銀行、あるいは信用金庫等も含めて、広義の銀行にとって、預金取扱金融機関であることは、銀行の定義そのものとして、存立の前提条件になっています。故に、そもそも、預金のない銀行など、発想として、あり得ないことですから、銀行界の誰も、その可能性を真剣に検討したことはないでしょう。しかし、銀行の常識、世の非常識といわれるなかで、現在の環境のもとで、社会常識に従って考えてみると、預金の必要性について、検討の余地が大きいことは、すぐにわかります。
例えば、もしも、銀行を産業金融の担い手であるとし、その本業を事業融資であると考えるならば、預金は、原資調達の一つの手法にすぎないのですから、社債の発行などの他の調達方法との間で、相対化されるはずであって、そのとき、調達コストの差が重要な意味をもつのは当然です。
さて、改めて、コストの側面から、預金という資金調達方法をみてみると、膨大な店舗経費、事務経費に加えて、規制により要求される資本のコスト、預金保険料などを考えれば、決して安いものでないことは、たちどころに、知れます。
また、預金は、銀行にとって、受入れを拒めないものですから、資金調達の必要がなくても、流入してしまいます。実際、既に長期にわたって、日本の銀行の現実として、融資総量に対して預金総量が大きすぎ、差分の資金の運用に困難な問題を生じる事態が続いているのです。
つまり、銀行の本業を事業融資としたときには、資金調達の方法としての預金は、コストが高いうえに、全く融通の利かない不便なものにみえてくるはずなのです。加えて、預金取扱金融機関であることによって、高度に規制され、そのことが融資の制約になっているのも事実であってみれば、融資の高度化を目指すなかで、預金をやめるという選択肢も、それなりに現実味があると思われます。
しかし、預金は、極めて安定した資金調達方法として、銀行経営の安定化にとって、重要な意味があるのではないでしょうか。
銀行の問題を考えるとき、常に見落とされているのは、仮に、金融機能には歴史を超える普遍性があるとしても、現にある銀行という具体的制度は、歴史的条件のもとで生まれ、その制約に色濃く規定されているのだという事実です。
実は、経済産業政策において、銀行という制度が創出されたのは、資本主義経済の基礎として、早急なる資本形成が必要だったからであり、そのために、銀行預金という強力な資金集積の道具が開発されたにすぎないのです。つまり、銀行は、資金不足の時代に、産業界への積極的な資金供給という社会的に重要な機能を演じるために創られ、故に、預金という資金調達の特権が与えられ、その預金を保護するために、高度に規制される一方で、同時に厚く保護されてもきたということです。
ところが、現在では、銀行を支えてきた資金不足という歴史的背景はなくなり、逆に、資金過剰になって久しいのです。これは、日本だけではなくて、先進経済圏全体の現実ですが、特に日本の場合は、長期にわたってゼロ金利の状態が続いていて、それは資金の稀少性が全くないことを示すのですから、今、資金が稀少であった時代の条件を前提とした銀行システム、その中核としての預金の意味が真剣に問い直されなければならないのは、当然のことなのです。
預金には、融資のための原資調達という側面のほかに、個人の預金者の立場からみたときには、貯蓄や決済のための重要な手段という側面があるはずですが。
もしも、銀行の本業を個人金融サービスであると考えるのならば、融資は、預金として集めた資金の運用対象の一つにすぎなくなり、債券投資等の他の運用手段との間で、相対化されます。そのとき、融資よりも魅力的な投資対象があれば、敢えて、融資する必要もないわけです。
また、より本質的に、顧客の視点にたったとき、預金は、他の同等の機能を演じる金融商品等との関係で、魅力あるものなのでしょうか。例えば、貯蓄機能としてならば、投資信託、国債等の債券、長期投資としての株式、多様な外国証券などと比較して、また、万が一の非常時のための経済的備え、即ち、保険機能としてならば、保険商品等と比較して、どれほどの優位があるのでしょうか。
むしろ、預金というのは、投資信託、株式や債券等の証券、保険等と相対化して考えれば、個人金融サービスにおいて、中核的な役割を演じるものというよりも、残余として、あるいは、多様な金融商品等の取引のための決済の道具としてのみ、意味があるものではないでしょうか。
その決済機能こそ、預金の存在意義ではないでしょうか。
法人においては、預金は、原則として、決済のためにしか利用されません。原則として、という意味は、適正なるコーポレートガバナンスのもとでは、企業の積極的な運用資産として預金をもつことは、資産保有の合理性と妥当性を欠くとみられるからです。
逆に、決済のための預金の利用は、企業の財務取引を含めた全取引の執行のためには、不可欠のもので、企業活動は、決済預金を舞台として、そのなかに、全てが記述されているといっても、過言ではないでしょう。
個人金融サービスにおいても、預金は、貯蓄手段等としてよりも、圧倒的に、普通預金の決済機能を前提として、利用されているのでしょう。定期預金や外貨預金のような貯蓄性預金も、普通預金の延長としてのみ、意味のあるものになっていると思われるのです。
逆に、決済機能がなかったら、個人の普通預金や、法人の当座預金など、存立し得ないですね。
