銀行と顧客との間の甘い関係を論じようと思うのですが、まずは投資信託の販売から始めようと思います。金融庁が強力に投資信託の改革を推進していることは、金融界を超えて国民の間にも浸透してきていて、目下の熱い話題となっているからです。
さて、金融庁の改革の標語となっているのは、今では金融界の誰でもが知っているフィデューシャリー・デューティーですけれども、この言葉が初めて施策として登場したのは2014年の9月です。実は、その頃、銀行の投資信託の販売において売れ筋だったものは、実に奇怪なものでした。その異常さが金融庁をして改革を急加速させる動機になり、その金融庁の思いがフィデューシャリー・デューティーという言葉に結実したのに違いないのです。
奇怪な投資信託とは、どのようなものでしょうか。
いわゆるダブルデッカーというものです。これは、投資対象が米国ドル建てやユーロ建ての低格付け社債等の表面利回りの高いものになっていて、更に、より高金利なトルコリラやブラジルレアルなどに通貨変換したものです。つまり、原資産のリスクに高金利通貨のリスクが上乗せになっている点を、ダブルデッカー、即ちロンドンの二階建てバスに喩えているのです。
いうまでもなく、このようにして強引に表面利回りを高くし、高水準な定期分配金の支払いを謳ったとしても、そのことは決して期待総合収益の高さを意味するわけではなく、背後には大きなリスクが潜んでいるのですから、元本毀損の可能性も高く、仮に元本毀損のもとで分配金が支払われれば、実質的な元本取崩しを収益分配と偽るような詐欺的事態にもなりかねないのです。加えて、表面的な高水準の分配金により、高額な販売手数料や信託報酬の存在が隠蔽されてしまうことも大きな問題です。
では、顧客を半分騙すようにして強引に銀行員が売っていたのでしょうか。
いっそのこと、そういう簡単な話なら、金融庁としても、徹底的に検査を行い、問題事案を摘発し、強権により是正を求めれば済むのですから、楽だったはずです。ところが、現実は全く違っていて、今では、金融機関の法令遵守は、少なくとも表面的には、完璧に近いのです。つまり、金融機関の利益のために技巧を凝らして作られた投資信託も、少なくとも表面的な手続きのうえでは、適法かつ適正に売られていたのであって、顧客のニーズに反していたとは決していえない状況があったわけです。
これを別の側面からいえば、金融庁は、この投資信託の例のように、リスクを過剰なまでに大きくして表面的な高水準の分配金を謳うことは金融機関の利益の視点で売りやすい商品設計を行うものだと指摘していますが、売りやすいということは顧客のニーズに応えている面があるからであって、それを強引な押し付け販売とは断定できないということです。
顧客は、裏の仕組みを理解していたのでしょうか。
もちろん、法令違反等の事実がない以上、確認書等の存在により、顧客は仕組みや手数料等について理解していたことになっていますが、そうした形式の裏の実質を推定するに、十分に理解していなかったと考えられます。ただし、顧客としては、最初から理解する気がなかった可能性もあり、故に、いとも簡単に確認書に同意してしまったということかもしれないのです。
つまり、例えば、ダブルデッカーの購入者には、毎月の高水準な分配金を年金の補完として利用していた高齢者が多いとされているのですが、そうした顧客にとっては、事実としての分配金が全てであって、その裏の仕組みを知る実益などなかった可能性が高いということです。しかも、おそらくは、うまい儲け話などあり得ないとの社会常識のもとで、裏に多少は無理な仕組みがあろうとは感づいていたでしょう。
では、いかがわしさを承知で、わざと騙されたふりをして、投資信託を買っていたということでしょうか。
そのようなことも決してなかったはずです。単に銀行を素朴に信じていただけだと思われます。銀行が勧めるものについては、多少は営業上の装飾過剰な話法があるにしても、毎月分配のように気の利いた設計に満足して、悪いことにはなるまいという安心感のもとで、購入されていたのです。
ならば、銀行は顧客からの信頼を裏切っていたのでしょうか。
まさに、そこの判定が決定的な論点なのです。金融庁は、当初、銀行が顧客からの信頼を裏切っていると認定したようです。実際、金融庁は、フィデューシャリー・デューティーという英米法の言葉を借用し、その徹底を求めたのですけれども、この言葉は信頼されているものが負う信頼を決して裏切ってはならないという高度な義務を意味するものなのです。
しかしながら、おそらくは今では金融庁も気付いている通り、顧客の側には、信頼が裏切られたという感覚など全くなかったのです。仮に遺産整理の過程で出てきた妙な投資信託について遺族が問題視するにしても、本人自身は満足して亡くなられたと考えられるわけです。
顧客の側にも問題があるということですか。
銀行は悪いことをしない、銀行が変なものを勧めるわけがない、銀行の人が熱心に勧めてくれるのだから付き合ってあげなくてはいけない、よくわからないけど銀行の人が一生懸命だから任せてみようというような姿勢の顧客について、金融行政として、どこまで保護すべきなのかは難しい問題です。つまり、これは、保護されるべき信頼というよりも、甘え、依存、盲信、自己責任の放棄というべきかもしれないのです。
銀行の側にも全く同様の甘えがあるのではないでしょうか。
