金融の社会的機能としての投資銀行業務

森本紀行
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金融サービスは、社会的な資金需要に対して、適正な資本構成(キャピタル・ストラクチャ)で、需要に見合った適正な金額を提供する限り、適正な利潤を挙げうるはずです。

 これは、経済の仕組み上、論理的に、そうなるはずの要請です。
 ところが、論理的にはそうであるはずが、現実の実社会では、そうならない。これもまた、人間社会の仕組み上、当然でしょう。社会的資金需要は、適切なときに、適切な金額、適切な方法で、社会的資金供給と出会わねばならない。しかし、現実社会は、常時、資金需給の大きな不均衡の上で、動いているようです。
 資本市場の自由化、効率化、グローバル化は、要は、この資金需給の調節を、市場原理によって実現しようとする試みだったわけですが、昨年の金融危機をみますと、資金需給の均衡化には、ほど遠い状況です。むしろ、金融の市場化は、不均衡の拡大要因となっているようにすら、みえます。
 この問題は、現代社会が抱えた最大の難問の一つです。議論の方向は、二通り、あるのでしょう。一方は、市場化が徹底していないことが問題なのだという主張、他方は、市場化の試みそのものが問題なのだという主張、この二つです。もちろん、中間には、市場化すべきものと、市場化してはいけないものがあるのであって、市場化すべきものは徹底的に市場化し、そうでないものは、従来型の市場原理ではない仕組みを模索すべきなのだ、という折衷的主張も成り立つでしょう。どちらにしても、真の論点は、「市場化の徹底」とはどういうことか、「市場化に替わる仕組み」とは何なのか、ということです。この二つ、もしかすると、同じようなことに帰着するのかもしれないではないですか。

原点に返って、なぜ社会的な資金需給が均衡しないのか、検討してみましょう。このような大きく複雑な問題に対処するには、思い切って単純化して、本質的な要素を抽出するしかないと思われます。

 私は、論点は、資金需要の「社会的」な必要性と、その必要性の内容と適合した「資本構成(キャピタル・ストラクチャ)」の提案に、帰着すると考えています。
 資金需要の全てが、残念ながら、社会的必要性に裏付けられているわけではありません。投機も資金需要を生みます。人間の社会的規律を欠いた、所得能力を上回る過剰な消費も、資金需要を生みます。バブルは、まさに、儚く消え去る運命の泡ですが、本当の意味での社会的実需の裏づけのない、そのような投機的資金需要にも、なぜか、巨額の資金供給が行われます。我々の金融の歴史は、世界的に、バブルを避けることはできていません。
 バブルのような不必要な資金需要への資金供給は、必ずバブル崩壊をもたらし、巨額な不良資産の償却負担が、金融サービス業の資金供給能力を低下させます。どうかすると、社会的資金需要を満たせ得ないほどに、低下します。まさに、本末転倒です。社会的無責任といわれ、批判を受けても仕方ありません。そうはいっても、事実として、バブル的事象を防ぎ得ないのも現実です。やはり、最後は、倫理の問題に帰着するのでしょう。しかし、倫理だけでは規範としての客観的拘束力は弱い。そこを保管するのが、社会的関係性(リレーションシップ)なのだと思われます。
 社会的に不必要なものへの資金供給が行われる一方で、本当に社会的に必要とされている資金需要については、その全てが満足されているわけではないと、思われます。こちらは、単なる倫理の問題ではあり得ません。第二論点、資本構成(キャピタル・ストラクチャ)の問題です。
 まさか、資金需要の全てを融資でまかなうことはできません。融資という形態では、資金供給をなし得ないような、社会的資金需要だってあります。ある種の技術開発は、その商業化が社会的に必要だとわかっていても、実用化・量産化へ向けた事業リスクの測定が困難な場合が多いでしょう。結果、そのような開発にかかわる資金需要は、プライベート・エクイティによってしか、充足され得ないのでしょう。

現在の金融サービス業は、我が国に限らず、世界的に、業態別縦割りを原則とする、高度な規制業です。

 「業態別」というのは、要は、「資本構成(キャピタル・ストラクチャ)の上の位置別」ということです。例えば、融資は銀行が行うが、社債や株式の引き受けは証券会社が行う、というような縦割りです。
 特に、銀行等の預金取扱金融機関の場合、資本規制等の仕組みが働きますので、事実上、融資を中心とした資金供給となり、その融資すら、与信基準等について、様々な規制面の配慮を充足しなければならなくなります。こうなりますと、社会的資金需要の必要性を、よく理解していても、融資はできない、ということが当然におきるわけです。そのことをとらえて、「貸し渋り・貸し剥がし」という、倫理的視点での批判を、銀行等に加えることは、的はずれな場合が多いと思います。
 しかし、融資できない、で終わってしまっては、金融サービスの社会的使命は、貫徹できない。もちろん、融資できないところを融資するのが使命だ、というような暴論(こういう暴論に近いものも、残念ながら、ないとはいえないようですけれども)はあり得ない。要は、どうすれば、融資できるようになるのか、という建設的な資本構成(キャピタル・ストラクチャ)の提案こそが、金融サービスの社会的使命になるのだと思うのです。
 実際、自分の融資の下に、劣後する資本および資本性債務の厚みを作れば、融資できるようになる案件も多いと思われるのです。ただし、この場合、銀行等が、劣後部分については、資金供給しない前提でなければ、意味ありません。金融サービスの縦割りシステムは、当然のこととして、劣後部分についての資金供給を専門に行う業態を想定しています。それが、社債や公募株式であれば、証券業界の領域でしょうし、プライベートなメザニンや株式であれば、いわゆる「ファンド」の領域です。

こういう縦割りは、全くもって、顧客の視点を欠いています。金融サービスの供給側の論理にすぎません。

 実は、ここの構造的欠点を補完するのが、真の意味における投資銀行機能、最適な資本構成(キャピタル・ストラクチャ)を提案し、その実現を支援するものとしての、投資銀行機能なのです。
 現金の供給を伴わない単なる提案は、無意味なので、投資銀行機能は、独立した業ではなくて、現実の資金供給を行う金融業態の一つに内包されてきました。歴史的には、社債・株式の引受を行う証券会社に内包されてきました。ゆえに、いまでは、投資銀行と証券会社は同義に近くなっています。しかし、最近では、投資ファンドのほうへ機能移転(この論点、8月20日の弊社月例セミナ「事業価値とキャピタル・ストラクチャ -資本市場の構造変化とファンド資本主義-」で取り上げました)したり、改めて証券業と切り離した独立アドバイザリ業として再編されたりしています。
 では、なぜ、銀行等の融資を主力とする業態へ統合できないのか。もちろんできます。地域金融機関にだってできます。これが、10月16日に弊社が共催している「地域金融機関は地域の投資銀行になれるか-地域共創ネットワーク未来航海フォーラム-」のテーマであり、また、前回コラム「地に堕ちた「投資銀行」の再興を地域金融機関の手で」での主張です。
 地域金融機関は、顧客との社会的関係性(リレーションシップ)に基盤を置くことで、バブルのような倫理的逸脱を回避し、投資銀行機能を備えることで、顧客の視点に立って、社会的資金需要に対して、他の業態と連携して、資金供給できるのだと思います。ここに、日本固有の、世界に誇るべき金融サービスのあり方を、「ポスト金融危機」のモデルを、実現できるのではないか、私は、そのような熱い期待を、地域金融機関にもっています。

以下の関連コラムも、ご参照下さい。
8月27日「取引(トランザクション)金融と関係(リレーションシップ)金融
9月 2日「地域金融の「地産地消」

森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。