新年早々、またまた東京電力ですか。前回の論考で、東京電力問題は終わった、としていたはずですし、免責問題も、東京電力が「原子力損害の賠償に関する法律」第十六条に基づく支援要請を政府にした段階で、けりがついているはずですが。
政治としての東京電力問題は、原子力損害賠償のあり方と、それに関連した東京電力のあり方について、基本的な方向性が決まったのですから、終わったといっても差支えない。もちろん、政治問題として終わったということは、逆にいえば、現実的な行政の問題として、経済的な経営の問題として、始まったということでもあります。まさに、これからの実行が、被害者の視点にたった賠償の確実な履行こそが、大切なわけでしょう。
一方、法律的な問題としては、政治的な決着のつけ方が法律的に正しかったのかどうか、決着がついた今だからこそ、改めて問い直せる時期にきたのだと思います。故に、改めて問う、東京電力は、「原子力損害の賠償に関する法律」第三条ただし書きにより、免責であったのではないかと。もしも免責だとしたら、法の正義は、政治の力により、踏みにじられたのではないかと。
しかし、既成事実の積み上げがここまで進行しているなかで、敢えて、原点に遡って問題をひっくり返すことに、社会全体の利益という視点からみたとき、どれだけの実益があるのでしょうか。逆に、これだけの事実の積み上げが可能であったということは、政府の方針が国民の支持を得てきたということの証しではないでしょうか。
そのとおりだと思います。しかし、実益があるかどうかよりも、大衆迎合的な政治手法が一定の国民の支持を得ているかどうかよりも、民主主義の原理を守ることのほうが重要です。民主主義の原理は、手続きの正当性に根拠をおいているのです。正しい手続きのもとに遂行された政策についてのみ、結果の妥当性を問えるのです。正しい手続きによらないものは、結果の如何を問わず、端的に、そのことによって否定されなければならない。
ただし、基本的人権が絡む刑事事件のように、手続きの瑕疵が起訴の可能性を完全に否定してしまうのとは、事情が違います。東京電力問題の場合、正しい手続きのもとでやり直したとしても、原子力損害賠償についての実体的な変動は起き得ないでしょうし、起き得ないような方法をとることは難しくないでしょう。また、東京電力の債権者や社債権者の地位も、おそらくは動かない。
現時点で考えられる限り、実体として変り得ることといえば、東京電力の株主の地位と、やや行き過ぎた経費削減の対象となりそうな企業年金の受給者の地位くらいではないでしょうか。それでも、株主や年金受給者にとっては、法的手続きに訴えて、本来のあるべき姿の回復を要求するだけの訴えの利益があるのだと思います。
実際、基本路線を定めた菅政権のもと、当時の枝野官房長官は、法律の適用の正当性については、最終的には裁判所の決めることだ、といい切っていました。つまり、政府の法律解釈が政治判断であることを認めたうえで、政策課題を優先させ、結果重視の政治的手法を用いることを、公言していたわけです。当時の枝野官房長官、今の枝野経済産業大臣は、後に訴訟を提起される前提で、受けて立つとの法律家(枝野大臣は弁護士であり、官房長官のときは、法律家として、と断ったうえでの見解も述べていました)の自信を示していたのですから、ここは、訴えて差し上げるほうが、よろしいのではないでしょうか。
東京電力が免責になったとしても実体は大きくは変わらないだろう、というのはどういうことでしょうか。東京電力に責任があるかないかは本質的な差であり、当然に根本的な結果の差が生じるべきではないでしょうか。
事故当初、当時の菅政権は、原子力発電所の事故に関し、政治責任を認めませんでした。故に、原子力損害賠償についても、全面的に東京電力の責任でなされるべき、との方針を示していました。私は、当時、これは非常におかしなことだと思いました。なぜなら、東京電力は、政府の定めた安全基準に忠実に、原子力発電所を操業してきたのです。それなのに事故を防げなかったのだから、政府の定めた安全基準自体に瑕疵があったとしか認定し得ないだろう、と感じたのです。
もちろん、「原子力損害の賠償に関する法律」第三条ただし書きが定める原子力事業者の免責要件である「異常に巨大な天災地変」の定義について、立法時から諸説があることは知っていました。しかし、もしも法律が無意味な規定を置いたのでないならば、合理的解釈として、政府の定めた安全基準を超える事態が「異常に巨大な天災地変」なのだと考えるしかないでしょう。そうしないと、原子力事業者に事実上の不可能を強いることになるからです。ですから、東京電力は免責であるとの主張を展開したのです。
