それに対して、若かりし私(この常務理事とは親子ほどの年の差があったのだと思います)は、「投資の儲けというのは、掌にのった現金に、時価の増減を加えた総合収益のことだ」と反論したものです。もちろん、私が正しい。当時も今も、理論的に私が正しい。そのことは間違いないのですが、今の私は、「掌にのった現金」を数えることは、理論的に投資成果を測定する方法ではないにしても、投資の究極の目的ではあると信じるにいたりました。
先月の三回のコラム(16日「東京大学基金」、23日「JR三島会社の経営安定基金と大学財団」、30日「大学の資産運用に見る「昭和期バブルの日本」」)を通じて、主張したかったことは、大学やJR三島会社経営安定基金の資産運用では、資産運用収益を毎期の事業予算に組み込んでしまっている以上、「掌にのった現金」としての収益を挙げないわけにはいかない、ということです。支出に充当する収益なのですから、現金でなくてはならないのです。つまり、運用の目的は、「現金を作ること」なのです。これは、理論的な正しさ以前の、社会的責務です。
もちろん、外部環境に照らして達成困難な責務(例えば、東京大学基金が想定する年間5%の現金としての運用収益の実現)を負うことはできない。しかし、合理的な運用目標(おそらくは年率2~3%)の下で、それを現金の収益として実現すること、同時に資産(収益を生む「元手」としての資産、いいかえれば「元本」)を減らさないこと、この二つが資産運用の本来の目的であることは間違いありません。
このことは、大学の資産運用やJR経営安定基金に限らず、普遍的に、資産運用の目的といっていいのです。本当の富裕層とは何でしょうか。金利生活者のことです。資産を取り崩して生活する人のことではありません。運用収益は生活費になるのですから、現金でなくてはいけません。運用収益は、利回りが一定ならば、資産額に比例するので、資産は減らせない。また、資産は、個人のものであるよりも、ファミリーのものとして、次世代へ継承されなくてはならないので、その意味でも、資産は減らせない。だから資産保全が重要な要素になる。これが、欧米の富裕層の資産運用(プライベート・バンキング)の本質です。
企業年金基金も例外ではありません。
定常状態に達したときに、1000億円の資産が必要だ、という意味は、3%という財政上の利率を予定しているならば、年間30億円の現金としての運用収益と掛金収入の合計額が、給付支出として流出する、ということです。資産を取り崩して給付することはできません。これは、富裕層の資産管理と同じことであって、財政上の利率が一定である限り、減らせば比例的に運用収益の実額が落ちてくるので、収支不均衡が累積的に拡大してしまうからです。
保険会社の資産運用もそうです。そもそも、企業年金制度は、団体年金保険の一例に過ぎません。一定の予定利率を想定して計算された保険金・給付金額は、現金としての運用収益と保険料収入との合計額で賄われているのです。もしも、保険資産額が必要留保額を下回れば、自己資本で埋めるしかない。この点は、企業年金基金の資産額が必要留保額を下回った場合、母体企業からの拠出額で埋めるしかないのと同じことです。
さて、冒頭の論点に戻ります。
要は、理論的に測定された総合収益率(時価変動を加味したもの)と、現金の収益率(時価変動を加味しないもの)を比較したときに、前者(理論的に正しいもの)のほうが高ければ問題ないが、後者(社会的に正しいもの)のほうが高いときは、タコハイ(蛸足配当。蛸が自分の足を食う例え)になってしまうということです。この二つの「正しさ」は、時間軸上でしか両立し得ない。これが、本当の「長期運用」ということの意味です。
つまり、全ての年度で、総合収益のほうが現金収益より高いという状態を実現することは、不可能です。しかし、総合収益の長期平均の範囲内で、単年度ごとの現金収益の外部流出を行う限り、財政の破綻は起き得ないということです。ただし、前掲の7月16日のコラム「東京大学基金」で数例をあげて説明しましたように、資産額が一時的に大きく下落したときにも、現金流出を行うと、資産価値が回復したときも、流出させた現金からも生じたであろう運用収益が機会損失になるので、長期収支の悪化は避けられません。
ここで、いよいよ、タイトルに「簿価主義・含み益経営の正しさ」をあげた理由です。
これまで強調してきた「資産保全」ということは、「資産時価」の保全のことではありません。「元本」もしくは「資産簿価」の保全のことです。時価が簿価を上回る部分が「含み益」です。もしも、総合収益が、長期的に現金収益を上回っていけば、その差分が必ず含み益として蓄積されます。一時的に、総合収益のほうが低いときに、その含み益を取り崩すことは、財政の長期収支を悪化させません。簿価(もしくは元本)を取り崩すのが、本当のタコハイです。含み益を取り崩すのは、利益留保額の配当なのだから、タコハイではありません。含み益は、安定的な現金収益の実現を支える調整弁なのです。
含み益の効用は、別なところにもあります。必要な現金収益は、「実金額」として規定されていることです。このことは、つい、収益を「率」として思考しがちな我々が、気をつけなければならないことです。必要実金額としての30億円は、簿価1000億円の3%として規定されています。仮に含み益が100億円あって、時価が1100億円だとしましょう。1100億円に対する30億円は、3%ではなくて、2.7%です。いうまでもなく、3%よりも2.7%のほうが、達成しやすい。含み益があるからこそ、30億円という実金額としての収益の達成確率が上昇しているのです。
現金収益率を上回る総合収益率を長期的に実現し、含み益を形成した上で、単年度ごとの現金収益の支払いの安定性を高める一方で、含み益の上にも生じる収益を追加的な収益源泉とすること、これが、「古き良き昭和」(バブル期前の昭和)の「簿価主義・含み益経営」の本質です。すばらしいと思います。正しいと思います。なのに、なぜ、今日、全否定されてしまったのでしょうか。
含み益ではなくて、含み損が生まれてしまったからです。
根本的な理由は明確です。総合収益率が正しく計測されていなかったので、本当の資産運用効率が管理されていなかった。だから、過年度の収益の留保である含み益を取り崩して実現された単年度の現金収益を、本当にその年度一年間に達成された収益だと誤認していたのです。そして、1990(平成2)年、昭和バブルの終わりとともに、含み益が底をつき、その後も、更なる資産価格の下落の中で、無理な実現収益の計上を続けることにより、含み損が累積的に膨らんでしまったのです。もはや支えきれない不均衡を前にして、時価主義への移行と、過去の損失の認識ということになるのです。
以来、資産運用の目的は、資産時価の上昇に置き換えられます。企業年金基金では、完全時価主義ですので、単年度の会計上の収益までが、時価の変動そのものになってしまいました。高齢化の進行で成熟度が高くなっている企業年金基金にとって、現金の収益が重要度を増しているというのに、おかしなことです。一方で、大学や金融機関では、完全時価主義ではないのですが、逆に、総合収益の科学的測定に基づく効率的な資産管理が十分にできていないという、昔の弊害を、完全に脱却できていないところが、少なからずあると見受けられるのです。いまこそ、過去の良いところと悪いところを見直して、運用の原点を再確認すべきときなのです。
企業年金基金の資産運用に関してですが、「古き良き昭和」から金融危機後の今までの歴史を9月17日に通観します(HC資産運用セミナー「日本の年金資産運用の歴史」)。ぜひご参加ください。
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森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。