投資には賭けの要素がある。賭けは決断である。だから、投資の要点は決断である。これが持論でしたね。東北関東大震災を契機に、想定を超える事態への対応に関する議論を続けているのですが、前回、前々回と、想定できない危険、管理不可能な危険、受け入れるしかない危険を受け入れるのは、決断である、ここに投資と共通する視点がある、と、そういう趣旨でしたね。
そうです。しかも、決めるには根拠がいるのですが、科学的推論を超える想定できない危険については、決めようがないであろう、というのが私の論点です。根拠のない決断ですね。
このことは、「「ブリダンの驢馬」もしくは「亀を抜けないアキレス」」(前編・後編)という、かなり哲学的な論考(故に私のお気に入りなのですが)の中で、「選択の根拠がないからこそ、選択の自由がある」と述べたことと同じです。つまり、更に引用すれば、「論理的な根拠に従って選択できるならば、選択は論理的必然であって、自由意志によるものではありません」ということです。
想定の範囲内のことであれば、論理的な推論の結果として、合理的な意思決定ができる。普通は、資産運用における運用者の責任というのは、このような合理性に立脚した投資判断を行うことで、社会的に果たされると考えられているのでしょう。
ところが、投資判断には賭けの要素が必ず残る。ここで賭けというのは、想定し得ない危険を承知しなければならないということですが、その賭けの決断については、合理的推論によるわけにはいかないのです。
では、何による決断になるのでしょうか。
信念です。完全な自由意志のもとでの決断においては、自由であることの厳しさが露呈します。自分自身だけが支えです。その支えが信念です。信念の形成は、練磨された科学的手法の実践、長年の経験、修行としかいいようがない訓練を経てのみ、可能なのです。ここに、専門家の職業倫理の厳しさがあります。
ですから、信念の根拠は説明できない。説明できないから、決断なのです。専門家としての知見と経験を総動員しても残る不確実性については、専門家としての誇りを賭けて、決断するしかないのです。
それでは、説明責任が果たせないのでは。
説明が問題なのではなくて、結果が問題なのです。結果が、決断の妥当性を事後的に証明するでしょう。
結果責任ですね。しかし、運用者は結果責任を負い得ないのでは。
その通りですが、それは法律的責任として損失補填ができないということなのであって、資産運用の専門家としての職業倫理の地平では、責任を負うべきなのであります。安易な法律論へ逃げることは許されない。
ちなみに、先ほど引用した哲学的旧稿は、なぜだか高揚した気分のもとで書かれたらしく、過激な論調でありまして、「賭けが避け得ないことと、賭けた結果には必ず責任を負わなければならないこととは、資産運用の基本中の基本といわざるを得ないのです」と書いた勢いで、「機関投資家の資産運用においては、結果については責任が取れないということを前提に、賭けの要素を極力避けようと努力してきました。あるいは、覆い隠そうとしてきた、といってもいい過ぎではないと思います。しかし、覆い隠された裏では、どこかで無自覚的に賭けがなされ、誰かがその結果責任を負担してきたのです」といい切っています。
その結果責任を負担してきたのは、資産運用業界からみたときの顧客、つまり最終投資家ですね。
そうです。顧客である投資家が結果責任を負うことは、法律上、明確です。また、同時に、運用の委託を受けた運用者は、合理的な投資判断に基づく投資行動をし、その判断の経路を合理的に説明できれば、責任はないのです。つまり、結果責任は顧客だけが負い、業者が説明責任だけを負う、これが業としての資産運用の法律上の構成です。
しかし、常識に照らしたときは、何か、おかしくはないですか。あまりにも、業者側に都合よくできていないか。業者である運用者は、結果責任を負い得ない。ここは変えようがない。だとしたら、説明責任の内容に関して、業者には厳しい職業倫理が課されるべきなのではないか。
合理的な説明をもってしては充分でなく、合理的な説明のつかない究極の賭けの要素をこそ、語るべきだということになるのですね。
投資の損失の可能性、即ちリスクは、測定できることを前提にして管理されているのです。ですから、リスク管理といいましても、測定できるリスク、測定範囲内のリスクが問題にされているのであって、測定され得ないリスク、測定の範囲を超えるリスク、即ち最後まで残る賭けの要素は、捨象されているといわざるを得ないのです。ここに、深刻な問題性が潜むのではないでしょうか。
問題なのは、その賭けの要素が顕在化したとき、その損失は、運用者が負うのではなく、顧客が負うのだということです。もしも、管理できないリスクについては、不可抗力で説明する責任もない、ということになれば、おかしいだろうということをいっているのです。
リスク管理とは、管理できるリスクを管理することが最終的な目的ではなくて、管理できないリスクの所在を明らかにすることが最終的な目的だったのではないか。説明責任とは、管理できるリスクの説明にではなく、管理できないリスクの説明にあるのではないか。つまり、説明できない賭けの要素に対する運用者としての信念の表明こそが、説明責任の対象なのではないでしょうか。
信念の表明は、根拠を説明できない。信じてもらうしかない。その信用を支えるのが、専門家としての知見と職業倫理だということですね。
ここまで語ってきて、急に、誤解される危険を感じてきました。念のため申しますが、リスクとは、損失の可能性のこと、即ち投資対象の価値の毀損のことであって、単なる価格変動のことではありません。このことについては、ぜひとも、「投資の損失とリスクとボラティリティ」、および、そこで参照している諸論考をご覧下さい。
運用者の責任というのは、投資対象の価値にかかわる判断についてのみ、あり得ることです。損失とは、価値が毀損することで生じる確定的損失です。常時生じている価格の変動による一時的評価損のことではありません。
投資対象の価値判断を行う手続きは、事実と合理的仮定に基づく科学的推計の方法です。しかし、それが、将来の不確実性にかかわる仮定に基づく限り、合理的に捕捉できない要素を含むのです。そこに賭けがあるということです。念のため申し添えます。
以上
次回更新は、4月7日(木)になります。
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。