機関が、独自の創意工夫のもとで、「資産運用の高度化」に取り組むことが求められているわけです。
金融庁は、「金融機関は法令等で規定した基準(ミニマムスタンダード)を満たしていることに満足することなく、より優れた業務運営(ベストプラクティス)に向けた経営改善を図っていくことが重要である」と述べています。
結局、全ての金融機関が「ミニマムスタンダード」に甘んじることが、ミクロにおけるプルーデンスを働かせなくさせて、それが、マクロにおけるプルーデンスの欠如にもつながるのです。
そうではなくて、金融庁がいうように、全ての金融機関が「ベストプラクティス」を目指せば、「目指すべきベストプラクティスは、画一的なものではなく、各金融機関が自主的に創意工夫を凝らしながら目指していくものである」以上、そこには、ミクロとマクロにおけるプルーデンスが、同時に、実現するに違いないのです。
以上
次回更新は1月22日(木)になります。
2014/12/25掲載「ルール遵守で馬鹿になった金融機関」
2014/10/23掲載「金融庁のいうフィデューシャリー・デューティーとは何か」
2014/10/09掲載「金融庁に「高度化」を求められた資産運用の貧困」
2014/10/02掲載「金融モニタリング基本方針の画期的な意義」
≪ アーカイブから今週のお奨めは「国際金融センター」≫
2014/04/17掲載「大胆予測、2020ニッポン国際金融センター」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。