東京電力の原子力損害賠償問題のあり方について、政府は、国民に対して、国民負担の極小化という基準による政策選択を約束しています。政府が東京電力の免責を否定する根拠について、前回の論考は法律的側面を問題としたのですが、今回は国民負担という見地から経済的側面を検討しようということですね。
どう考えても、国民負担の極小化の前提として、東京電力が原子力損害賠償責任を負うということ、このことは動かし得ない感じがします。誰しも、そのように自然に思うでしょう。そのように思えることが政府方針に対する国民の支持の最大の根拠でしょうね。しかし、自然にそう思えてしまう分、本当にそうなのか、とは考え直さない。それだからこそ、念のために、いくつかの論点を確認しておくことは有益だと思うのです。
最初に、もしも原子力損害賠償の履行に要する費用が同じならば、国民の誰が負担しようが、国民であることに変わりがないならば、総計としての国民負担は変動し得ないのではないか、これが素朴な疑問です。つまり、外国に負担をもっていくのでない限り、あるいは、被害者に負担をもっていくのでないかぎり、国民が、全体として、国民の一部に生じた損害の賠償費用を負担するのである限り、国民負担の総額は、極小化も何も、そもそも変わり得ないのではないでしょうか。
本当は、負担額の大小を問題とすべき余地はなく、国民全体の中における負担割合の公正さ、公平さ、を問題とすべきだと思うのです。国民負担の絶対額としての極小化ということはあり得ず、国民のどの部分の負担を極小化するのか、その結果として、国民の別のどの部分に負担が寄っていくのか、それを明らかにする必要があると思います。そして、法律とは、そのような負担の公正さに関する一定の基準を定めたものであろう、と思うのです。
つまり、例えば、東京電力の株主も国民なのだから、東京電力の株主の負担も国民負担だということですね。しかし、政府の意図したところは、国民負担の極小化、即ち納税者の負担の極小化、ということではないでしょうか。
そうなのでしょうね。そうだとしたら、そのように明瞭に表現していただいたほうがよかったですね。はっきりいえば、政府のいう国民負担の極小化とは、東京電力の利害関係者(なぜか、政府は、片仮名でステークホルダーというのですが、敢えて片仮名にする意味があるのでしょうか)の負担の極大化のことだと考えるしかないと思います。
そうなると、次の問題は、東京電力の利害関係者間の負担割合ですね。
主だった利害関係者としては、社債権者、債権者である銀行等の金融機関、株主、役職員、企業年金の受給者、電気を購入している顧客をあげることができます。それぞれの現実の負担の実態がどうなっているのか、確認しておきましょう。
今の政府方針のもとでは、明示的な確約がないとはいえ、社債権者と債権者について経済的負担が発生することは、現実的には想定されていません。事実上、社債と金融債権については、元本の償還はもちろん、金利の減免も起き得ないであろう、と思われます。わずかに金融機関に対して協力要請されていることといえば、融資残高の維持、および融資額の増額です。逆にいえば、金融機関に対して融資の維持と増額を求める以上、現存の債権の保全は当然のことになるわけです。そういう意味で、枝野経済産業大臣が、官房長官のときに、債権放棄なくしては国民が納得しないだろう、と発言した趣旨が何であったのか、いまだにわからないところです。
次に、給与や福利制度の削減による役職員の負担です。これは計画されていますし、既に実行もされています。福利制度の削減については、退職者の企業年金の給付額の削減すら予定されています。また、電気料金の値上げも不可避のものとして計画されていますので、東京電力の顧客にも負担が発生します。
しかし、これらの負担は、実は、原子力損害賠償との関連で発生するものではありません。そうではなくて、原子力発電ができなくなったことに伴う電源構成の変化が発電費用を高めていることに起因しているのです。つまり、総括原価方式のもとでは、発電費用の増加は電気料金に反映されるのですから、電気料金の値上げは、原子力損害賠償とは関係なく、電気料金の構造上、当然に起きることなのです。ただし、費用の増加を、東京電力内部での経営努力なしに、そのまま電気料金に反映させることはあり得ないことです。ですから、内部経費の抜本的な削減が必要になり、それが、役職員の待遇の悪化になっているだけです。
