「古池や蛙飛び込む」的な市場理解について

森本紀行
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「古池や蛙飛び込む水の音」というふうに、江戸時代の俳諧を横書きにすると、ちょっと妙ですね。いわずと知れた、芭蕉の有名な句ですが。

 この句、まさか、蛙が池に飛び込むさまを目で見て詠んだものではないでしょう。もしもそうなら、あまりにも平板な、つまらない描写の句になってしまいます。そうではなくて、「音」で止めてあるのだから、音が主役であることは明白で、視覚でとらえた蛙ではなくて、聴覚でとらえた蛙を詠んだものです。
 しかし、目で見ていないなら、なぜ、音が蛙の飛び込んだことに起因するとわかるのか。おそらくは、ふと音を聞いたことに、その音に句の着想が始まっているのです。小石が水に落ちたような音でしょう。「ぽちゃっ」というような感じの小さな音です。それだけなら、詩にはならないはずで、その音が、詩人の心に、何かの波紋を起こすのでなければならない。そして、その音の原因を様々に考える。あ、蛙が池に飛び込んだのだな、と思い至る。その心の動きが、一句を形成しているのです。
 この句、これだけでは、昼間か夜か、わからない。でも、真っ暗闇を想定するほうが、いいでしょう。実際、真っ暗闇に佇んで、原因不明の音を聞くときに感じる不安は、相当に大きなものです。真っ暗闇でなくとも、静寂は必要でしょう。静寂でなければ、小石が落ちる程度の小さな水音が、心に波紋を起こすことはない。
 不安の原因の解明は、実は、不安の解消につながるのです。不安と、不安の解消までの微妙な心の動き、しかも、本当に蛙が原因かどうかは確認し得ない以上、背景に薄く漂い続ける不安、この句は、そうした不安を詠んだものと解釈してはじめて、詩になる、現代的な意味での詩になる、のだろうと思います。
 私の趣味からいえば、音が心に起こしたものは、ハイデガー的な存在の不安でなければならない、音は存在の声でなければならない、のですが、おそらくは、芭蕉は、現代の不安に程遠い詩人だったと思われるので、そこまで読み込むことはできないのでしょう。おそらくは、音(存在の声)に存在の不安を聞く重厚な詩人であるよりも、存在の声を蛙に転化することで、おかしみに解消してしまうような、「軽ろみ」の詩人だったのでしょう。


「五月雨をあつめて早し最上川」。

これも、芭蕉の代表作。さて、こちらは、どう考えても、目の前の奔流を詠んだ描写の句です。句の中核は、「早し」にあるのだと思います。この「早し」、怒涛の奔流でなければ、おもしろくありません。
 私は、北海道で育ちました。そのときの忘れ得ない思い出は、春の雪解けで増水した川の奔流です。「どおーっ」という低く響く水音には、何か、引き込まれるような、恐ろしさがあります。大雨の中で、増水した川を見ても、多分、そんなに怖くないです。増水の理由が明白だから。雪解けの季節には、雨が降っていないのに、川だけが増水して、不気味な音を立てているのです。
 不安は、理由が明白でないところにあるのです。増水の理由を雪解けに帰せば、何がしか安心する。しかし、実は、本当に、雪解けが原因かどうかは、わからないのです。雪解けを想定するのは、もしかすると、不安解消のための、便利な合理化にすぎないのかもしれない。
 また、私は、学生時代、山に登っていました。深山の樹木で視界を塞がれているところで聞く音は、発生源が見えないから、怖かった。「がさっ」という音も、熊かもしれないから、怖いわけです。私が特に嫌いだったのは、沢の音です。沢に近づくと、沢は見えませんが、「どおーっ」という低い音が聞こえてくる。これ、実際に沢を見て、音と原因を一致させると、全然怖くなくなるものです。
 さて、芭蕉の最上川の句ですが、私の趣味からいえば、雨の中で詠んだのであれば、少しも面白くないのです。ひどく平板な描写の句です。もしも、これが詩なのならば、「早し」に次いで重要なのは、「あつめて」でしょう。上流の雨を集めて奔流になっているというふうな、増水の原因についての思考を介するからこそ、詩的な心の働きが活きてくるのです。奔流が示す自然の力への怖れ、その怖れを「五月雨をあつめて」と合理化する心の動き、合理化しても残る怖れ、その辺が詩の妙味なのでしょう。


