リクィディティをめぐる諸問題

森本紀行
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リクィディティ(liquidity 通常、日本語では流動性といっています)とは、資産の売却可能性のことです。このリクィディティは、投資収益の重要な源泉です。なぜか。これが今回のコラムの課題です。

 そもそも、市場型のリスク管理は、リスクを売ることによるリスク管理ですから、投資対象の売却可能性を前提にしています。ですから、売却できないときは、リスク管理が機能しない。その意味で、リクィディティは、決定的に重要なのです。この問題を取り扱ったのが、2009年11月12日のコラム「市場型リスク管理の限界」です。売却可能性の限界が、リスク管理の限界を規定するのです。
 ここで、「市場型リスク管理」といったときの「リスク」は、普通の技術的な意味でのリスクです。しかし、この一連のコラムを通じて、何度も何度も繰り返していますように、価値と価格とを、リスクとボラティリティとを、区別することは、極めて重要なことなのです。このあたりの論点については、2月18日のコラム「投資の損失とリスクとボラティリティ」を、ご参照ください。
 ボラティリティと区別された意味でのリスクを、「売る」ということは、損失の可能性を取り除くことです。債券でも株式でも、投資対象の属性は、安定的ではありません。即ち、価値は変動し得ます。もちろん、価値変動が、価値の高くなる方向にあればいいのですが、保守主義を原則とする投資の世界では、価値の上昇をまで、期待すべきものではありません。
 問題は、価値変動が価値の低くなる方向へいくこと、つまり、価値の毀損が見込まれるときでしょう。また、価値を論じるためには、価値が合理的・科学的に判断・評価・測定できることを、前提にしています。ですから、合理的な価値判断が不可能となる状況もまた、問題なのです。このような、価値の毀損や、価値判断が不可能となる状況を、社会の一般常識に従った言葉使いにより、リスクと呼んでいるのです。
 ちょっと脱線しますが、価値の毀損がリスクであることは、誰にでもわかることですが、価値判断ができなくなることもリスクである点は、意外と認知されていないような気がします。価値判断ができないものは、価格を付けようがないのです。価値の毀損については、毀損を前提にした上での評価が可能であり、価格はつき得る。だから、売れないことはない(価格の低さは問題でしょうが)。ところが、評価ができないものは、売れません。したがって、評価できないものは、絶対的にリクィディティがないのです。
 複雑な仕組みの、ある種のABS(アセット・バックト・セキュリティーズ asset backed securities)が危険なのは、ここに理由があります。担保となっている原資産の価値変動が、非常に複雑な経路で、様々に権利区分された証券(トランチ tranche といっています)に影響を与えるので、証券の評価が困難になってしまうのです。これが、サブプライム問題で顕在化した、おそらくは、最も重要な論点だったのです。

本論に戻って、このようなリスクは、売却によって取り除くしかありません。

 これは、常識的投資行動ですが、それができるためには、そもそも、売却が可能でなければならない。ここに、売却可能性としてのリクィディティの、第一の重要な意味があるのです。
 次に、価格とボラティリティとの関係を考えてみましょう。価値は変動しなくとも、市場要因により、価格は変動し得ます。この価格変動をボラティリティと呼んでいるのですが、価値が変動しない限り、ボラティリティは、長期的には、無視し得る(これが、長期運用というときの、「長期」の本質的意味です)ので、売却可能性は問題にならない、というか、問題にすべきではない、というべきでしょう。