銀行は顧客からの信頼を自覚的に裏切っているのか、これは判定の難しいことですが、顧客の側に裏切られたという自覚がなく、おそらくは、銀行の側にも、積極的に信頼を裏切るような意図はなかったのではないでしょうか。しかし、間違いなく、顧客からの信頼に適切に応えてはいなかった、あるいは顧客からの信頼に甘えることで結果的に信頼を利用することになってしまっていたとはいえるでしょう。
銀行と顧客が相互に甘えあう関係ですね。
顧客は銀行に甘えているから、少しも資産運用の勉強をしないし、よりよい投資信託を探そうという努力もしません。銀行は顧客に甘えているから、表層的な顧客満足に訴えて真の顧客の利益に反する可能性を顧みず、故に、顧客本位の姿勢に徹することなく、真の顧客の利益に適う優れた投資信託を販売しようという努力もしません。
こういう相互に甘え合う状態のもとでは、顧客側に一定の満足があるのみならず、銀行側に法令違反等の事実を認定できるわけでもない以上、金融行政が介入する余地はないといえます。
しかし、これでは、日本の資産運用の質が向上するはずもなく、ひいては、国民の資産の形成と保有のあり方を非効率なものにし、資本市場を通じた資金循環をも非効率にし、国民の経済厚生の増大という政策課題の阻害要因ともなります。ですから、今の金融庁は、森信親長官のもとで大胆な路線転換を行い、ここに切り込んだのです。
そうしますと、金融庁のいうフィデューシャリー・デューティーは、銀行のみならず、顧客にも向けられたものなのですか。
フィデューシャリー・デューティーは、今では、顧客本位に呼びかえられ、日本の現状に即した新たな意味付与がなされています。顧客本位は、第一義的には、顧客に甘えることなく、専らに顧客の利益の視点で、顧客からの信頼に真に応える銀行の経営姿勢を意味するのですが、それだけでは顧客が銀行に甘えているという事態の改革には不十分であって、同時に、顧客自身が自己の主体性を確立し、自己の責任で、自己の判断で、投資信託を選択できることをも意味しなくてはなりません。
ならば、銀行の顧客本位には、適切な情報と助言の提供を通じて顧客を賢い投資家に育てる義務を含むでしょうし、顧客の顧客本位には、自己の財産の適切な増殖を図る経済的自助努力義務と、厳しい要求を突き付けて銀行を鍛える社会的義務を含むでしょう。
こうして、顧客本位の徹底のもとで、銀行と顧客との関係は、資産運用の低度化に帰結してきた相互依存の甘いものから、資産運用の高度化をもたらす相互研鑽の厳しく緊張したものへと、抜本的な転換を遂げていくことが予定されているのです。そうなることで、国民の安定的な資産形成と、資本市場の健全なる育成と活性化とを通じて、国民の経済厚生の増大に資することができるというわけです。
そうしますと、顧客本位は狭く投資信託の問題に限られるわけではないのですね。
もちろんです。銀行と顧客との甘い関係は、投資信託の販売だけではなく、銀行の全ての分野に及んでいるのです。なかでも国民の経済厚生の増大という政策課題との関連で特に問題となるのは、投資信託の現状以上に、法人融資の実態です。
そもそも、銀行は、主体的なリスクテイクの自覚のもとで、日々新たなる企業の活ける動態を適切にとらえたうえで、積極的に貸しているのか、それとも、従来から継続している固定化された取引関係に基づいて、受動的に借りてもらっているのか。また他方で、企業は、主体的な財務政策判断のもとで、日々新たなる金融市場の活ける動態を適切にとらえて、融資を最良の資金調達手法だと判断して、積極的に銀行から借り入れているのか、それとも、従来から継続している固定化された取引関係に基づいて、受動的に漫然と貸してもらっているのか。
融資の実態は、多くの場合、銀行と企業の間の固定的な取引関係に依存、あるいは安住したものだということですか。
融資の現場においても、投資信託についてみたような銀行と顧客との甘いもたれ合い関係があると考えられます。このことは、企業においては、安易な銀行融資に対する依存を蔓延させ、資金調達の高度化を工夫する努力を阻害することで、不要な資産保有や、非効率な資本構成を招いているのであり、銀行においては、財務諸表等から得られる表層的な事実に基づく融資判断を横行させ、信用審査能力の高度化を阻害することで、信用リスクテイクのあり方の非効率化を招いているのです。
いうまでもなく、金融庁は、この事態を問題視していて、改革を行おうとしていますが、その標語になっているのは、銀行に対しては、事業性評価に基づく融資であり、企業に対しては、コーポレートガバナンス改革です。つまり、銀行は、真の企業の動態を評価して、貸すべきものに自覚的に貸していかなければならないということであり、企業は、債権者である銀行を含む全ステイクホルダー間の適切な利益衡量のもとに、最適な資本構成を維持するのに必要にして十分な借り入れを行うべきだということです。
コーポレートガバナンス改革では、株主の役割が強調されますが、銀行が圧倒的に大きな地位を占める日本の特異な金融構造のもとでは、銀行の役割は極めて重大です。日本の成長戦略の鍵になるのは産業改革ですが、その実現のためには、どうしても銀行と顧客との間の甘い関係を断たなくてはならないのです。
以上
次回更新は、7月20日(木)になります。
2017/02/09掲載「銀行死す、銀行員よ、死の覚悟をもて」
2016/09/08掲載「銀行の食文化革命」
2016/09/01掲載「銀行よ、カネに豊かな色をつけてみよ」
2016/08/18掲載「銀行がなくなる日に、銀行機能は甦る」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。