その後、政府は、安全基準そのものの瑕疵を認めるに至ります。こうなると、不備のあった安全基準自体に事故の原因があったことになりますので、「原子力損害の賠償に関する法律」第三条ただし書きの適用を否定することにも、一理あることになります。つまり、事故は、人知によって防げた人災であって、「異常に巨大な天災地変」という不可抗力に起因するのではない、ともいえるからです。
しかし、そうであるならば、第一義的に責任を負うのは、東京電力ではなくて、政府でなければならない。ところが、政府は、断固として、今日に至るまで、東京電力に第一義的責任があるとの姿勢を崩さない。これでは、ますます、おかしい。おそらくは、おかしさは、政府自身も認めていたのだと思います。ですから、政府は、完全な政治的決着として、表面的には東京電力の責任を主としながら、実体的には政府責任を主とする方策を、選ぶことになるのです。
実は、東京電力は、事故直後から、免責の立場にあったのですが、おそらくは、高度な政治決着によって実質をとることを前提にして、自らの賠償責任を認めて、「原子力損害の賠償に関する法律」第十六条に基づく支援要請を政府にしたのです。その支援の仕組みが、現在の原子力損害賠償支援機構という形態をとって実現します。
現在、原子力損害賠償は、機構を通じて、政府主導のもとで行われているのです。一方、東京電力の債権者や社債権者の利益は保護される方向で動いていますし、東京電力の経営について、経費の大幅な削減や不要資産の売却などの改革が進行しているのですが、内容は、事故があろうがなかろうが、今まで放置されてきたのがおかしいようなことばかりで、実質的に東京電力の利害関係者に不利益を強いるものはありません。逆に、一部では、東京電力保護という批判があるくらいです。
故に、政府が責任を認め、政府が事実上の主体となって原子力損害賠償が行われている以上、改めて東京電力の地位を検討し直したとしても、実質的に大きな変動は生じ得ないであろうということです。ただし、株主や企業年金受給者の地位など、一部には、大きな影響があります。特に、株主にとっては、大問題です。東京電力に賠償責任がある限り、東京電力が政府から受けた支援は弁済されなければならず、その原資は、株主に帰属する将来利益以外には、あり得ないからです。免責か免責でないかは、東京電力の株式の価値を決定的に左右するのです。
では、具体的に、政府による法律の適用の、どこを問題にしようとするのでしょうか。
決定的に問題なのは、政府が、いまだかつて一度も、「原子力損害の賠償に関する法律」第三条ただし書きの適用を否定する根拠を、説明していないことです。実は、「異常に巨大な天災地変」の定義に関する政府見解すら、公表していません。政府見解は、当時の管総理大臣の4月29日の衆議院予算委員会での発言に尽きています。いわく、「規定をそのまま認めることは、東電を免責することを意味する。東電には賠償の面で第一義的な責任はある」というものです。
これは、法律的に、故に政治的にも、根本的に間違った考え方であり、無法な政治手法です。つまり、先に合理的法律解釈があって、それに基づく法律の適用が行われているのではなく、先に政治的結論があって、その実行のために法律の規定を踏みにじろうとしているのです。しかも、そのことを、総理大臣自らが、国会の場で、公言しているのです。まさに、異常なことです。民主主義の危機というよりも、崩壊としかいいようがない。
当時の枝野官房長官も、4月27日の記者会見において、免責事由の適用について、「最終的には裁判所が法律に基づいて判断すると思うが、免責条項が適用されるとは、私も法律家の一人として考えられない」と述べましたが、「法律家として」、肝心の根拠を示すことは、しませんでした。
この政府の方針は、その後、安全基準の不備についての政府責任を認めるに至っても、被害者の方々を政府自らが「国策による被害者」と呼ぶに至っても、変わることがありません。政府は、一貫して、全く根拠を示すことなく、法律解釈に関する説明抜きで、一方的に東京電力の責任を断定し続けているのです。この点について、当時の枝野官房長官は、最終的には裁判所が決めることだ、という発言で、全ての反論や異論を断ち切ってきたのですから、ここは、どうしても、裁判所の判断を仰ぐ必要があるのです。これはもう、民主主義を守るための、法秩序を守るための、国民の義務のようなものです。
