東京電力は電気事業改革にとって邪魔なのか

森本紀行
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原子力損害補償の検討は、少しお休みして、今回は、電気事業改革の問題をとり上げようということですね。もともと、補償問題の名のもとに東京電力解体を論じ、勝手な電気事業改革を展開する向きに、強く反対してきたのだと思いますが、視点を変えての批判の展開でしょうか。

 原子力損害補償の問題は、もちろん、まだ終わっていない。といいますか、本格的な補償自体が始まってもいない。いまだに、補償の前提となる法案が国会審議中で、特別な進展もない、ということですから、これは、本当に困ったことだと思います。そこで、今回は、少し方向を変えてみました。
 表題にあげた、東京電力は電気事業改革にとって邪魔である、という主張は、自由民主党の河野太郎衆議院議員の7月1日のブログからとりました。この主張、以前にも引用しましたが、「巨額の負債を抱えた東電は、やる気のないままだらだらと存続し、電力改革の邪魔になる」ので法的整理しろ、というものです。
 7日のブログでは、「東電は後から破綻処理させます」という表題のもとで、「当初は、財務省プランでスタートするが、折を見て、東電を破綻処理させますという経産省プランを持って、経産官僚が議員会館を回り始めた」などという、おもしろいことが書かれてあります。こういう政治家しか知りえない情報というものもあるのですかね。私には理解できない世界です。
 しかしながら、これが事実だとしても、私は、少しも驚きません。なぜなら、これまでの一連の論考(末尾に掲載していますので、ぜひ、ご参照ください)で、私が主張していることと、同じだからです。即ち、東京電力の賠償履行を政府が支援するという枠組みでいく限り、最終的には、政府が東京電力に対する巨大な潜在債権者となるので、もしも政府が政策上必要だと考えるならば、法的整理に踏み切ることは可能なのです。ただし、この、ただし、が重要なのですが、それは、賠償履行が完了した後の可能性の議論だということです。とにかく、賠償履行が最優先なのですから。
 ところが、河野議員は、「そんな回りくどい手法を使う必要性は全くない。堂々と最初から破綻処理させるべき」だと、こうくるわけです。なぜかというと、電力改革の邪魔者の東京電力を潰すことが、日本の発展にとって急務なのだ、というような論法だからです。私には、こういう法律を無視した強引極まりない論法、原子力損害補償問題に絡めて電気事業改革を論じる姑息な戦法が、どうしても許せないのです。
 しかし、このことについては、もはや、これまでの論考で論じつくした感があります。だから、今回は、議論の向きを変えて、東京電力を法的整理することで電気事業改革の障害がなくなるという、これら論者のいい分を、とり上げてみようと思った次第です。


どこかに電気事業改革の邪魔者があるとしても、それは東京電力であるというよりも、電気事業連合会体制全体の問題であって、東京電力を解体したところで、電気事業連合会の残りの9社がそのままであれば、電気事業の仕組みを本質的には変え得ない。なのに、なぜ東京電力解体なのですかね、電気事業連合会解体ではなくて。

 論者は、東京電力に固有に発生した原子力発電所の事故の補償費用について、その一部を他の電力会社が負担することに対して、強く反対しています。なのに、同じ論者が、東京電力に固有に発生した原子力発電所の事故を契機として、全電力会社の構造を変えることについては、当然のことと考えている。しかも、東京電力を解体すると、自動的に電気事業連合会の仕組みも解体する、と単純に考えているようでもあります。なぜ、そうなるのか、私には、よくわかりません。おそらくは、電気事業連合会といったところで、所詮は、最大企業であり盟主である東京電力が事実上の支配者、とでも思われているのではないでしょうか。


送電分離の問題もそうですね。東京電力の送電網だけを分離しても、あまり大きな効果を生まないですよね。

 四国電力の伊方原子力発電所の電気は、震災以降、東京電力にも融通されていたのだそうです。ということは、おそらくは、四国電力のほか、関西電力や中部電力の送電網も利用して、東京電力の営業領域まで、電気が送られていた、ということでしょう。各電力会社の電気融通については、各社の送電網が、電気事業連合会全体の共通財として、一体的に機能しているのだと想像されます。多くの電気事業改革を論じる人は、まさに、このような社会的共通基盤地としての送電網を発電事業から分離した形で整備拡充することを、要求しているのではないでしょうか。だとすると、東京電力から送電網をとり上げたところで、ただそれだけでは、本来の目的の実現にならないはずです。
 送電網の公共財化は、おそらくは、電気事業改革にとって、重要な要素なのだとは思いますが、このことと東京電力の解体とは、直接に結びつかないのではないでしょうか。むしろ、現在の電気事業連合会体制の中で、少なくとも、その体制の枠の中では、送電網が共通財になっているという事実のほうが、重要だと思います。要は、論点は、送電網の分離という手段にはなくて、送電網の公共財化、即ち、電気事業連合会の中だけでの共通財ではなくて、より広い電気関連産業全体の中での公共財化という目的にあるのではないでしょうか。
 電気事業法の改正により、発電事業への新規参入が開放された後も、電気事業連合会が既存勢力である10社の電力会社だけで構成され続けていることが、問題なのです。結局、みようによっては、電気事業連合会は、電気事業の健全な発展のためにあるのではなくて、既存勢力の既得権益を守るためにある、といわれても仕方ない面があるのです。そこに改革が必要なことは、間違いないでしょう。でも、それがなぜ、東京電力の解体に直結するのか。そこが、わからない。


