投資の目的は収益をあげることでしょうか、というような問いの立て方自体が、投資の目的は収益をあげることではないという、例によって、非常識というか哲学的というか挑戦的というか、何かものいいたげな感じではありませんか。
そのとおりです。いきなり逆質問しますが、個人向け住宅融資の目的は何でしょうか。
それは債務者の個人の方の住宅取得のための金融的支援でしょう。
では、その住宅融資を証券化して作られた債券、例えば、日本でいえば、住宅金融支援機構が発行する債券に投資することの目的は何でしょうか。
なるほどなるほど、みえてきました。もしも、住宅融資の目的が住宅取得の金融的支援であるならば、その住宅融資を流動化してつくられた債券への投資も、やはり、住宅取得の金融的支援なのではないか、そういいたいわけですね。
そうです。もともと歴史的には、住宅金融支援機構は住宅金融公庫であり、かつては、直接に個人に対して住宅融資を提供していたのです。それが、直接融資をやめて、銀行等から債権を買い取って流動化する機関へ改組されたものです。住宅金融公庫の名称も仕組みも変わりましたが、金融における社会的役割の本質は変わっていません。
住宅金融支援機構債への投資を通じて、投資家の資金は、 最終的には、個人の住宅取得の資金として使われることになります。つまり、住宅金融支援機構債への投資には、そのような社会的意義があるわけです。
そうはいっても、投資家が債券に投資するのは、利息という投資収益を得ることを目的としているのではないでしょうか。
みかけ上は、そのとおりです。また逆質問しますが、商人が商品を売るのは、代金を得るためでしょうか。
なるほど。商人が商品を売るのは、顧客に商品を提供するためだということですか。代金は正当な対価として、結果的に生じるものであって、目的ではないと。
そうです。利息は資金提供に対する正当な対価です。いうなれば、お金の値段です。商品の代金と同じで、当然に発生すべき収益です。だとすると、投資の目的というよりも、投資の対価です。投資の目的は、住宅融資のように、社会的資金需要に応えることであって、収益は結果的についてくるものなのではないでしょうか。
このことについては、例えば、以前のコラム「金融の社会的機能としての投資銀行業務」などで論じていますので、ご参照いただければ幸いです。
また、この論点は、例えば、住宅金融支援機構債が何ゆえに投資対象となり得るのか、という根源の問いとも関係しています。当然ですが、住宅金融支援機構債が投資対象たり得るのは、原資産である住宅融資について、利払いと元本の償還が円滑に進んでいる限りにおいてです。
最近のコラム「国破れて生活あり」は、末尾を 「そう、投資収益の源泉への遡及、起源の追究です」と結んでいます。現代の投資の病理は、投資対象の抽象化です。本当は、債券という抽象的な「紙」に投資しているのではないのです。紙の裏にある実経済の具体的取引に収益の源泉があるのです。
もしも、投資家が、常に、収益の源泉にまで遡って投資対象の価値を判断していたら、いわゆる「サブプライム問題」は、起き得なかったのでしょう。原住宅融資に価値がないのなら、どんなに金融工学の粋を尽くそうとも、その流動化債券に価値を作ることはできない。酒粕からは、カストリしか生まれない。大吟醸はできないのです。
ところで、またまた逆質問しますが、住宅融資を欲しいと思いますか。
欲しいのは住宅であって、お金が十分にあるなら、住宅融資など欲しくありません。
では、お金欲しいですか。
また引っ掛けですね。お金が欲しいのではなくて、お金で買えるものが欲しいはずだと、そういいたいのですね。
そうです。年金資産であれ、個人の貯蓄や資産形成であれ、蓄積されたお金に意味があるのではなくて、そのお金の使途が問題なのでしょう。そうすると、投資の目的は収益をあげることでしょうか、という問いに対しては、目的は収益をあげることではなくて、資金使途を充足することだと答えなくてはいけない。このことについては、以前のコラム「個人投資家は投資信託に何を求めるのか」でも論じておきました。
投資は社会的に使途のある資金の投資です。一方で、投資は社会の資金需要に応えることです。この二つの社会性こそが、投資が満たさなければならない基本的要請なのだと思います。そして、収益というものは、二つの社会性を満たすことに付随して、その中間に発生するものでなければならないのでしょう。
投資というのは、投資資金の背景にある資金使途を充足するという社会的責任と、投資対象の裏にある社会的資金需要を充足するという社会的責任の、この二つの責任を果たすことなのだ、ということですね。そこはわかりますが、その中間に収益が発生するといえる根拠は、どこにあるのでしょうか。
投資は、やはり、金融の仲介機能の一つにすぎないからです。実は、投資は、資金の需給の時間的ずれを埋める金融機能なのです。
個人貯蓄や年金資産は、「今は使途のない資金」を、「明日の使途への備え」として留保することで、形成されているのです。一方、融資等の資金需要は、「今使途のある資金」を、「明日弁済する約束」で、調達することです。投資は、この資金使途が発生する時間のずれを媒介することに他なりません。
時間のずれを埋めることが投資の目的です。そして、投資収益は時間の対価なのです。ここに、投資の目的と、投資収益の本源的意味があるのです。
それでは、もしも、資金需要に時間のずれがなくなったら、投資もなくなるのでしょうか。
私は、なくなると思い始めています。問題は、「資金需要に時間のずれがなくなるとき」とは、どういう場合なのか、ということです。私の仮説では、それは、成長が全くない定常状態です。成長なきところ投資なしです。
よもや、日本がそういう状態へ突入したとでも。
わかりませんが、それくらいの危機感をもって、この時代を生きるべきだとは思います。
以上
次回更新は、11/18(木)になります。
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。