例により、いきなり、脱線しますが、私は、アート愛好家の大金持ちは、美術館などには敢えて行かないのだろうと、考えております。理由は簡単です。美術館の展示物は、買えないからです。2009年12月17日のコラム「価値の変動と価格の変動」は、価値と価格とは異なることを述べています。そこでの趣旨とは、少し違うのですが、美術品の価値と価格も異なるのです。
美術館にある国宝級の絵画には、非常に大きな価値のあることは間違いないのですが、だからといって、高い価格が付くことはありません。そもそも、市場がないからです。一方、ギャラリー(画廊)は、もともとアートを売るのが商売です。そこは、アートの市場です。だから、大金持ちは、美術館に行かずに、ギャラリーに行くのです。買えるからです。
買えるということ(同時に、売れるということ)、これは、当然過ぎるほど当然な、市場の基本要件です。買えないものには、市場で値が付かない。どれほど価値があっても、価格は付かない。市場では価格が問題なのです。
株式市場に自己の株式を上場しておきながら、事実上、買収できないような状態に置くことは、アートを美術館に収蔵するようなものでしょうね。そのような企業にも、社会的な価値がないわけではないでしょう。もしかすると、国宝級の価値のある企業もあるのでしょう。世界中の企業が見学に来るのかもしれません。しかし、だからといって、その企業の株式に、まともな株価が付くかどうかは、疑問です。
投資家は、美術館で絵を鑑賞しているのではありません。ギャラリーで絵を物色しているのです。企業経営者は、少なくとも株式を公開している以上は、ギャラリーで評価されるように努力しなくてはなりません。美術館で感心されるように経営したいなら、非公開化すべきです。しかし、非公開化もまた、自分自身による買収でしょう。
要は、自分自身による買収だろうが、他人による買収だろうが、株式市場から、株式が吸収されていく仕組みが明確でない限りは、株式市場としては、機能しないでしょう。ここに、日本の株式市場の大きな問題点があるのだと思われます。
ところで、買収できない企業の株式に投資価値がないかといえば、そうでもないでしょう。価値がある限りは、価値を投資収益に還元できないはずはない、そのように思考することが、資本主義の原点としての投資の基本姿勢なのですから。
そこで重要な意味をもってくるのが、配当性向です。買収可能性をめぐる問題と並んで、日本の株式市場の問題性として指摘されてきたのが、この配当性向です。
またアートに脱線しますが、美術館にアートを収蔵することも、立派なビジネスです。観覧に供すれば、それなりの収益を生むからです。資産価値を規定する基本要素は、キャッシュフローの創出力です。このことは、繰り返し、繰り返し、論じてきました。代表的論考は、先ほど挙げた「価値の変動と価格の変動」です。
この論理からすれば、美術館の絵にも理論価格をつけることができます。買えないから市場価格はないのですが、理論価格はあり得ます。つまり、鑑賞に供して得ることのできる観覧料の将来にわたる総額の現在価値、これが理論価格です。
脱線ついでに、不埒なこともいってしまいましょう。銀閣寺だって同じことなのですよ。あれは、売れません。絶対的価値は、想像のかなたの高みにあるのでしょうが、市場価格はありません。ただ、拝観料の総額の現在価値として評価すれば、理論価格は算出できます。
買収できなくても、将来配当の期待値が充分に高ければ、株価は堅調に推移するでしょうね。将来配当の期待値は、現在の配当とは異なります。現在配当が低くても、内部留保した利益を効率的に再投資して、将来の事業キャッシュフローを潤沢にしていくような経営努力(企業経営の目的は、これに尽きるでしょう)をしていけば、将来配当の期待値は高くなり、株価は上昇するでしょう。
いうまでもありませんが、日本企業の配当政策に対する批判は、配当の低さにあるのではありません。
内部留保した利益の再投資の効率性に対する疑義にあります。株主に責任を負う株式会社なのですから、企業資産の効率的運用は義務です。保有目的についての説明ができない資産の保有は、認められない。それは、処分して、効率的に再投資するか、現金配当するしかないのです。これは、当然に経営の責務です。
日本の経営者の一部には、配当政策を、自由な経営裁量とみなす傾向もあるようですが、配当は、裁量であるよりも、義務です。合理的な配当政策を志向することは、結果的に、企業資産の効率的利用になり、資本利潤率を高くすると考えられています。これは、株式会社という制度が内包する理論的な要請です。
くどいようですが、配当はしなくてもいいのです。ただし、内部留保した利益が効率的に再投資され、将来配当の原資になることを、説明できればいいのです。その説明ができなければ、株価は上がり得ないのです。
話を買収の問題に戻しますが、誰だって、悪いものを、喜んで買ったりはしません。買う価値があるから買収するのです。
合理的な配当政策をとる会社などは、多くの場合、良い会社ですから、買収する価値の高いものでしょうね。もともと、良い会社なのですから、別に買収されなくとも、充分に投資価値のあるものなのですが、買収時には、当然にプレミアムをつけた株価で買収されます。問題は、このプレミアムなのでしょうね。
これは、少し難しい問題です。株主としては、株価は高いほうがいい。しかし、一方で、かようなプレミアムは、株主として当然に期待すべきものかどうかについては、異論があり得てもいいのでしょう。実際、可能性としては、不当にプレミアムを高くするような、マネーゲーム的な行為も、あり得ます。ただ、悪い買収を引き合いにだして、本当の良い買収を否定するのは、明らかに筋違いです。合理的で適切なプレミアムによる買収が、本来の姿なのですから。
それにしても、本来の買収は、良いものを買うのだから、その良さを壊すような変革を、買い手として、行うはずがない。だから、本来は、買収を恐れる理由はない。にもかかわらず、被買収を否定するのは、経営者が、自己の経営の正しさに自信をもっていないからだ、との批判をかわすことができないのです。これが、資本市場の論理です。この論理に反しては、株価は上がらない。
ところで、本来の事業価値の良さを損なうような、まずい経営というものも、あり得ます。結果、株価が低迷する。このような企業は、本来良いものを安く買えるという意味で、格好の買収ターゲットになります。買収後に適切な改革が行われ、本来の事業の良さが復活することは、株主の利益というよりも、もはや、社会の利益です。このように、市場の客観的な力により、社会改革を推進しようというのが、本来の資本主義の論理です。この論理に反して、経営の主観を貫きたいなら、資本市場から非公開化により撤退すべきです。もちろん、適切な価格で、充分なプレミアムを払った上で、株主から株式を買い取ることによって、ですが。
さて、最後に、日本の株式市場は変わるのか、ということですが、私は、そういう「日本の株式市場」というような、大きな抽象的な問いの立て方には、もはや、意味がないと考えております。良い会社は良い。変わる会社は変わる。株式投資の基本は、良い会社を買うことですから、市場全体は、どうだっていいのです。買えるものだけを厳選して買えばいい。それで、いいのです。もともと、そういうものなのです。「日本の株式市場は・・・」というような社会評論には、もはや何の意味もない。
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。