仮に銀行がなくなっても、銀行が現に演じている社会的機能がなくなるわけではなくて、形を変えて提供され続けるのです。タイプライターがなくなっても、その機能は、より効率的に、より利便性の高いものとして、コンピュータとプリンタとの構成によって実現されているのと同じことです。
しかし、タイプライターの消滅は、タイピストという職業を不要にしたことも事実です。故に、タイピストのような銀行員は不要になります。そこで、今の局面において、銀行員は、須らく、自分はタイピスト的銀行員なのかと真剣に自問しなければならないのです。さて、そこの銀行員の君よ、大丈夫ですか。
ところで、その前に、銀行がなくなるという前提は正しいのですか。
銀行を銀行として規定しているのは、預金です。その預金がなくなれば、銀行はなくなります。これは、論理的必然です。従って、問われるべき前提は、預金はなくなるのかということです。
さて、預金は、決済と貯蓄をバンドルした機能です。バンドルという片仮名を用いるのは、業界っぽい匂いを出すためですが、要は、結合したものだということです。なぜバンドルされているかというと、決済は、もともと金融機能ではないのに、これまでの技術的環境のもとでの利便性の見地から、預金を舞台に行われてきただけのことにすぎません。
ところが、技術環境は進化します。特に、現在では、進化の速度と深度が一定の閾を超えつつあって、程度の変化ではなくて、本質の転換を引き起こすところにまできています。そのような技術革新にかかわる問題領域を、金融の分野では、フィンテックと呼んでいます。
このフィンテックは、決済と商取引とのバンドリングを可能にすると考えられます。もともと決済は商取引の不可分な要素なのですから、こちらのバンドリングのほうが合理的です。こうして、預金から決済をアンバンドルしてしまうと、預金の存立基盤はなくなると予想されます。なぜなら、貯蓄機能しか残っていない預金は、投資信託等の他の資産形成手段との競争において、一時的に滞留する摩擦資金の受け皿以上には、何らの積極的価値をも生み得ないからです。
しかし、銀行には、預金がなくなっても、融資業務は残るのではないでしょうか。
銀行にとって、預金は融資業務のための資金調達手段ですから、預金がなくなれば、資本市場を経由する調達など、他の手段を講じるほかありませんが、それでは、単なる貸金業にすぎないものとして、銀行の差別優位はなくなります。融資業務においても、預金という特権的調達手段にこそ、銀行固有の存在意義があるのです。それが信用創造機能です。
では、信用創造とは何か。銀行に預金100があるとします。そのうち20%を支払準備として留保して、80を企業に融資すれば、その企業の預金口座に入金されることで、預金が80増加し、更に、その20%を留保して、64を別の企業に融資すれば、預金が64増加します。これを無限に続けると、預金総額は、100を20%で除した額、即ち、500になります。この預金と融資の相互規定的な累増効果が信用創造です。信用創造は銀行だけの機能、より厳密には、預金だけの機能なのであって、ここに銀行の本質があります。
預金を増幅させて大きな融資原資を作るところに、預金で規定される銀行の本質があるのですね。
経済の成長段階においては、産業界等の資金需要に対して、資本蓄積が十分ではありませんから、その補完として、銀行の信用創造機能は重要な役割を演じてきました。しかし、一方で、経済成長率が低下し、他方で、資本蓄積が進行していくと、必ず、どこかで資金の需給が逆転して、蓄積過剰になります。そのとき、もはや信用創造機能は不要というよりも有害になりますから、金融構造の改革が求められるのです。
実際、1980年ころから、サッチャー首相の英国とレーガン大統領の米国で、大胆な金融改革が断行され、銀行機能から資本市場機能への移転が図られたことは、あまりにも有名です。
日本では、その時機を逸して、過剰な銀行の融資力が不動産投機に向かってバブルを生じ、バブル崩壊の後遺症により、更に改革が遅れてきた結果、現在では、預金総額が融資総額を大きく上回り、差分が国債の取得に充てられて超低金利をもたらすという不均衡を生じています。もはや、この先の持続可能性は全くありません。
だからこそ、今、森信親長官の率いる金融庁によって、銀行機能から資本市場機能への転換が始まったのですね。
現在の金融行政の最重点課題は、明確に、貯蓄から資産形成への転換とされ、預金の増大を目指してきた銀行に対しては、金融庁は、具体的に、預金から投資信託への移転を促しています。その前提として、投資信託の質の向上を図るべく推進されているのが「顧客本位の業務運営(フィデューシャリー・デューティー)」の徹底というわけです。
1980年代の英米の状況では、銀行縮小は程度の問題にすぎなかったのですが、現在の日本の場合は、フィンテックという新しい要素が付け加わっていますから、金融改革は、程度ではなく本質の次元においてなされるはずで、一気に究極のところまで進行してしまうでしょう。
むしろ、これまでの遅れをとり返して世界の頂点を目指すために、究極まで突き進むべきなのです。例えば、銀行縮小ではなく、銀行消滅というところにまで。そうしてこそ、超成熟経済における金融の理想的あり方を示して、世界に範を垂れることができるのです。
銀行融資がなくなれば、産業界等の資金調達は、資本市場経由になるわけですね。
金融改革を断行したサッチャー首相とレーガン大統領にとって、それは経済再生計画の一翼を担うものにすぎなかったのです。森信親長官の金融庁にとっても、金融改革はアベノミクスの成長戦略の一部です。金融の舞台を資本市場に移すことで、市場規律によって、産業界のガバナンス改革を推進するところにこそ、真の目的があります。