ところで、私は、芭蕉の句を論じるために、本稿を書き始めたのではないのです。原因不明の不安と、原因の合理化による不安の解消、この一連の心の働きと、資産運用の関連を論じたかったのです。

 実は、6月24日のコラムは、「語り得ない不安と投資の保守主義」というものだったのです。この語り得ない不安というのは、投資の合理的判断の中では、答えを見出し得ないような問題を指しています。例えば、ユーロの崩壊のような。また、同時に、価格変動の不安は大きいのに、価格変動は論じ得ないということも述べています。実際、合理的な資産運用で語り得るのは、価値判断だけであって、価格予想はできないのです。


しかし、現実に世の中に氾濫しているのは、価格変動を合理化するような評論と価格予想ばかりです。

為替や株価や金利の変動は、膨大な情報の集積と、その情報に基づく膨大な数の取引参加者の勝手な思惑による取引の集積、その結果にすぎません。それらの価格変動を特定の原因に帰することなど、決して、できはしないし、合理的予測なども成り立ち得ないのです。
 一方で、価格変動のもたらす不安に対しては、特に、大きな価格変動がもたらす大きな不安に対しては、誰しも、語ることによる合理化への強い欲求をもつのだと思います。そのことは、よくわかります。しかし、語ることで、何か新しいものが付け加わるでしょうか。得られるものは、何かが説明されたと思う錯覚だけではないでしょうか。安直な合理化は、安直な安心をもたらすかもしれませんが、逆に、本質的な不安を隠蔽することになりかねないのです。
 語り得ないものは、受け入れるしかないのです。語り得ないものを語ろうとする努力は、実は、受け入れることを拒否することになり、結果として、直視を避けることになるのです。


一方、語り得ることは何でしょうか。大きな、外延すら把握し得ない巨大な市場全体の価格変動ではなくて、個々の小さな具体的な投資対象の価値分析だけです。

語り得ないものを語ろうとする合理化の努力は、本当の合意的投資判断にはなり得ません。合理的に語り得るのは、個別の投資対象の生み出すキャッシュフローにかかわる価値判断だけなのです。
 私は、不安を感じない強さ、という究極の境地についても論じています。要は、合理化と確信とは違うということです。「ぽちゃっ」という音を、詩的な連想から蛙に帰することは、一つの合理化です。しかし、水音を聞き分ける徹底した鍛錬を経た結果、「ぽちゃっ」という音を蛙の飛び込む音に帰するのは、確信です。
 個別具体的な投資対象の価値分析にかかわる鍛錬、熟練、修練、徹底した財務分析の反復、職人的な修行は、価値判断の確信を支えるものとなります。その確信が、市場価格変動の不安を跳ね除ける力になるのです。


資産運用の基本は、個別具体的な投資対象の価値判断分析です。そこから得られる確信が、不安に基づく心理的行動への傾きを制止し、価格変動に惑わされない運用の一貫性を支えるのです。

そして、その確信は、知的操作から生まれるのではなく、地道な分析の修練から生まれるのです。
 詩は言葉の遊びではありません。詩が詩であるためには、存在の不安を直視する芸術家としての力が必要なのです。もちろん、資産運用は言葉の遊びではありません。資産運用が資産運用であるためには、世の中の雑音(価格変動を合理化する評論)を無視し、自己の価値判断に対する確信を貫く、熟練した専門家(プロフェッショナル)としての力が必要なのです。

以上


次回更新は、8/26(木)になります。
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。