送電分離に反対する見解、あるいは、一般に、急激な電気事業改革に反対する見解は、電気の安定供給を損なう可能性がある、ということだと思います。そもそも、電気事業者に独占という利権を与えたことの歴史的および政策的な背景は、まさに、電気の安定供給という、この錦の御旗にあるのですからね。

 そこですね、議論が甘いのは。電気事業者の経営を安定させ、長期的な視点での電気の安定供給体制を整備していく、それが政策だったわけですね。そのことが、結果として、独占と保護の弊害を生んだのです。しかし、電気の安定供給という政策課題は、確かに、実現してきたのです。そのことは、認めなくてはならないはずです。
 しかし、一方で、外部環境の変化にもかかわらず、長期にわたって政策の転換を行わず、電気事業連合会を強大な利権組織にしてしまったことは、やはり、政治の過ちだったのかもしれません。このことも、同時に認めなければならないでしょう。特に問題なのは、電気安定供給を目的とした原子力発電への傾斜、そのことによる代替的発電(まさに再生可能エネルギが代表でしょうね)の実用化の遅れ、競争制限による革新への誘因の欠落、そのことによる経営の非効率化、などなのでしょうね。


東京電力の事故は、図らずも、それらの規制の弊害のほうを一気に表面化させたわけですね。そして、積年の電気事業連合会体制への鬱積した不満が、感情的な東京電力批判、東京電力解体論へと、つながっているのですね。

 そうなのですが、国民感情としては、あるいは、この機に乗じようという政財界の野心家の戦術としては、理解できなくもないですが、理屈に合わないのではないでしょうか。私は、国民感情を利用し、東京電力の事故を奇貨として、一気に電気事業改革論を展開することに、どうしても抵抗を感じる。それで、せめて損害補償の履行に目処をつけてから、議論をしたらどうだ、補償問題を絡めるような議論展開は道義上問題がある、と、まあ、繰り返し述べることになっているのです。


電気の安定供給と電気事業改革の両立、このことの条件を深く検討しなければ、電気事業の自由化や送電分離などについて、簡単な議論はできないはずですよね。

 電気事業に限らず、規制業の多くについて、事業者に供給義務を課すことに、規制の趣旨があります。実際、タクシーの乗車拒否や、病院の診療拒否は、あり得ないことです。同じように、電気は、産業や人間の生活のために、必要なものだから、需要分だけ確実に供給できなければならない。また、価格が大きく変動するようでは、経済計算の予測可能性がなくなるから、価格も安定させなければならない。ここに、安定(量と価格の両方の安定)供給体制の確保という名目における、規制の合理的存在意義があるし、その規制は、多くの場合、供給体制を維持できるだけの経済基盤の保全という理由付けで、一定の業界保護の色彩を帯びる。このことが、何か誤りでしょうか。全く当然のことではないでしょうか。
 電気事業の自由化と競争原理の導入によって、電気料金の引き下げを図り、また、脱原子力や再生可能エネルギーへの転換などを推進し、電気供給の構造を転換することで、大きな設備投資機会を創出し、もって、経済成長の起爆剤にしようという、その理屈は理解できます。今の日本の現状からすれば、誰しもが望む大きな成長機会です。それはわかりますが、私に理解できないことは、電気の安定供給という電気事業の社会責任が確実に果たされる条件、そのような条件を充足する電気事業の新たなる仕組みが、十分に議論されていないことなのです。
 社会的需要に対して供給が確実に確保されなければならないような事業、まさに電気事業が、その代表だと思いますが、そのような事業では、自由化といい、規制緩和といっても、規制の撤廃はあり得ないことで、あり得るのは、現在の環境に合わない規制の革新や変更だけだと思います。
 東京電力を、利権の上に胡坐をかく旧勢力として、改革を阻む邪魔者として決めつけ、その解体を叫ぶことで正義の味方のように振る舞い、東京電力(および九州電力をはじめとする電力会社全体)の欠陥だけを強調することで、電気事業改革の必要性を国民に信じ込ませ、もって、新たに生まれる事業機会をわがものにしようとする、そのような利己的な議論がまかり通るとすれば、それは、おそらくは、不当に東京電力(および電力業界全体)を悪者に仕立ててきた言論の暴力によってのみ、可能なことなのだと思います。
 規制には、その裏に規制を正当化してきた歴史的必然性があります。だからこそ、規制として永らえてきたのです。規制を否定することは簡単です。のみならず、規制を否定することは、多くの場合、国民にとって耳聞こえのいい議論をする有利さがあります。規制を否定する人は、規制撤廃から利益を得ようとしているにすぎないにもかかわらず、です。
 規制は、時間の経過とともに、合理性を失う。だから、新たなる規制の枠組みを考えていかなければならない。そのことは、規制の単純な否定ではあり得ない。規制が歴史的に果たしてきた役割の検証のうえに、規制の弊害の中に埋没した本来の規制目的の再興を目指すとき、新たな規制についての国民の合意が、形成されるのだと思います。
 そうした地道な検討を踏まえずに、やれ、再生可能エネルギーの買取りだの、脱原子力だの、送電分離だの、ありとあらゆる勝手な議論を展開するのは、無責任です。電気の安定供給こそが、社会的使命なのです。その使命の制約の中でしか、電気事業改革は、あり得ない。無責任な電気事業改革(改革と称する暴挙)を強行するくらいなら、おそらくは、今の電気事業連合会体制のほうが、まだしも安全だと思われるくらいです。