現在の総括原価方式のもとでは、原子力損害賠償費用が原価を構成するとは、考えられていない。少なくとも、政府は、そう考えていない。ですから、原子力損害賠償を理由とした発電費用の増加はあり得ません。そうであるならば、そのことを理由としては、給与等の一般管理費の削減や、電気料金の値上げも行い得ないのです。
念のために、ひとつ問題を指摘するとすれば、企業年金の受給者の給付の削減でしょう。現役の従業員についての給与や企業年金の給付の削減は、厳しい競争環境下で事業を展開する企業にとって、全体的な人事制度の変更との関係で一定の合理性があれば、特に問題にすべきことではない。今回の東京電力における給与等の改定も、そうした合理性をもっているのでしょう。
しかし、企業年金の給付には法律上の保護があって、既に退職している元従業員の受けている企業年金の給付について減額を行うには、単なる経営の合理性だけでは無理なのです。より厳しい条件を充足する必要がある。例えば、企業の存立自体が危機に陥っている、というような条件です。しかし、政府方針として東京電力の存続と電気事業の継続を前提とした枠組みが作られている以上、受給者年金の削減を正当化するのは難しいように思えます。もしも受給者年金の削減を正当化するとしたら、東京電力の存立にかかわる事態、即ち巨額な原子力損害賠償費用の負担をあげるしかないと思います。どうも、受給者年金の削減は原子力損害賠償との関連で説明するしかない、という気がするのです。
以上みました範囲内では、東京電力の利害関係者の中で、原子力損害賠償との関連において費用負担を負うのは、年金受給者を除けば、全くいないわけです。残るは株主だけです。仮に年金受給者の負担があるとしても、株主の負担に比較すれば、小さなものです。要は、東京電力の利害関係者の負担とはいいましても、事実上は、株主の負担のことなのです。
どうして株主の負担になるかというと、全債権を保全し、原子力損害賠償費用を電気の原価に含めないとしたら、株主以外には、負担をもっていく先がないからです。別のいい方をすると、原子力損害賠償の履行に関して東京電力が原子力損害賠償支援機構を通じて政府から受ける資金支援額は、その全額が特別負担金というかたちで機構を通じて政府に弁済されるのですが、その弁済原資は、理論的に、本来は株主に帰属すべき将来利益以外にはあり得ないからです。
政府のいう国民負担の極小化とは、東京電力の株主の負担の極大化だ、ということですね。しかし、そうなってしまうのは、実は、東京電力の存立を前提とした結果、株主以外の利害関係者へ負担をもっていけなくなったからではないでしょうか。
そうです。政府が東京電力の存続を前提としたうえで原子力損害賠償支援の枠組みを作った段階で、いくつかのことが自動的に決まり、その結果、株主だけが負担を負うことになったのです。
そのいくつかのことの第一が、東京電力の存続が前提である以上、東京電力の資金調達が可能でなければならず、そのためには社債権者と債権者の保護が図られなければならない、ということであり、第二が、原子力損害賠償費用を原価としない以上、原子力損害賠償費用の捻出を目的としては、内部経営費用の削減に限界があるし、電気料金の値上げもできない、ということです。ですから、最終的な負担は、株主にいくことになるのです。
私が問題としたいことは、それにもかかわらず、なぜ、政府は、東京電力の利害関係者全体の負担を臭わせるような発言をするのか、特に、当時の枝野官房長官は債権者の負担を仄めかすような発言をしたのか、なぜ、国民に対して、正しい説明を丁寧に行わなかったのか、ということです。
東京電力の株主の負担の極大化といっても、本当の負担の極大化は、東京電力の法的整理ですよね。政府は、それを否定して、東京電力の存続を図ったのだから、実は、株主の負担の極小化なのではないですか。
私は、東京電力法的整理論を強く批判してまいりました。法律の趣旨からは、あり得ないことだからです。この点、政府と同一な考え方です。ところが、おそらくは、国民感情としては、法的整理論は強い支持を得ている可能性があります。そのことを前提にしてこそ、論者は、超法規的な、安直で国民感情迎合的な法的整理論を展開できたのです。
