でも、敢えて公開すると、ヒューマン・キャピタル(Human Capital)、即ち、人的資本に由来しています。もともと、弊社設立の直前に、英字を含む名称の登記ができるようになったので、新しいもの好きから、HCで登記したのです。だから、HCが正式で、本来、何の略でもないのです。しかし、謂れはある。謂れは秘密のほうがカッコイイかな、ということで、秘密だったのですが。
HCの謂れは人的資本です。なぜ、資産運用の会社の屋号の謂れが、人的資本なのか。経緯は、長く複雑なのですが、短くつめると、二つのことに帰着します。
一つは、弊社は、具体的な有価証券等の銘柄に直接投資するのではなくて、そのような具体的運用を外部の運用会社を使って実行していく、つまり、弊社の投資対象は、普通の資産ではなくて、運用スキルを備えた人材で構成する組織、即ち人的資本なのだ、という意味です。
もう一つは、弊社の有力な顧客基盤が、企業年金の資産だということ、つまり、企業の退職給付債務という人的債務を裏付ける資産、即ち人的資本が、弊社の運用資産の大きな割合を占めるということです。ちなみに、退職給付債務は、賃金の後払い的性格を帯びる債務であって、いうなれば、従業員からの長期借入であり、本来は、資本性を帯びる借入として、まさに人的資本であるはず、本来は、そうであるはずなのです。
ということで、HCという屋号の謂れは、人的資本を人的資本へ投資する
ということになるのですが、二つの人的資本のうち、今回取り上げようと思うのは、企業の退職給付債務としての人的資本のことです。特に、少し前に書きましたように、退職給付債務は、本来は、資本性を帯びる長期借入として、まさに人的資本であるはずだ、という論点です。「であるはずだ」ということの含意は、実際は、そうなっていない、ということです。なぜなのでしょう。
結論を先にすれば、時価評価が資本性、あるいは長期債務性を、完全に損なっている、ということです。退職給付会計は、時価評価から、二重に影響を受けます。つまり、退職給付資産(年金資産)から債務を控除したネットの債務が問題であるところ、資産も債務も両方とも時価評価されるので、二重の影響がでるということです。結果として、ネットとしての退職給付債務は、極めて大きな変動率を持つことになり、本来は長期固定債務としての安定資本的性格を有するはずであるにもかかわらず、会計的には、安定の正反対の、極めて不安定な貸借対照表上の攪乱要因になってしまっているのです。
現行の退職給付会計を、国際財務報告基準(IFRS、国際会計基準)に一致させる方向での検討が、進んでいます。もしも、そうなると、損益計算書への影響も大きくなる懸念が、指摘されています。企業年金債務は、安定的人的資本というよりも、管理しにくい人的コストとして、否定的評価を受けることにも、なりかねません。本当にそのようなことでいいのでしょうか。
こんなことで、日本経済の将来は大丈夫なのか。日本産業界の国際競争力は維持できるのか。
日本経済新聞社が「年金の誤算」という本を出版したのが1996年、そこから2002年へ掛けて、金融危機と退職給付会計の導入の中で、「年金の誤算」が「年金の危機」になってしまいました。多数の解散と給付減額。私は、そのときも、本当にこんなことでいいのか、と思いました。その思いから、HCを屋号にする会社を設立した経緯があります。その辺の事情は、9月3日のコラム「企業年金の積立不足」に書いておきました。
企業年金の危機の再来は避けなければなりません。原点に返って、なぜ企業に確定給付型の退職金・年金制度があるのか、なぜ必要なのか、日本経済の成長において、それが、どのような積極的役割を演じてきたのか、改めて考え直すべきではないでしょうか。
企業にとって、確定給付型の退職金・年金制度が、戦略的に必要ならば、環境変化に適応して、その維持を図るのが当然です。給付設計や資産運用の見直しは不可欠でしょうが、戦略的に重要なものを、環境要因で止めてしまうことは、できないでしょう。もしも、戦略的に不必要ということならば、仕方ありません。制度を廃止するなり、全面的な確定拠出制度への移行を進めればいいのです。業態的に、確定給付型がそぐわない企業もあるでしょう。