ところが、話は、それほど簡単ではありません。

 問題は、価格が下落したときなのです。単なる価格の下落(という意味は、価値の変動がないということですが)から発生する損失は、長期的には無視し得る、一時的な「評価損」に過ぎません。ところが、会計上、その損失を認識する限り、資本の控除項目になってしまうことは、制度上は避けられません(だったら、制度を工夫したらどうか、と私は考えているのですが)。
 資本が、見かけ上とはいえ、減少すれば、保有できる資産のリスク総量も、減少します。ゆえに、一部の資産の売却が必要になる場合が、多いのです。このことは、強い資本規制の下に置かれている銀行等の金融機関にとっては、深刻な問題なのです。
 このような仕組みからすれば、資産価格の下落は、資産売却を誘発することが多い。だから、保有する資産には、いつでも売れるというリクィディティが要求されざるを得ないのです。この資本制約に準拠した、保有資産の総量の調整のための売却可能性、これが、リクィディティの第二の重要な意味です。
 ところで、価格の下落が売却を誘発するという論点に関連して、少しだけ横道に逸れましょう。銀行の資本規制が現にそうであるように、資本制約の構造問題は、概ね、世界共通だろうということです。だとすると、全世界の多数の金融機関が、一斉に売却をすることとなりかねず、そのことに起因する大きな市場への影響が、更なる価格の下落を誘発する、という恐るべき負の連鎖を引き起こしかねないということです。これが、プロシクリカリティ(pro-cyclicality 増幅効果)と呼ばれる問題です。現に、今回の世界的金融危機には、現実化したことです。
 本論に戻って、第三にリクィディティが必要となるのは、そして、これが一番わかり易い場合なのですが、現金を払出すときです。資産を売って、現金を作ってから払出すのであれば、当然に資産は売却できなければならない。年金資産では、いわゆる成熟が進行してくると、必ず、毎年の掛金収入よりも、給付支出のほうが大きくなります。ゆえに、給付のためのリクィディティというのは、重要な意味をもつわけです。

以上で、リクィディティが必要な理由を概観しましたが、さて、次なる問題は、リクィディティは、ただか、ということです。

 売却可能性は、一つの利点です。投資、というか、広く金融の世界では、利点を得るには、必ずコストを払うのが仕組みです。コストを払うということは、つまりは、リクィディティのある資産は、リクィディティの対価分だけ、期待リターンが低くなければならない、ということです。
 具体的には、リクィディティの高い資産(一般的には、発行総額の大きい優良な資産ということですから、国債等や、一流大企業の発行する債券や株式ということでしょう)は構造的に割高で、リクィディティの低い資産(全てのプライベートな仕組みの資産、小型株、低格付社債など)は、構造的に割安だ、ということです。
 ここから、冒頭の、「リクィディティは投資収益の重要な源泉です」、という論理が導出されるのです。つまり、リクィディティを必要としないのであれば、あるいは、リクィディティを必要としない仕組みを作ることができるのであれば、割安なものに投資できる、いいかえれば、他人のリクィディティ制約を、自己の利益に換えられる、ということです。では、リクィディティを必要としない条件とは、何でしょうか。
 まず、第一の意味のリクィディティ(価値の毀損としてのリスクを回避する目的の売却)については、そもそも、投資の基本動作としての、投資段階における銘柄の徹底分析と厳選が、決め手なわけです。
 第二の意味のリクィディティ(価格変動としてのボラティリティに対応する売却)については、資本規制を強く受ける銀行等の金融機関がコストを払い、資本規制のない一般投資家が利益を得る、というのが、本来の基本構図です。つまり、銀行等が投資しにくい、リクィディティの低い資産へ投資することは、一般には、年金基金や財団・個人富裕層にとって、利益になるはずなのです。
 第三の意味のリクィディティ(現金の払出しのための売却)については、そもそもが、資産を売却してまで現金を払いだす仕組みになっていないだろう、ということを考えていただきたいのです。年金制度は、理論的に、インカム収入と掛金の合計値が給付に一致するように、設計されているのですから、予定されたインカムが入れば、それでいいのです。インカムこそがリクィディティなのであって、売却可能性としてのリクィディティは、必要ないのです。
 資産は保有するのが原則です。資産はキャッシュフロー(インカム)を創出する仕組みのことです。資産の売却可能性が問題なのではなくて、資産のキャッシュフロー創出力が問題なのです。売る必要のない資産、というよりも、売りたくない資産を、見つけ、磨き、末永く保有すること、これが投資の本質です。

以上

次回更新は、4/8(木)になります。

森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。