国民の目には、法的整理を行った場合のほうが、政府の方針よりも、はるかに納税者の負担が小さくなるように映るはずです。しかも、法的整理を行えば、明らかに、株主以外の利害関係者へも広範に負担がまわることになります。もちろん、債権放棄もあるでしょうし、従業員の負担もはるかに大きくなるでしょうし、受給者年金の削減も正当な理由を得ることになります。ただし、電気料金の値上げだけは、法的整理によって回避できるものではないと思いますけれども。
つまり、原子力損害賠償債務の発生を理由として、その巨額な潜在債務の存在が東京電力を事実上の債務超過に陥れることを理由として、東京電力の法的整理を行えば、原子力損害賠償費用を広く東京電力の利害関係者に負担させることができ、結果的に、まさに納税者の負担の極小化を実現できる、これが法的整理論の骨子です。しかし、本当でしょうか。
本当かどうかはともかく、実際には、法的整理など法律上できないのです。基本線として、政府方針のように、東京電力の存続を前提とした方策しかあり得ないわけです。論者や国民は、超法規論で盛り上がればいいのですが、責任ある政府は、そういうわけにはいかない。しかし、一方で、政府も国民世論への配慮を払わざるを得ない。その微妙な立場が、発言を曖昧なものとさせるのです。
実は、政府の方針は、その方針の限りでは、確かに納税者の負担の極小化になっているのです。繰り返しになりますが、現制度では、東京電力が政府から受けた資金支援額は、その全額を政府に弁済するのであり、その弁済原資が株主に帰属すべき利益である以上、政府方針は、納税者の負担を極小化させ、東京電力の株主の負担を極大化させるものです。政府は、なぜ、はっきりと、そのように説明しないのか、そこがわからない。
法的整理論は、一見、国民の目には、納税者の負担の極小化、東京電力の利害関係者の負担の極大化のようにみえます。しかし、原子力損害賠償原資を作るためには、実は、電気事業の継続がどうしても必要です。ですから、多くの法的整理論者は、その後の東京電力国有化を主張するのです。国営企業の東京電力が電気事業を行うことで、そこからあがる収益が、実は、賠償原資になるのです。つまり、もしも、賠償費用を電気料金に反映させないならば、本来は株主としての政府に帰属すべき電気事業の利益が賠償原資になる、ということです。
株主負担で賠償を行い、その株主が政府ならば、要は、実質的な税金の投入となり、法的整理によっては、決して、納税者の負担の極小化は起き得ないのです。法的整理によって、社債権者や債権者に大きな損失を与えたとしても、そのことによって現金は生まれ得ず、賠償費用を作ることはできません。電気事業には巨額な資金が必要ですから、論理的には、国有化しても金融費用は変わり得ません。政府の資金で行うのだから金利はかからない、というなら、それは本来政府に帰属すべき金利を放棄するだけなので、やはり、事実上の税金の投入になります。
むしろ、政府方針のほうが、民間企業としての東京電力の株主の負担で賠償を行うのですから、よほど、納税者の負担の極小化になると思います。法的整理により社債権者や債権者に大きな損失を与えたとしても、それは賠償費用を生むことにはならず、故に納税者の負担を小さくすることにもならず、単に、国民感情迎合的な、経済制裁的な、見せしめ的な効果を生むだけだと思います。
政府方針によっても、東京電力の事実上の国有化は不可避の情勢です。だとすると、東京電力の株主の負担とはいっても、圧倒的な大株主となる政府の負担が一番大きいわけで、結局は、株主としての政府を通じて、納税者の負担が大きくなる、ということですか。
そうなのだと思うのです。結局、納税者の負担の極小化とはいっても、その実態は、東京電力の株主負担の極大化なのです。ですから、政府が東京電力を国有化してしまえば、単なる言葉の遊びにすぎなくなるのではないか、と思うわけです。
そもそもの根本を確認したいと思います。基本の第一は、総括原価方式のもとで資金調達の費用は電気の原価を構成している、ということです。例えば、株式三割、債務七割というように資本構成を仮定し、株式の利潤率と金利についての合理的な仮定をおいて総資本費用を測定し、それを電気料金に含めているのです。ですから、東京電力の株式は利潤を生むのです。株式が利潤を生むように事前に計画されているということです。基本の第二は、東京電力が原子力損害賠償責任を負うとして、その賠償費用は株式が生む将来利益以外には考えられない、ということです。