しかし、政府が東京電力の免責を否定したのは、当時の菅総理大臣の発言にもあるように、「原子力損害の賠償に関する法律」の仕組み上、もしも東京電力を免責にしてしまうと、賠償主体がなくなってしまうという、ある意味では、それなりの法律解釈に基づいていたのではないでしょうか。
そのとおりです。東京電力を免責にすると、同法第十七条により、政府は「被災者の救助及び被害の拡大の防止のため必要な措置を講ずるようにするものとする」とされているだけで、法定の賠償の定めがなくなってしまうのです。この法律の難点は、立法時にも、大変に大きな争点となりました。
まずは、法律の目的を確認しましょう。同法第一条は、同法の目的を、「被害者の保護を図り、及び原子力事業の健全な発達に資すること」としています。「原子力事業の健全な発達に資する」というのが、法の目的になっているのです。しかも、「被害者の保護を図り」というのは立法過程で付加されたもので、政府原案では「原子力事業の健全な発達」だけが法律の目的であったくらいです。ですから、免責規定が設けられているのです。というのは、同法が、損害賠償法理の例外として、原子力事業者の無過失無限責任を定めたことから、そのような厳しい条件のもとでは、誰も原子力事業者になろうとはしないであろう、と予想されたからです。
法の趣旨を素直に解すれば、国策により、「原子力事業の健全な発達」を推進するために、原子力事業者に限定的な免責を認めることで参入を促進してきたのであり、しかも、その国策に基づく安全基準に瑕疵まであったのだから、ここは、東京電力を免責とするのが自然なのです。この点については、政府も、本当は、そう理解しているのだと思います。難点は、その場合の賠償主体が法定されていないことですが、法案の起草にあたった、かの碩学我妻栄も、この難点を非常に気にしていたようです。
もともと、我妻栄の素案では、原子力損害賠償の第一義的主体は政府とされ、原子力事業者に過失があるときは、政府から原子力事業者へ求償する仕組みでした。ところが、民間事業の責任を政府が負担するのは原則に反するという原理論と、当時の財政状況では政府の経済的負担力に限界があるという実質論から、現行法の形になったのです。
この立法時の事情を東京電力に当てはめると、まず原則論として、政府の安全基準に瑕疵があったのだから、民間事業者責任ではなくて政府責任で対応するのが当然でしょうし、政府財政の状況も当時とは全く違っていて、政府に負担力があるのだから、東京電力を免責にして、政府責任で原子力損害賠償を行うことが、法の趣旨や立法時の経緯に適っているのです。
念のために申しますが、第十七条は、新たなる立法により政府が直接的に損害補償することを、妨げるものではないのですから、政府が事故の責任を認めている以上、東京電力を免責にしてしまうと損害補償が行われなくなる、というような可能性は考え得ません。
政府には、実は、財政的負担力がないのではないですか。それが、強引な手法を用いてでも、東京電力の責任を重くしたい理由ではないのですか。
そこのところが、問題の鍵なのでしょうね。政府は、一貫して、「国民負担の最小化」という上手な表現で、国民の支持を確保してきています。要は、東京電力の不人気さ(よすぎる従業員の待遇、特権に安住した微温湯の経営体質、親方日の丸的対応などなど)と財力を、上手に利用しているのです。政治手法としては感心します。しかし、法の正義は、全く別の問題でしょう。
東京電力を「原子力損害の賠償に関する法律」の上で免責にすることは、社会的に免責にするのとは、違うでしょう。東京電力の社会的責任を問題としたいならば、それはまた別に、正しい法律上の手続きを経てすればいい。例えば、東京電力側にも事故対策に一定の不備があり、政府と東京電力が共同して責任を負うべき(実際、当時の枝野官房長官は、そのような可能性を示唆したことが一度だけあります)というなら、立法により、政府補償の一部を東京電力に求償できるようにすればいいのです。
要は、手続きはどうあれ、結果を国民が支持するならば、それでいいでしょう、というわけにはいかないのです。法の正義と手続きの正当性を問題にしているのです。
そうはいっても、政府は、この機に乗じて、積年の課題である電気事業改革にまで、手を付けましたね。それはそれで、評価できるのではないですか。
