改めて伺いますが、投資の機会とは何でしょうか。
そう、「再度、投資の常識への素朴な疑問に答えます」の中で、この本質的な問いに答える約束をしていたのでした。それから、二ヶ月以上経過しました。半分は忘れていたのですが、半分は考え続けていたということです。今も考えていますが、深く難しい問題です。本質的なことが深く難しいのは、当然なのですが。
こういう問題は、これが投資の機会だ、というような個別具体的な形での解答があるものではないでしょう。投資の機会を見つけるための判断の基準はこうだ、かくかくしかじかの条件を備えたものをもって投資の機会と定義する、というような一般的な枠組みのことをいうのだと思います。
例えば、どのようなものが投資の機会を構成する要件となるのでしょうか。
基本要件は、基本中の基本要件は、このコラムを通じて何度も論じてきましたように、価値を下回る価格の存在、に帰着します。「価値の変動と価格の変動」や「価値と価格とインカムとバリュー」などを参照いただけると幸いです。
資産というものは、そもそもが、保有しているだけで収益を生むものです。債券や不動産の保有を考えていただければ、よくわかると思います。実は、株式といえども理屈は同じなのです。資産を保有していることから自然に生まれる収益(正確には、将来収益の現在価値)のことを、資産の価値といいます。
そして、価格は価値に一致する、というのが市場理論の基本なのです。もちろん、実際の市場の取引の中で、常に価格と価値の一致が保たれているわけではないでしょう。しかし、価格が価値を反映し、価格が価値に連動して動くことは、前提として織り込まれているのです。
市場の効率性とは、価値と価格の連動性の強さをいいます。完全に効率的な市場とは、価値と価格の完全な一致が実現している市場のことです。
ということは、完全に効率的な市場の中では、投資の機会はない、ということですか。
そうです。もちろん、投資の価値はあるのですよ。しかし、本源的な価値以上の投資収益を生み得る機会はない、ということです。このことが、実は、いわゆるパッシブ運用(あるいはインデクス運用)の理論的根拠となっています。
投資の機会は、第一に、価値よりも低い価格で資産を取得できること、第二に、その低い価格は本来の価値へ向かって動いていくはずであること、この二つの要件で構成されています。つまり、価値と価格の乖離と、乖離の解消という、動態的過程がない限り、投資の機会は生じないのです。
注意していただきたいことは、完全に効率的な市場に投資の機会はないのですが、一方で、投資の機会が実現するためには、市場の効率性が機能することも予定されているということです。それはそうでしょう。価格が価値に向かって動いていく、つまり市場に内在した力が効率化の方向に働くのでなければ、投資の機会は高い投資収益をもたらさないからです。
資産は保有するだけで価値を生む。投資の機会をとらえるということは、価値よりも低い価格で資産を取得しているのだから、価値との一致の方向へ価格が動くとき、相対的価格上昇が追加的収益を生む、そのことが基本になっているのです。
しかし、おかしくはないですか。市場の効率性が働かなければ、投資の機会は収益機会として現実化しない。一方で、価値よりも低い価格で資産を取得できるためには、市場は非効率でなければならない。これは理論の矛盾ではないのですか。
矛盾ではないのです。時間という要素をいれて検討してみてください。よほどの効率市場仮説の信奉者でも、価値と価格が常時一致しているとは考えていないはずです。需給要因その他で、一時的に価値と価格とは不一致になり得る、その可能性自体を誰も否定できない。完全に近い効率性とは、その一時的な不一致の期間が、非常に短い、ほぼ即時だ、という仮定のことなのです。
価値よりも低い価格というような有利な機会を、市場参加者が見過ごすはずはない、これが効率市場仮説を支える信念です。だから、ごく短い時間で機会は消滅する。では、その期間が、投資の機会として検討するのに十分な時間を許容するほどに、長くなり得るとしたらどうでしょう。市場理論の基本枠を維持しながらも、なお、投資の機会の存在を認め得るはずです。
私の見立てでは、現在の資本市場は、価値と価格の不一致の程度、その不一致期間、この両方が大きくなっているのだと思うわけです。だから、投資の機会はある。
もう一つ基本的なことを確認させてください。そもそも、なぜ価値と価格の不一致が起きるのでしょう。不一致が起きれば、それが投資の機会になることはわかりました。でも、そもそも、不一致が起きなければ、始まらないでしょう。さきほど、需給要因その他で、といわれましたが、そこをもう少し詳しくお願いします。
まず、市場理論のもう一つの基本前提を確認しておきましょう。第一の前提は、価格は価値を反映して動くということでした。第二の前提は、不特定多数の市場参加者が、各自の独立の思惑で売買することです。分かり易くいえば、売り方と買い方が、ある程度、拮抗するのでなければ、市場は成り立たないということです。この第二の前提ですが、市場参加者の等質化が世界的に進行してしまうと、成り立ちにくくなります。
現在大きな問題となっているのは、この等質化です。これは、資本市場と金融規制の世界的な一体化の帰結(おそらくは、規制当事者にも想定外の帰結)です。いまや、世界中の金融機関が、構造的に同質なリスク管理方針の中で、同一方向への投資行動を行いがちになっているのです。金融機関以外の年金基金などの機関投資家についても、運用管理手法の世界的な同質化の傾向があり、問題をより深刻化させているとみられます。
おそらくは、金融規制の前提として、銀行等の金融機関のバランスシートが相対的に小さくなることを想定していたのではないでしょうか。年金基金、財団、富裕層、個人(投資信託)などの投資主体に比して、銀行等が十分に小さければ、市場原理は機能するのでしょう。
その意味で、金融機関の過大なレバレッジを抑制する方向での検討が進んでいるのは、当然なのでしょう。それでも、現状、金融機関の規模は、あまりにも、大きすぎるのではないのか。金融機関が資本制約等の規制的環境の中でとる投資行動によって、需給の大きな歪みが作られる可能性が常時ある、これが、私の見立てであります。
しかし、もしも、投資機会の創出が、そのような大きな構造問題に起因するなら、今度は、価値の方向へ価格が回帰していく、その可能性に疑義がでてくるのでは。つまり、そのような状況下における価格の下落の背景には、実は、価値の毀損があるのではないでしょうか。
まさに究極の論点です。第一に、よく使われるいい方を用いれば、金融的事象が実体経済にどのような影響を与えるのか、ということでしょう。影響は無視できないと思います。だから、価値の毀損はあり得る。ところが、そのような投資対象を選択によって避けるのが、投資の基本なのだから、価値の毀損の可能性は、当然の前提です。
第二に、銀行等の資本制約の問題は、短期間で変動することはない。中長期の過程です。これには、二つの意味がある。一つには、投資の機会は、比較的長く存在しうるということ。二つには、故に、簡単には、価値への回帰は起きないということ。
この二つ目が問題でしょうが、価値のあるものを、価値よりも低く取得している限り、そして価値の毀損がない限り、保有するだけで、本来の価値以上の価値のあること、このことが重要なのです。長期間じっくり保有して価値ある資産を、そのような資産だけを厳選して保有すること、これが本当の長期運用の意味であり、投資の本質なのです。
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。