■つまり、株式の利潤は電気料金に含まれており、その株式の利潤を賠償費用に充てる以上、損害賠償費用は、実は、電気料金に転嫁されるのです。原子力損害賠償の仕組みは、本来株主に帰属すべき利益が、原子力事故の被害者へ移転される仕組みだということです。従って、東京電力が賠償責任を負うとはいっても、東京電力を国有化すれば、政府保有分については政府負担で賠償を行うのと同じになり、結局は、納税者の負担になるのだろうと思います。
そこで、表題にある通り、東京電力を免責にすると国民負担は増えるのか、という疑問につながるのですね。
冒頭いいましたように、広い意味での国民負担は、東京電力を免責にしてもしなくても、変わりません。国民負担を狭く納税者の負担と解した場合、これまで述べてきましたように、東京電力が損害賠償責任を負うとしても、納税者の負担が極小化されるとは限りません。同時に、仮に東京電力を免責にしたとしても、そのことから直ちに政府が直接に行う原子力損害補償の負担が全て納税者の負担になる、とはいえないと思います。
前回の論考の要点は次の通りです。政府の主張は、原子力損害賠償は東京電力と政府の共同責任であるが、「原子力損害の賠償に関する法律」の仕組み上、東京電力の責任を主とし、政府責任は、その支援という形で従となる、というものである。しかし、政府が明確に事故の責任を認めている以上、政府責任が主であり、東京電力の責任を従とするのが筋である。法律の構成上、そのような法律の適用が可能であるかどうかについては、実は、議論されていない。だから、議論をしよう。
同様に、今回の主張の要点は次の通りです。原子力損害賠償を東京電力と政府の共同責任とする以上、賠償費用の負担は、東京電力の株主と納税者の共同負担になるのが理屈である。仮に東京電力を国有化すれば、株主と納税者が同じになり、要は、納税者の負担になってしまうはずである。東京電力の責任を主とした場合に納税者の負担が極小化される、というのが政府主張と考えられるが、政府は、その科学的根拠を示していないし、十分な説明も尽くしていない。一方、東京電力を免責にしたからといって、納税者の負担が極大化されるかどうかについても、十分な検討がなされていない。だから、議論をしよう。
要は、科学的な根拠を示すことなく、国民負担の極小化という耳触りのいい言葉だけで政策を推進するのはおかしい、といいたいのです。
以上
以上の議論は、過去の論考を前提にしたものですから、できましたら、下にある関連論考を合わせてお読みいただけると、幸いです。次回更新は、1月26日(木)になります。
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2012/02/02掲載「東京電力の責任が政府の責任より大きいはずはないのだ」
2012/01/26掲載「東京電力の株式の価値」
2012/01/12掲載「東京電力免責論の誤解を解く」
2012/01/05掲載「東京電力の免責を否定した政治の力と法の正義」
2011/12/22掲載「東京電力の国有化と解体」
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2011/10/13掲載「東京電力に関する経営・財務調査委員会」報告書の曲がった読み方」
2011/09/01掲載「東京電力が歩む苦難の道と終点にあるもの」
2011/07/14掲載「東京電力を免責にしても東京電力の責任を問えるか」
2011/05/02掲載「【緊急増補版】なぜ東京電力を免責にできないのか」
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2011/12/08掲載「オリンパスの第三者委員会調査報告書」
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2011/11/10掲載「オリンパスの悲願と裏の闇」
≪ JR三島会社関連≫
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2009/07/23掲載「JR三島会社の経営安定基金と大学財団」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。