さて、東京電力は、そうした意味で、電気事業の自律的改革という社会的重責を果たし得る企業なのでしょうか。それとも、邪魔者として、消え去るべき存在なのでしょうか。

 東京電力が、原子力損害補償について、その全てか一部かはおくとしても、巨額な責任を負っていることは間違いありません。また、原子力発電所の事故の収束にも大きな責任を負います。加えて、原子力発電を継続するにしても、依存度を下げざるを得ない状況の中で、電気の安定供給体制を再構築するという重大な責務も課せられています。これらは、大きな社会的使命であると同時に、金銭的には巨額の費用増を意味します。
 東京電力には、今、これら社会的責任を完全に果たし、その費用を最大限内部経営努力で吸収し、安易な電気料金転嫁を行わないことで、国民からの信頼を回復することが求められている。その課題をきちんと果たしていく過程では、経営効率化のために、不要資産の売却や給与や人員数の合理化などが行われ、電気安定供給のために、外部からの電気購入が拡大され、発電の多様化が進行し、電気融通の機能拡大のための送電網の改革も推進される。
 結局のところ、東京電力は、自己の存続を目指すためには、東京電力解体論者が無責任に主張することを、責任もって自ら進んで実行していかなければならなくなるのです。そのように追い込まれていくのです。あるいは、社会が、そのように追い込んでいけばいいのです。これこそが、本当の電気事業改革の道筋ではないでしょうか。事実、東京電力は、そういう方向へ、経営の舵を切っているのではないでしょうか。賠償への真摯な取り組み(東京電力は、東京電力としてできることは、やっています。政府の支援体制が整わないだけです)や、事故の収束へ向けて必死の努力をされている方々に、思いをはせるとき、河野議員がおっしゃるような、「やる気のないままだらだらと存続」するにすぎないという東京電力像は、私には描くことができません。
 なお、最近、東京電力は、無法な批判には、きちんと反論されるようになってきました。これも、いいことです。7月14日には、「7月13日放送テレビ朝日「報道ステーション」における報道について」の中で、「自家発の供給余力を生かし、電力の不足を回避することにベストを尽くしているとはいえない」という報道に反論して、「当社のお客さまの自家発の稼働状況についてお尋ねし、余力があり今夏の追加的な供給力として期待できるものについては、基本的に全て購入させて頂く方向で協議をするなど、自家発についても供給力の確保に全力を尽くしているところであります」と述べています。
 一体、誰が、公平に東京電力の経営努力を報じているのですか。東京電力を「ゾンビ企業」と決めつけ、邪魔者として批判し、一方的な根拠なき攻撃的論評を繰り返す政治家と報道機関と評論家と野心家、こういう無責任な手合いのほうが、真の電力事業改革の邪魔者なのではないでしょうか。

以上


 以上の議論は、過去の論考を前提にしたものですから、できましたら、下にある関連論考を合わせてお読みいただけると、幸いです。次回更新は、7月28日(木)になります。




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森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。