想定を超える事態への対応について

森本紀行
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想定を超える事態、3月11日の地震と津波の引き起こした被害は、まさに想定を超えるものだったのですね。 想定を超えるということは、人知の及び得ない先に、深淵が口を開いたということなのでしょうか。

 そうです。語り得ない深淵です。語り得ない。そもそも、このような悲劇を前にして、言葉は意味を失ったのです。悲しみの言葉も、もはや空疎なのです。被災地を遠く離れたところにいて、何を論じるにしても、無力です。毎週欠かさず書いてきたコラム、この110回目は、初めて休載しようかとも思いましたが、敢えて、今の思いを記録にとどめることにしました。私のようなものにできることは、自分の専門領域である投資との関連における発言しかないのですから。
 ここで発言したいと思ったのは、想定を超える事態、つまり人知の限界ということについての思考が、私にとって、哲学の学生だった三十数年前に遡るものであり、今でも、「投資における賭けの要素」のような論考を書かせる背景になっているものだからです。


そこでは、「橋を渡ることができるのは、橋が落ちないという信念の下でのみだ」という主張がなされていましたね。

 津波の深刻な被害の歴史をもつ地域に、津波の危険を想定できる地域に生活できるのは、その危険を回避できるという信念の下でのみ、可能だったのではないでしょうか。この信念は、過去の経験と、その経験に基づく万全の対策に裏打ちされていたからこそ、だからこそ、信念なのです。つまり、信念は、経験知なのであって、まさに想定の中にあるものなのです。
 想定の外は、信念の形成にとって、賭けなのです。その賭けは、想定の中では、ゼロにも近い微小な確率として想定されているのです。完全なゼロと、ゼロにも近い微小な確率とは、合理性の支配する世界では、等しい。ゼロにも近い微小な確率の下で生起する事象、それが今回の悲劇なのです。
 合理性の範疇に入らない危険があること、その危険を避けては、人は生きられないこと、合理的認識を超える微小な危険に対する賭け、その賭けなしでは生活はなりたたないこと、そのことが哲学の課題でなくして、哲学とは何なのか。


万分の一の確率の悲劇でも、その悲劇が生起してしまえば、100%の具体的現実ですね。

 可能性と現実性と必然性をめぐる哲学論を展開する気分にはないのですが、ひとついえることは、可能性が問題なのではなくて、現実性が問題なのだという点でしょう。ゼロにも近い微小な確率については、可能性としてゼロに近いということではなくて、現実性としてゼロではないということが重要なのです。


賭けを意識の底に沈めるのではなくて、賭けを直視し続けることが重要なのですね。

 飛行機に乗れば、必ず安全に関する注意を受ける。事故の微小な可能性を直視させているのです。


経済との関連において、その微小な確率を処理することは、極めて難しい問題ですね。例えば、原子力発電所の耐震基準が、まさに、経済合理性との関連で究極の論点になるのですね。

 私の哲学的関心の一つは、ずっと、そこにありました。人の命を経済計算にのせることの倫理的問題です。人の命の安全性にかかわる基準を、科学的な想定の遥か上のところに設定すれば、費用は、当然ですが、著しく大きくなるでしょう。その費用を価格に反映させれば、経済的になりたたなくなるかもしれません。
 原子力発電所の耐震基準は、マグニチュード9を遥かに超える著しく高いところに設定しておくべきでしょうか。そのことの費用を電力料金に反映させても、消費者は納得するのでしょうか。あるいは、火力発電や水力発電との競争力との関係で、原子力発電が経済的な意味をなさないということかもしれませんが、それで、国民生活の基礎ともいえる電力の安定供給体制を維持できるのでしょうか。
 一方で、完全な市場原理の下での経済計算を優先させれば、国民生活の安全が保てない場合もでてくる。だから、規制によって安全基準の下限を定めなくてはならない。市場への規制の介入ですね。しかし、その規制といえども、一定の経済合理性の中でなければ機能し得ない。
 そのような条件の中で、日本の原子力発電は行われてきたのです。日本政府の課した自然災害に対するための諸規制に関して、私は、その科学的合理性に批判を寄せるような知見をもちません。むしろ、知見をもたれる専門家の意見を集積して、規制がなされていると信じます。そのような信任なしで、日本国民たることはできない。


経済原則で解けない問題は、政治の問題として適切に処理されているはずですね。それが適切であるのは、政治が国民の選択だからですね。

 日本では、政策の問題として、つまり、国民の選択の問題として、原子力発電を推進してきたのです。そのような国は、日本だけではありません。一方で、原子力発電を拒否している国もあるわけです。国民の選択は、国民の立場からは批判できない。選択の変更があるだけですね。エネルギー資源の乏しいこの国で、どのような選択があるのか、今後の国民の課題です。


