「ブリダンの驢馬」もしくは「亀を抜けないアキレス」(後編)

森本紀行
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※前編の内容はこちら
さて、哲学ついでに、もう一つ有名な哲学上の逆説を取り上げましょう。エレアのゼノンのものです。


 エレアのゼノンは紀元前5世紀のギリシアの哲学者です。このゼノンの名に因む「亀を抜くことのできないアキレス」、もしくは「的に到達し得ない矢」の話は有名ですね。
 アキレスはギリシアの英雄で、足が速いので有名です。このアキレスにして競争で亀を抜けないというのです。アキレスの少し前を亀が走っている。亀が走るのは想像できないので、歩いているといってもいいでしょう。その亀を後ろからアキレスが追い抜こうとするが、抜けないのです。なぜかというと、亀とアキレスの間には、何がしかの距離がある。その距離をアキレスが進むのに、いかに俊足でも一定の時間は要します。その時間中に、亀は、いかに鈍足でも多少は進むから、アキレスが亀の元いた地点へ到達するときには、亀は少し前にいる。その距離を進むのに、再びアキレスは一定の時間を要するので、亀は、その間また少し先へ行ってしまうということの連続で、亀とアキレスとの間の距離は、無限に縮みますが、決して、アキレスが亀を抜くことはない。
 矢と的も同じことです。射手の放った矢は、射手と的との中間点を通過します。これは当然です。次に矢は、その中間点と的の次の中間点を通過します。ところで、かような中間点は、的に向かって無限に存在するので、矢は、その全てを通過しなければならない以上、的に無限に接近はしても、的には到達し得ないのです。

この逆説のポイントは、空間を無限に分割することに起因します。

 この場合、目標物への距離を無限に分割していくことが逆説を生んでいるのです。しかも、この逆説では、時間と空間が一体化しています。お気づきのように、時間もまた、空間の無限分割に合わせて、無限分割されているのです。この点をベルグソンは問題にしたのですが、ベルグソンのみならず、多くの哲学者が様々な議論をこの逆説から引き出しているので、深入りは止めましょう。ベルグソンを持ち出したのは、私の学生時代の愛着からですが、もはや、どうでもいいことでした。
 ただ、大分以前に私が、この「アキレスと亀」とベルグソンをモチーフにして、前職のワトソンワイアットで書いたものが、いまだに、同社のサイトで読むことができるようです。「遊ぶ人と稼ぐ人の弁証法、または新コミュニズム宣言 - 亀を抜こうとして抜けなかったアキレスが地の果て目指して夢中で走っていたら豹さえ抜いていたという話の哲学的解釈に基づく経営学」という、型破りというか、奇怪至極というか、実に妙なタイトルがついています。それにしても、これ、2001年12月のものですので、当HCアセットマネジメント創業の少し前の私の思想を表現しているものと思われるのです。なるほど、こういう考えで起業したのだということを、今回改めて再読して、我ながら感心しました。なお、同様の不思議な私の論考が、同社のサイトで、いくつも読めます。よろしかったら、どうぞ。
 寄り道から元に戻ります。この逆説、目標物への距離を基準にして時間を無限分割することに、起因するのです。「目標物への距離」を取り去ると、成立しない逆説です。アキレスにして、亀ごときを基準にして走るわけがない。だから、当たり前ですけれども、普通に走れば、普通に亀を抜きます。飛ぶ矢にして、ドンぴしゃり的に先が触れた瞬間に運動停止するはずがありません。矢は的の遥か向こうまで到達するような力を持って放たれています。的が矢の到達点ではなく、矢の進行の途上に的が置かれているに過ぎません。だから、矢は力余って的に突き刺さります。当然です。
 この逆説、人間社会の問題に翻訳すると、目標達成を目指す限り、目標に近づきこそすれ、目標を超え得ないことをいうのです。問題なのは、アキレスの走り方であり、射手の射方です。行動様式を制御することで、結果的に目標を上回ることが、重要なのです。目標を基準に行動を制御しても、目標すら完全には達成できないのです。こうした理屈は、経営理論のみならず、経営実務にも、広く取り入れられています。オブジェクティブ志向からガイディング・ディシプリンへ、あるいは、人事の世界では、目標管理からコンピテンシーへ、という流れがそうです。
 アキレスは亀を抜くために走るのではありません。自己固有の走りが、結果的に亀を抜くのです。亀を抜くための走りは、亀に拘束されているから、亀に勝てないのです。自由な走りではないのです。亀を抜けないアキレスは、秣を選択できないブリダンの驢馬なのです。亀を豹に変えても同じことです。目標や基準を持たない自由さ、その自由の厳しさと孤独さにこそ、革新の本質があるということです。

では、資産運用の世界に置き換えると、どうなるのでしょうか。

 基準を持たない自由な運用ということになります。しかし、それは、非常に厳しい運用です。一般に、ビジネスとしての資産運用では、基準を全く持たない、全く無限定の、端的に運用するというだけの、要は全く自由な運用委託契約は成り立たないと考えられています。ビジネスとして負える責任範囲を超えるからです。端的に儲けろ、という約定は、自由度が高すぎて成り立ち得ないのです。何らかの限定が必要なのです。しかし、限定を付すことと、目標を設定することとは同じでしょうか。
 日本の株式に運用をするというのは、一つの、しかも、ごく一般的な限定です。こうした運用委託契約は普通に成立します。日本株の代表的な市場指数は東京証券取引所株価指数の市場第一部のもの(TOPIX)です。そして、日本の株式に運用するという委託契約では、このTOPIXに勝つことを目標にする場合が多いのです。では、日本の株式に運用するという一つの限定をつけることと、TOPIXに勝つことを目標にすることとは、同じでしょうか。概念的には明らかに違うはずですが、実務では、多くの場合、ほとんど同じになっているようです。そこに問題があるのです。
 日本株に運用するというのは、投資範囲の制限ですので、その範囲内であれば銘柄選択は全く自由です。選択の仕方によっては、TOPIXと大きく異なる結果を生む可能性があります。問題は、TOPIXと大きく異なることが顧客の期待を裏切るかという点、即ち、日本株に運用するという委託の趣旨に反するかという点です。
 いうまでもないですが、深刻なトラブルを起こすのは、TOPIXが大きく上昇するときに全く追随できないときです。一方で、TOPIXが大きく下落するときに全く追随しないのは、理論上は、同じ意味を持つにもかかわらず、トラブルは起き得ない、というよりむしろ、顧客からは喜ばれるでしょう。ところが、実務上は、トラブルを避ける方向に動くのが当然ですから、日本株に運用するということが、次第にTOPIXに追随するという方向へ傾いていくことになるわけです。そうなると、例えば、収益率がマイナス20%でも、TOPIXがマイナス25%ならば、5%も指数に勝った、運用会社としては5%もの付加価値をだした、という評価になってしまい、それこそ、顧客の本来的期待を損なうことになるのです。
 マイナス20%がよくないことは自明です。ただし、TOPIXがマイナス25%になるような環境からすれば、説明のつく数字です。説明のつくことは、ビジネス上は重要ですが、ただそれだけのことです。まさか、マイナス25%の目標に対して、よりよく目標を実現したことにはならないでしょう。説明のつくことは、一つの制約条件です。選択の技術によって高い収益率を実現することが、そもそもの運用委託契約の目的です。制約を目的化することは、亀を抜けないアキレスになること、的に届かない矢になることと同じです。
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。