例えば、個人の普通預金は、多くの人にとって、給与や年金の振込み、クレジットカード等の利用額の清算、公共料金等の自動引落とし、送金など、生活の舞台そのものになっています。こうした多様な決済機能がなかったならば、普通預金を利用する人など、いなくなるかもしれません。
また、銀行の収益における位置づけを考えても、融資のための原資調達を通じた本源的機能、即ち、調達金利と運用金利の差である利鞘の稼得に対して、利鞘が限りなくゼロに接近してしまった現在では、送金等の決済機能の提供による手数料収入の重要性が増しています。むしろ、銀行経営の実態としては、決済機能の提供により、預金に存在意義をもたせて、資金調達をし、その一部を事業融資に回しているということでしょう。
ところで、預金と決済機能を不可分なものとしている現在の制度は、歴史的なものにすぎないのでしょうから、今日の技術環境のもとでは、預金と決済機能を分離できるはずですよね。
その点こそ、今後の銀行経営にとって、決定的な意味をもつところです。いわゆるフィンテックと総称される広い分野のなかで、大きな領域を占め、質的な意味での革命的な変化と大きな発展の可能性があるのは、決済関連だと思われるのです。
決済とは、全てをカネに一元化したうえで、多様なものの交換を、カネの交換に変換することで、可能にするシステムのことですから、確かに、カネを媒介させる必要はあるのですが、そのカネが預金のなかのカネである必要は、必ずしも、ないわけです。
歴史的に、決済は、全世界の銀行システムを一つの超巨大な帳面にして、そこへの記帳によって、カネの交換を実現したもので、預金は、そこにおける末端の帳面として、また、決済の時間のずれを、信用、即ち、銀行間、あるいは、銀行と利用者との間の貸借によって吸収するものとして、高度に緻密に設計されていたのです。
しかし、原理的には、決済においては、カネの一時的な器、データの交換、データの記帳さえできれば、預金は必要ないはずです。故に、今、高度化した情報技術環境のもとで、伝統的な銀行システムと預金に替わるものとして、全く新しい決済プラットフォームの開発が進んでいるのです。
こうして、最終的に、預金から決済機能が分離してしまったら、預金に残るのは、長期的な資金の器としての機能だけになりますが、それだけでは、競合する金融商品等に対して、少しも競争力のあるものになり得ないことは、既述の通りです。さて、そのとき、銀行は、どうするのか、預金をやめるのか。
今の銀行は、個人金融サービスにおいて、伝統的な銀行業の外へ展開していますから、預金をやめる選択肢もないことはないですね。
これまでの金融行政は、個人金融サービスにおいて、顧客の利便性の観点から、銀行に対して、投資信託と保険の販売を認め、また、証券会社を傘下にいれて、いわゆる銀証統合のもとで、債券や株式に至る広範な金融商品を提供することも認めるなど、自由化を進めてきました。
しかし、現実に行われてきたことは、顧客の視点にたった総合的な個人金融サービスとは、ほど遠いもので、投資信託も、保険も、新たなる販売手数料稼ぎの手段に堕している感があります。故に、今の金融庁は、森長官のもと、徹底して、顧客の利益の視点を強調することになったのです。
もはや、銀行の伝統的な発想のもと、あくまでも預金を中核におき、収益不足を補うために、投資信託や保険を位置付けることは、銀行自身の利益の視点にたつものとして、抜本的に改められなくてはなりません。預金をやめる検討は、実際に、それを実行するかどうかはともかくも、顧客の利益の方向に発想を転換するためには、おそらくは、不可欠の思考実験なのです。
同様に、融資業務においても、預金をやめるという思考実験の先にみえてくるものが大切なのですね。
融資ということ、即ち、カネをヒト(法人であれ、個人であれ)に貸すということ自体、伝統的な発想の拘束のもとにあることです。いまどき、カネではなくて、モノを貸す、即ち、リース等への拡大も急速に進展していますし、ヒトではなくて、モノ(不動産等)やコト(開発プロジェクト等)にカネを貸すことも普通です。
そうした顧客の視点にたった融資業務の革新と高度化を徹底していけば、原資調達における預金の位置付けにも、抜本的な見直しが必要になるでしょう。そのなかでは、預金は、必ずしも低コストの調達ではないものとして、また、経営の自由を強く拘束するものとして、意識されてくるでしょう。
もしも、産業界を金融面で支援することに銀行の社会的機能の本質をみいだし、そこでの顧客の視点にたった創造的革新を志向するのならば、伝統的発想を超えることは絶対に必要であり、そのためには、預金をやめるという過激な思考実験もまた、有益なはずです。
以上
次回更新は、9月1日(木)になります。
2016/08/18掲載「銀行がなくなる日に、銀行機能は甦る」
2016/06/02掲載「モノを借りても買っても、費用は同じ」
2016/05/12掲載「学資ローンの条件を学業の成績で決めるフィンテック」
2016/02/04掲載「銀行は、ヒトにではなく、モノとコトに貸したらどうだ」
2016/01/21掲載「いっそ銀行に住宅仲介をやらせるか」
2016/01/07掲載「銀行は、カネではなくて、モノを貸したらどうだ」
2015/12/17掲載「住宅ローンが欲しいのではない、住宅が欲しいのだ」
2014/07/17掲載「オブジェクトへの金融」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。