インデクス運用は、常識に照らして、まともな行為なのか

森本紀行
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いきなり、挑戦的なタイトルで、お騒がせいたします。

 インデクス運用は非常識、とまではいいませんが、その理論的根拠については、再考の余地が大きいと考えております。
 インデクスとは、indexのことであり、資産運用の世界では、市場指数(market index)のことです。余談ですが、カタカナ表記には、こだわりがあります。インデックスというのが普通かもしれませんが、そう書くと、おそらくは、アクセントが「デッ」に落ちがちになると思います。原音は、「イン」にアクセントがあるのです。インデクスと書くほうが、原音に近くなるような気がします。これは、patternを、パターンと書くと、「ター」にアクセントがいってしまうのと同じです。パタンと書くほうが、原音通りに、「パ」にアクセントをもっていきやすい。
 脱線ついでに、更に余計なことを書けば、弊社では、managerは、マネジャという表記で統一しています。マネージャーが普通かもしれませんが、そうすると、原音に反して、「ネー」にアクセントがいきがちでしょう。一般に、ITなどの技術系の方面でも、同じ表記のこだわりがあるようですね。センタ、センサみたいに、末尾の長音の記号をつけないのは、原音に忠実であろうとするためだと思われます。
 さて、市場指数(そもそも、カタカナ表記の理屈以前に、漢字で書けばいいじゃないか、という話のほうが、大事かもしれません。市場指数運用でいいのですよね、本当は)は、定義された市場(例えば、東京証券取引所第一部のように定義された市場)の中で取引される証券の価格の平均値です。各証券の時価総額の加重をかけるかどうかなどの技術的な差はありますが、平均値であることに、変わりありません。

当たり前ですが、平均は、個別証券の価格変動の結果の集積です。

 結果の集積なのです。では、はたして、結果を事前に目標にすることは、常識的に、まともでしょうか。世の中には、多種多様な能力試験があるでしょうし、そのほとんど全てについて、試験結果の平均点を算出していると思います。しかし、まさか、受験に際して、結果としての平均値を目標にすることがあるのか、といえば、常識的にあり得ないですね。もちろん、証券価格の平均値と、テスト結果の平均値とは、単純には、比較できないのですけれども、人間の常識・良識・感覚の問題として、違和感を覚えないか、ということです。
 話は飛びますが、私は、自称哲学者であります(学歴的には、必ずしも、「自称」ではないのですけれども)。私の哲学的な渾身のコラム、「「ブリダンの驢馬」もしくは「亀を抜けないアキレス」」(5月7日前編、14日後編)は、実は、このインデクス運用の問題を、ことさらに、わかりにくく、取り上げたものです。なお、「ブリダンの驢馬」は、普通は、左右等距離に秣をおくのではなくて、等距離に水と秣を置くのです。私は、わかりやすいように、あえて、両方を秣にしました。これも、どうでもいい、こだわりですね。スイマセン。

5人が100メートルの徒競走をするとしてください。

 5人のうち、一番足の速い人であれば、5人の平均タイムを目指して走ることは可能ですね。しかも、残り4人の過去実績のデータが整備されていればいるほど、平均へ近づける精度を上昇させることはできるでしょうね。しかし、その努力、どんな社会的意味なり、意義なりが、あるのでしょう。一番足が速いなら、全力で走って、平均値を上げる努力をしたらいいでしょう。
 二番目に足の速い人も、同じく、平均を目指したらどうなるでしょうか。おそらくは、残り3人の真ん中あたりで、二人がピッタリ並んで併走する形になるでしょうね。5人全員が平均を目指したら、もはや走る意味を失います。要は、5人横一線に並べばいいのだから、10秒だろうが、10時間だろうが、関係ない。動かなくて、そのまま、スタートラインに立っていればいい。
 亀の後ろを走るアキレスは、普通に走れば、結果的に亀を抜きます。その当然に抜くという結果を目的化すると、論理的には、亀を抜けなくなります。的に向かって、矢を放てば、結果的に的に当たります。しかし、的に到達するという結果を目的化すると、論理的には、矢は的に到達しません。
 実は、この5月の哲学的コラムでは、インデクスの変動で説明のつくような運用は、決してインデクスに勝ち得ないことを論じているのです。インデクス変動という結果で説明がつくことは、一つの制約ですが、その制約を目的化することの愚を論じているのです。インデクス運用は、インデクス変動で説明がつくどころか、それと同じになることを目指すのだから、さらに極端なわけです。もしも、市場参加者が全員、インデクス運用を目指したならば、証券価格は、変動しなくなるでしょうね。徒競走の参加者全員が、平均タイムを目指せば、走る必要がないのと同じです。

見方を変えましょう。インデクス運用の理論的支柱は、市場の効率性にあります。

 個別証券の価格は、必ずしも、常には、効率的ではあり得ないでしょう。割安もあれば、割高もある。しかし、不特定多数の市場参加者が、各自、独立の判断で、多数の証券を売買する結果として形成される平均価格は、効率的であると考えられているわけであります。平均は、割高でも、割安でもない。割安を買うのは、理想でしょう。一方で、割高でも割安でもない、まさに適正値を買うのは、理想でないまでも、常に、妥当な行為なのです。ここに、インデクス運用を正当化する理論的背景がある。
 忘れてはならないことは、インデクスが効率的であるためには、不特定多数の市場参加者が、各自、独立の判断で、売買することが前提だ、ということです。だから、市場の制度設計においては、この基本要件を満たすように、不特定多数性、情報の対称性の確保など、様々な工夫がなされているのです。しかし、いかに制度上の工夫を凝らそうとも、基本中の基本として、市場参加者が、自己の利害を賭けて、自己の思惑で、自己の責任で、真剣に市場に立ち向かって、個々の銘柄を売買すること、いうなれば、資本主義を支える精神が、貫徹しなければ、市場は効率的にはなり得ないのです。
 ある銘柄を売ることは、その銘柄への否定的評価です。買うことは、肯定的評価です。そのような個別の市場参加者の個別の評価について、正しいとか、正しくないとか、という価値判断は成立ち得ません。だからこそ、そのような異なる多数の評価の集積値としての市場平均を、効率的(市場理論では、「正しい」というのと同じです。「市場は正しい」というのが基本的思想だから)とみなすのです。
 市場参加者は、自己の評価を個別銘柄にぶつけていく社会的責任を、市場に対して負っていると思います。全員が、この責任を果たしてこそ、市場は効率的になるのです。日本の株式市場で、「持合い」が問題視されるのも、政策的大株主は、市場に対する責任を果たしていないのではないか、という論点に基づくのでしょう。

インデクス運用について、私が直感的な疑念を感じるのは、この点なのです。

 自分は責任を果たさないで、自分以外の残りの市場参加者が責任を果たした結果を、その結果だけをとろうとすること、その「無責任」さが、どうも、引っかかるということです。
 年を重ねると、昔を思うことが多くなります。10年以上も前に、大企業の年金基金に、本格的なインデクス運用の仕組みを導入するお手伝いをしたことがあります。そのとき、年金の責任者だった方は、人事関係の経歴の方で、資産運用は「素人」だったのですが、インデクス運用について、「要は、アクティブ運用が機能している限りでのみ、意味があるのだな」といわれました。その慧眼に感服したものです。
 私は、素人とおっしゃる方の常識から、より多くを学びました。運用の専門家を自称する人は、どうかすると、「アクティブ運用は成果がでないから、インデクス運用にする」などといわれます。常識の働かない市場、誰も責任を取らない市場は、いつか、正しい社会的機能を停止します。
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。