ですから、結果がよければ手段はどうでもいい、というわけにはいかない、といっているのです。電気事業改革は、独立の問題として、それ固有の論理と国民の支持のもとにやるべきことです。原子力損害賠償の機に乗じるなど、もってのほかのことです。
しかも、東京電力の事故を機に電気事業改革を始めることは大きな弊害をもたらすであろうことを、危惧します。電気事業連合会の他の九社に対して、東京電力に起きていることは全て原子力事故に起因する例外的問題である、という抗弁を許すことになるからです。
最後に、仮に、株主が何らかの法的手続きに訴えるとして、具体的に、どのような手法が考えられるでしょうか。実は、技術的には、相当に困難なのではないでしょうか。
難しそうです。しかし、当時の枝野官房長官が、法律家として、訴えることが難しいのを承知の上で、訴えられるものなら訴えてみろ、という趣旨で発言していたとしたら、悔しいではないですか。必ず、方法があります。私にも考えがありますが、枝野大臣と違って法律家ではないので、黙っておきます。
訴訟構造の難しさもありますが、仮に損害賠償の訴訟をするとしたら、損害額の算定が難しいですね。株価の下落は、実は、原子力損害賠償債務の発生だけを原因にしているとも思えないからです。総括原価方式の見直しという電気事業改革の可能性、上場廃止の可能性、事実上の国有化の可能性、事故を起こした原子力発電所の廃炉費用(通常の廃炉費用は原価ですが、事故による廃炉の困難性が費用を激増させる分は、現状、東京電力の負担か、政府負担か、あるいは電気料金への転嫁可能なものか、未定の状態にあります)など、様々な要因が複合的に効いている。
オリンパス問題に関連して述べたことがありますが、有価証券報告書虚偽記載についても、同様の困難性があることから、「金融商品取引法」第二十一条の二に、損害額の推定規定をおくことで、株主の利益の保護を図っているのです。しかし、東京電力問題では、そのような便利な規定もないので、困ってしまいますね。
難しいには難しいのですが、方法は必ず見つかります。ここは法の正義がかかるところですから、東京電力の株主よ、立ち上がりましょう。
ところで、その主張、自分も株主の一人として、しているのでしょうか。
残念ながら、私は株主ではない。すいません。
以上
以上の議論は、過去の論考を前提にしたものですから、できましたら、下にある関連論考を合わせてお読みいただけると、幸いです。次回更新は、1月12日(木)になります。
≪ 東京電力関連≫
2012/03/01掲載「東京電力の不徳のいたすところか」(最新コラム)
2012/02/23掲載「東京電力の無過失無限責任と社会的公正」
2012/02/16掲載「東京電力の責任よりも先に政府の責任を問うべきだ」
2012/02/09掲載「政府の第一義的責任のなかでの東京電力の責任」
2012/02/02掲載「東京電力の責任が政府の責任より大きいはずはないのだ」
2012/01/26掲載「東京電力の株式の価値」
2012/01/19掲載「東京電力を免責にすると国民負担は増えるのか」
2011/01/12掲載「東京電力免責論の誤解を解く」
2011/12/22掲載「東京電力の国有化と解体」
2011/11/04掲載「東京電力に対する債権が不良債権にならないわけ」
2011/10/13掲載「東京電力に関する経営・財務調査委員会」報告書の曲がった読み方」
2011/09/01掲載「東京電力が歩む苦難の道と終点にあるもの」
2011/07/14掲載「東京電力を免責にしても東京電力の責任を問えるか」
2011/05/02掲載「【緊急増補版】なぜ東京電力を免責にできないのか」
≪オリンパス関連≫
2011/12/15掲載「オリンパスが好きです」
2011/12/08掲載「オリンパスの第三者委員会調査報告書」
2011/12/01掲載「オリンパスの株価が下がった理由」
2011/11/24掲載「オリンパス問題の深層 」
2011/11/17掲載「オリンパスのどこがいけないのか」
2011/11/10掲載「オリンパスの悲願と裏の闇」
≪ JR三島会社関連≫
2011/10/06掲載「JR三島会社の経営安定基金のからくり」
2009/07/23掲載「JR三島会社の経営安定基金と大学財団」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。