原子力発電については、ゼロではない微小な確率の下での危険がある。賭けの要素が根底に潜む。国民の選択は、その賭けの上にあったはずですが、一方で、政府や東京電力は、高度な技術力を背景とした安全神話の上に原子力発電所の建設を推進してきたのではないか、との意見もあるようですが。

 高度の技術力は、事故確率をより小さくするにしてもゼロにはできない。高度な技術力によっても、安全を神話化することはできない。先ほど、飛行機の安全注意の話をしましたが、安全を前提とした上で、微小な危険の存在を周知することが重要なのです。もしも、安全神話のようなものの上に原子力発電所があったとしたら、それは不適切なあり方だったと思います。


また、国民の信託を受けた政府や東京電力に対しては、充分に信任に応えきれていないのではないか、との批判もあるようですが。

 私は最善が尽くされていると信じます。批判するよりも、信じ応援すべきでしょう。
 電力事業の経済合理性と国民の安全とは、平時においては均衡させることができます。つまり、経済合理性の中で、国民の安全は守られる。しかし、微小な賭けが現実的な危険に転化したとき、経済計算は終わるのです。いや、終わらせなくてはならないのです。ここに、経済法則と倫理の絶対的な境があるのです。
 政府と東京電力が、かような倫理観の中で誠実に行動されていることについて、私はなんらの疑いを感じません。そもそも、信頼の上にしか、危機打開の道はないではないですか。


国民に対する情報の提供等のあり方については、いかがでしょうか。

 この論点も、私が長年考え続けてきたことです。無用の不安を醸成することは、心理的集団行動を誘発し、事態を悪化させる可能性があります。このことは誰にも否定できない。情報の積極的な提供が、不安を増すのか、不安を減少させるのかは、状況に高度に依存し、誰にも事前に予測できない。
 有名な事例は、銀行の取付け報道でしょう。最近の日本の例では、1998年の日本長期信用銀行と日本債券信用銀行の一時国有化の前後に、一部の銀行に取付け騒ぎのあったことが知られています。しかし、当時の報道機関は、一切、そのことを報じませんでした。歴史の記録上、取付けはなかったことになります。
 いうまでもないですが、銀行の手元現金準備は、預金総額のほんの一部です。大量の預金引出しには対応できない。預金者が引出しに殺到(これが取付けです)すれば、当然に、銀行は払出し停止に追い込まれて破綻します。銀行の破綻懸念が信用不安を起こすよりも、信用不安に基づく預金者の行動が銀行破綻を招く場合のほうが多い。だから、取付けは報道しないほうがいいとも考えられるのです。取付け報道が更なる取付けを誘発する可能性を否定できないからです。
 当時の報道機関の対応の裏に、政府当局の指示(もしくは指導、あるいは要請)があったかどうかは、わかりません。仮になかったとしても、おそらくは、報道自粛したと思います。このことが、国民の知る権利との関係で妥当だったかどうか、これが私の今も考え続けている論点なのです。
 同じことが、原子力発電所の事故報道についても、当てはまるでしょう。最高度の専門的知見がない限り解釈し得ない事象の報道のあり方は、一体、どうあるべきなのでしょうか。政府や東京電力が、そのような論点の検討なしに情報開示していると、お考えでしょうか。私は、そうは思わない。


確かに、情報開示が遅いのではなくて、国民の情報吸収能力との関係で、高度な配慮の下で、徐々に、開示のあり方を細かく速くしてきているのかもしれませんね。

 国民の中に、惨事を冷静に受入れられる心理的な力、いわばパニックに対する耐性が生じていることが、積極的な情報開示の前提条件なのではないでしょうか。国民として、私は、政府の見識を信じています。
 先ほど例にした銀行の取付け報道にしても、金融危機や現実のペイオフ実施を経て、国民の金融知識が深まり危機に対して冷静に振舞う力が高まってきている今日、報道自粛すべきかの判断は異なってくるでしょう。むしろ、今では報道すべきなのかもしれません。


それにしても、東京にいて、あの激震を体験したものとして、あの尋常ではない揺れが、東京の建築物に全くといっていいほど被害を及ぼさなかったのは、奇跡のように思えましたね。

 日本の建築基準の高さと、建築技術の優秀性の証明ですね。恐らくは、その分少し値段が高いのかもしれませんね。でも、価格の優位よりも品質の優位という、日本産業の現在の国際的地位に揺るぎのないこと、故に間違いなく日本が急速に復興できることを確信できました。

以上


次回更新は、3月24日(木)になります。
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。