しかし、私は、多くの企業において、確定給付型の戦略的重要性が、再認識されるはずだ、と期待、あるいは、予想しているのです。
確定給付型の退職金(および、その退職金を年金化した企業年金制度)は、後払い報酬です。しかも、単なる後払いではなくて、勤続が長くなるほど支給条件がよくなるように設計するのが普通です。ということは、基本的に、長期勤続奨励型の処遇制度なのです。ここが、ポイントです。長期勤続奨励の背景には、二つの人事政策が考えられます。一つには、雇用の「量」の安定確保、もう一つは、熟練による雇用の「質」の改善、この二つです。
一方で、後払い報酬の企業財務的側面は、従業員からの借入です。高度経済成長期には、企業は基本的に資金不足でしたから、確かに、この従業員からの借り入れとしての退職金の機能は、小さくなかったと思います。しかし、退職金債務は、最優先の労働債権であるにもかかわらず、保全されない、そこで、二つの社会福祉政策的視点、即ち、退職金債務の保全と、公的年金の補完の二つの視点で、年金化と事前積立制度(あるいは、非課税積立の条件としての年金化)が導入されます。これが、現在の企業年金制度の始まりです。
驚異的な高度経済成長から、極端な成熟経済への、短期間での転換が、結果的に、多数の「誤算」を生み出したことは、周知の事実です。雇用の量の重要性が大きく低下し、資金不足から資金過剰になっただけでも、退職金・年金の誤算は明白でした。年金化したときに前提した高い予定利率は、超低金利定着の中で、誤算の最たるものになりました。急速な人口動態の変化は、制度の加入員・受給者構成に大きな誤算を生じさせました。事前積立した資産も、その収益率が予定を大きく下回るという、誤算を生みました。余命が長くなったことは、喜ばしいことなのですが、終身年金の制度の経済にとっては、マイナスの誤算です。これだけの誤算の集積が危機につながったのは、当然だったかもしれません。
しかし、少なくとも一つ、誤算でないものがある。熟練による雇用の「質」の改善です。
実は、熟練も、一時は、誤算だったのです。米国の自動車産業の例が一番わかりやすいと思います。その黄金期には、まだ職工の熟練と数が、経営にとって重要な意味を持ったのです。だから、非常に豊かな企業年金制度が導入され、加えて、強い労働組合も生まれます。結果的に、生産の自動化が進む過程では、古い雇用構造が、生産システム転換の遅れにつながり、挙句は、今回の経営破綻において、巨額な年金債務が、その有力な一因を形成するに至るのです。
しかし、歴史は、再度、転換します。少品種の大量生産・大量消費から多品種の少量生産へ、低価格から高付加価値へ、変換するとき、改めて、熟練が問題となるはずです。特に、日本産業の将来にとっては、日本企業にしかなし得ないような高度精密加工などが、生き残りを掛けた成長分野になってくるのではないでしょうか。
熟練、雇用の質、ひいては、日本産業の競争力を支えるものが、人的資本(債務)としての退職金・年金債務だと思います。前回の企業年金の危機は、前提条件の誤算が大きな要因でした。いまは、超低金利にしろ、退職給付会計にしろ、投資環境にしろ、基本的には、全て、前提として取り込んだ上で、企業年金制度は、運営されているはずです。そうでないならば、改めて前提を見直して、資産運用のあり方も、新しい前提の上に再構築すればいいのではないでしょうか。IFRSも、前提の変更(必ずしも小さくないかもしれませんが、誤算とまではいえない変更)の一つとして、吸収可能なものだと信じます。信じたいと思います。
関連コラム:「企業年金の「長期運用」と経営の時間軸」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。