国破れて山河あり、ではなかったでしょうか。
そうかもしれません。しかし、山河は食えないでしょう。自分の属する国が破れても、人間は食べて生きていかなくてはならない。国家は国民の生活のためにある。国家の存続のために国民があるのではない。国が破れても人は生きる。
ところで、どこかの国が破れかかっているのでしょうか。日本がもういけないとか。破れるとは、例えば、財政の破綻とか。
特定の国がどうということではありません。可能性としては、どこの国でも、財政破綻はあり得るのです。財政破綻が具体的に何を意味するのかは、必ずしも明確ではありません。国債や通貨の価値が著しく低くなるというようなことはあり得るにしても、国民の生存を脅かすような危機、生命の危機に至るとまでは、想定し得ないのではないでしょうか。財政の危機は、金融と経済の危機につながり、国民生活は苦しくなるのかもしれませんが、それでも、国民の生活はあり、あり続ける。
それはそうでしょう。ただ、念のために伺いますが、ここでは、投資のことを話していただくのが、決まりごとでして、社会哲学よりも、国が破れたときの投資のあり方について、お話下さい。
社会哲学として、国民生活の窮乏を取り上げたのではなくて、投資の基本的あり方として、国破れるときは、生活を金融面で支えるという投資の本来の社会的機能が、前面にでてくることを論じているのです。
つまり、国民生活がある限り、国民生活に密着した経済活動と、それに関連した金融機能は、あり続ける。国民の存亡は、国家の存亡とは異なり、ましてや国家財政の危機とは次元が違う。そういうことでしょうか。
そうです。例をあげましょう。私は、昔、ロンドンのユーロボンド市場が生まれた直後くらいに、そのロンドンにいたのです。古いことなので、記憶も定かではありません。しかし、記憶の正確さよりも、例示としての事柄の本質が重要なので、記憶違いはご勘弁を。
話は少し脱線しますが、私は今でも、ロンドンの起債市場を創出したサッチャー政権の功績は偉大だと思っています。以来三十年、ロンドンを世界の金融市場の頂点に据えたのですから。
基本的な構図の一つは、オイルダラー等の累積により米国外に流出したドルを、ロンドンを経由して還流させるような仕組みだったのだと思います。ですから、有力な発行体を形成したのは、米国の大企業群でした。一方、投資家は、スイスの銀行等に集積されていたオイルダラー等(その他、多様なお金が世界中からロンドンに集まったのだと思いますが、私には、資金の背景は未だによくわからない。ただ、日本の金融機関も、その一部を形成したのは間違いないです)だったのだと思います。
ロンドン起債市場の創出に大きな功績のあった投資銀行クレディスイスファーストボストンが、スイスの有力銀行クレディスイスと、当時の米国の有力投資銀行ファーストボストンの合弁だったのは、偶然ではないでしょう。米国の発行体とスイスの投資家、そんな組み合わせだったのでしょう。ここも、サッチャー政権のすごいところですね。自国の金融機関を優遇しようなどとは、考えなかったようです。
さてその米国の発行体ですが、生活に密着した必需品で、ブランドが世界的に知られているような製品を持つ巨大企業が、特に人気が高かったようです。各国政府や政府機関が発行する債券に劣らず、というか、それよりも、米国の有名一流企業の社債のほうが、人気があったかもしれない。
1980年といえば、先立つ長い戦争の時代を考えれば、欧州に政治的安定が実現してから、間もない時期ともいえるのです。その当時、国破れることは、ごく最近まで、普通のことであったのです。そうだからこそ、特定の国が破れても影響を小さくできる多国籍企業で、しかも、生活必需品の製造業者のほうが、信用があったとしても不思議ではない。
しかし、それから三十年、現在の資産運用、より広く金融制度は、グローバル資本市場を中軸に据えたものに変貌していきます。そうした資本市場の成長は、世界的な政治の安定抜きには考えられません。今、国破れる可能性を論じるのは、何か、金融の平和ボケでも懸念されるからでしょうか。
私の懸念ではなく、資本市場の中に織り込まれている懸念でしょう。少し前に、「国債と通貨と金」というコラムを書きましたが、その中で、金価格の上昇の中に国家への信認の揺らぎをみるべきだ、という趣旨を述べました。いわゆるソブリンリスクの顕在化ですね。
ただし、例えば、日本の国債が暴落するかどうかが大きな問題だとしても、そのことについて、合理的な予測判断が可能なものでしょうか。「語り得ない不安と投資の保守主義」では、語り得ないこと、即ち、合理的判断のできないことに対する対処のありようを述べています。語り得ないことは語らないということです。
しかし、仮に、日本国債が暴落するような状況でも、グローバルに展開している日本企業が受ける影響は、限定的なのではないか。なぜなら、グローバル企業は、資金調達、生産、販売など、全ての分野で、グローバルな経営リスクの分散が図られているからです。このような、日本国債と日本企業の本質的な差は、語り得ることであり、語るべきことである。そのように、考えているのです。
要は、政治に関する問題は、科学的な投資の議論の土俵には載りにくい。次元が違う。議論できることは、産業に関することだけだ、ということでしょうか。
そういうことです。ただし、あくまでも、もしも、の話です。もしも、政治に関するリスクが顕在化してくるならば、そのリスクに対処する方法は、端的に避けることしかないのではないか、ということです。それでも、成り立つ投資とはどういうものなのか。そういうことならば、十分に合理的な議論の土俵に載るのではないか。
生活があれば産業がある。産業があれば産業金融がある。産業金融があれば投資はあるのです。そして、原点の生活に近ければ近いほど、投資の安全性は高いのではないでしょうか。
実物資産への投資というのも、同じ論理なのでしょうか。実物という目に見えるものに裏付けられたキャッシュフローへの投資には、国の借用証文とは違う確かさが感じられますね。
そう、国債には担保がない。一方、例えばインフラストラクチャなどは、明らかに、財政の負担力の低下を背景にし、公債ではなくて、その背景にある公的インフラストラクチャ資産の直接取得へ向かうものだから、論理的な構図としては、同じでしょうね。公債に担保を付けるようなものですね。
政府が公債を発行し、その資金でインフラストラクチャを整備し、その利用料を税等の形態で回収し、それを公債費に充てるという仕組みの中で、投資家の公債への投資がある。これを直接化して、投資家がインフラストラクチャを所有し、その利用料を投資収益として回収するように変更するだけのことでしょう。
そうすることで、実は、投資家は、「国家のリスク」を回避することができる。管理し得ない国家のリスクを回避しようと努力する方向の中に、生活・事業・産業への投資という、「投資の原点」への回帰の思想がある。インフラストラクチャは、他の何よりも、生活に密着しているのです。
国破れてインフラあり、ですね。投資が資産の生み出すキャッシュフローへの投資であるなら、投資の原点への回帰は、キャッシュフロー源泉への遡及ということになるのですね。
そう、投資収益の源泉への遡及、起源の追究です。
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。