市場規律を担うものは、投資運用業者であり、その先にある投資信託の保有者である個人投資家、また年金基金等の機関投資家です。故に、これら資産運用にかかわる金融事業者は重い責務を負う、それが「顧客本位の業務運営(フィデューシャリー・デューティー)」にほかなりません。
銀行消滅に伴う預金流出は、理屈上、全て投資運用業界への資金流入となりますが、その分、投資運用業界には、ガバナンス改革を通じ、また融資を超える高度金融機能の提供により、産業構造革新を実現し、もって国民の資産形成に寄与することで、経済厚生の増大に貢献しなければならないという重責が課せられるということです。
では、そこの銀行員の君よ、銀行消滅で、どこへ行く。
タイプライターの消滅によって、タイピストは消滅しました。しかし、その製造会社であったIBMは、背後にある企業事務の合理化という理念に忠実であることにより、今日に至るも情報サービス業の雄として世界に君臨しています。タイピストは理念なき合理化の手段であったのに対して、タイプライターは理念を内包した装置だったのです。
銀行員も同じことです。銀行業の背後にある理念に対して忠実に仕事をしてきた人は、投資運用業界やフィンテックの領域に、あるいは、金融機能の利用者である産業界の側に、新たな機会、おそらくは、より魅力的な機会を容易に見つけることでしょう。しかし、理念なきタイピストとしての銀行員は消滅するほかありません。
タイピスト的銀行員と、そうでない銀行員との境目は、どこにあるのでしょうか。
銀行という組織先にありきで、銀行の立場で発想して行動してきた人は、間違いなくタイピスト的銀行員ですから、確実に未来はありません。そうではなくて、銀行が演じている社会的機能の高度化を顧客の視点で考えてきた人は、逆に確実に未来のある人です。
例えば、個人金融サービスにおいて、真の顧客の利益の視点で、投資信託、保険、住宅ローン、その他消費者ローン等の提案を心掛けてきた人、即ち、金融庁のいう「顧客本位の業務運営(フィデューシャリー・デューティー)」を徹底してきた人は、銀行がなくなってノルマ営業から解放されれば、急速な成長が見込まれる資産形成関連の事業において、大成功できるでしょう。
また、法人融資部門において、真の顧客の利益の視点で、経営改善提案を行い、融資以外の資金調達提案もしてきた人、即ち、真の企業財務コンサルタントとしての仕事をしてきた人は、投資運用業界や、産業界の財務部門に、たくさんの魅力ある地位を見出すでしょう。
従来は陽が当たらなかった裏方で、銀行事務や資産管理事務など、金融のインフラ業務に携わってきた人は、急拡大するフィンテックの領域や金融関連の事務インフラを独立させた事業分野において、陽の当たるところで、創造的で革新的な業務につくことができるでしょう。
要は、銀行員であることによって、高度な拘束のもとにおかれ、煩瑣なルールに縛られ、銀行利益優先のもとで、真の顧客本位を貫こうとして、貫き切れなかった人は、自由な新天地で、思う存分、顧客の視点での創意工夫の限りを尽くすことができるのですから、これに勝る幸福はないのです。銀行消滅、銀行員解放、万歳です。
しかし、銀行経営者にして、馬鹿でない限り、高度な拘束から脱却し、煩瑣なルールを廃し、銀行利益優先を放棄し、真の顧客本位を貫くことで、生き残りを図るのではないでしょうか。
当たり前のことです。ただし、銀行の次元で改革できることではないので、持株会社の傘下の事業会社の再編という形態になるはずです。つまり、銀行に集約されていた機能を、顧客本位の視点で、持株会社直下の会社に移転していくということです。実際、みずほフィナンシャルグループなどには、先行的な動きがみえています。人の移動も、故に、グループ内になる場合が多いのでしょう。また、同時に、タイピスト的銀行員の意識改革にも力を入れていくに違いありません。
また、広義の銀行には、信用創造機能をもつ預金取扱金融機関として、信用金庫等の協同組織が含まれますが、組織の設立理念からして、金融排除されやすい利用者の利益を守るために存在している以上、通常の銀行の預金と融資とは性格の異なる面を鮮明にすることで、逆に存立基盤を強化し、決して消滅しない銀行として、繁栄していくところがでてくるでしょう。また、歴史的に協同組織的起源をもつ第二地方銀行のなかにも、改めて創業の理念にたち返り、決して消滅しないところがでてくるはずです。
これらの動きは、銀行消滅の健全な反射効果であって、中小零細企業を支援するものとして、日本の金融力強化に大いに貢献することでしょう。
改革が功を奏すると、旧銀行は形式的に消滅しても、形を変えた新生企業として実体的に存続できるかもしれませんね。
そうなるようにするのが経営者の責務ですが、そこには、経営の断絶的な飛躍が必要であり、飛躍には決断がともないます。そして、その決断は、銀行は確実に死ぬという覚悟のもとでのみ可能になるのです。真に生きるために、偽りの生を死す、これこそ、「葉隠」がいう「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」の真意であり、日本精神史の精華です。
生は、死を突き詰めたとき、死からの照射を受けて、鮮明になる。銀行の死を具体的な事実として覚悟をもって直視できる銀行と銀行員だけが死なないのです。
以上
次回更新は、2月16日(木)になります。
2017/02/02掲載「金融のない社会のほうが望ましい」
2017/01/26掲載「金融はロボットにやらせるべきか」
2017/01/19掲載「顧客満足に反してこその金融」
2017/01/12掲載「顧客満足は顧客本位ではない」
2016/12/22掲載「金融機関監督庁から金融機能強化庁へ」
2016/11/17掲載「森信親長官らしい金融再編論」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。