東京電力の責任が政府の責任より大きいはずはないのだ

森本紀行
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • mixiチェック

昨年の4月から今日まで、東京電力の原子力損害賠償責任について書きに書きに書きに書いて33編、厖大な文字を費やしての結論を、ぐっと凝縮して一言、東京電力の責任が政府の責任より大きいはずはないのだ、これですね。

 そう、この一事だけ、東京電力の責任が政府の責任より大きいはずはない、この一事だけを認めて貰えれば、私は満足です。逆に、認めて貰えるまでは、東京電力について書き続けるしかない。もう、止められないのです。


まず、政府自身が、政府責任のほうが東京電力の責任よりも重いことを認めるべきだ、ということですね。

 原子力発電所の事故については東京電力に第一次義的責任がある、という政府の公式見解ですが、これを撤回していただきたい。
 東京電力は、政府の定めた安全基準に準拠して、原子力発電所を操業していたのであり、政府自身が東京電力の安全基準違反の事実を認定し得ていない以上、事故の原因は政府の安全基準そのものにあったといわざるを得ない。そして実際に、政府は、安全基準の不備を認めたうえで、今回の事故の被害者の方々を、「国策による被害者」という言葉で呼んでもいる。東京電力が原子力損害賠償責任を負うとの前提ではあるが、その政府支援のあり方について、「政府と原子力事業者が共同して原子力政策を推進してきた社会的責務を認識しつつ」、行うとされてもいる。要は、政府責任の重大性は、政府自身が認めるところである。
 では、なぜ第一義的責任が東京電力にあるのか、なぜ政府に第一義的責任がないのか、ここが納得できないのです。東京電力に責任があるのは当然としても、同時に政府にも重大な責任があるなかで、なぜ東京電力の責任のほうが政府の責任よりも重くなるのか、そこがどうしても納得できない。


それは、「原子力損害の賠償に関する法律」の構造上の問題だというのが、政府の立場ですね。

 そのとおりです。そのことは、当時の菅総理大臣の4月29日の衆議院予算委員会での発言、「規定をそのまま認めることは、東電を免責することを意味する。東電には賠償の面で第一義的な責任はある」、に明確に示されています。
 この菅総理大臣の発言は、法律軽視を明確に国会の場で語ったものとして、異様なものです。つまり、この発言は、「原子力損害の賠償に関する法律」をそのまま適用すると、東京電力は免責になる可能性がある、東京電力が免責になると、東京電力に賠償責任を負わすことはできない、故に、東京電力を免責にすることはできない、という論理構造のものであり、政治判断を法律解釈に先行させることを宣言したものとして、歴史に残る、というよりも、歴史に残すべきものである思います。
 この発言は、実は、その2日前の4月27日に、当時の枝野官房長官が、「最終的に東電と国の負担割合については、一般的な不法行為に基づく、あるいは損害賠償法理に基づいて、不真正連帯債務になるかと思うので、その場合の国と東京電力の間の負担割合がどうあるべきなのかはいずれ議論があるんだろうと思うが、しかし、まず被害者との関係では、きちっと国と東京電力と、一義的には納税者との関係もあるので、一義的には東電において生じた、相当因果関係の範囲にある損害については補償するのが当然だ」、に関連しているのです。
 枝野長官は、明瞭に政府責任を認めており、一方で、東京電力の責任も認めて、両者の連帯責任という構成を主張したものと考えられます。この枝野長官の思想が政府方針の骨格を規定したものであることは、先ほど引用した、「政府と原子力事業者が共同して原子力政策を推進してきた社会的責務」という表現をみても、明らかです。
 ところが、「原子力損害の賠償に関する法律」の仕組みでは、政府と東京電力の連帯責任を構成するには、無理があるのです。東京電力を免責にしてしまうと、法律上の損害賠償主体がなくなってしまうので、新たな立法により政府補償の仕組みを作るしかないのですが、その場合には、重大な二つの問題が生じてしまう。
 その第一が、東京電力を免責にしている以上、東京電力の責任を改めて問うことができず、政府と東京電力の連帯責任にできなくなることです。要は、責任の連帯性をいうならば、政府が補償費用の一部を東京電力に求償できなくてはならないのですが、その方法がなくなるのです。その結果として、第二の問題ですが、補償費用は全て政府負担になり、国民負担が大きくなりすぎるのです。
 この点を考慮したうえで、管総理大臣の発言になったと考えられます。政府と東京電力の連帯責任とするためには、「原子力損害の賠償に関する法律」の構造上、東京電力に賠償責任があるとしたうえで、東京電力に対する政府支援の方法論の中で、政府責任を果たすしかない、従って、東京電力免責論は考慮に値しない、ということになったのです。この論理を、菅総理大臣の発言は、率直に表現しています。率直すぎて、あまりにも異様です。
 こうした論理だと、東京電力の免責を否定する根拠を、法律的には説明できず、政治的にしか主張できない。事実、政府は、一度も、東京電力の免責を否定する法律的根拠を説明したことがない。菅総理大臣の発言のように、東京電力を免責にすると東京電力の責任が問えないという、結論先にありき、の説明にならない説明しかできないのです。


法律の適用のあり方としては問題を残すでしょうが、結果といいますか、政策課題に対する政治の答えとしては、妥当なものではないでしょうか。

 もちろん妥当です。妥当だからこそ、国民の強い支持を得ている。国民の強い支持を得ているからこそ、法律の適用の問題性について、誰も発言しない。東京電力も発言しない。発言できるような世論の雰囲気ではないでしょう。政治の勝利です。
 しかし、本当に、このようなことでいいのか。法律の条文が、政治の前に、かくも簡単に無視されて、いいものなのか。しかも、政府自身が、法律の軽視を公言しているとは、どういうことなのか。そこに危険なものを感じない日本国民の法律感覚とは、どういうものなのか。当時の枝野官房長官のように、最終的には裁判所の決めることだ、と開き直る姿勢は、いかがなものなのか。哲学者の私としては、法哲学的な問いに直面してしまう。
 何よりも、哲学的に困難なのは、政府のとった方針について、その結果の妥当性に関しては、私自身も反対し得ないことです。つまり、政府の方針は実体的には正しい、と考えざるを得ない。しかし、同時に、法形式的には間違っており、行政府の法律適用のあり方としては、不当なのだ、とも思わざるを得ない。いかに、政策が正しくても、手続き的には違法だと思う。一方で、形式的正しさを追求することが、著しく公正に反した結果を生むこと、つまり東京電力の責任を全く問題にし得なくなるようなことは、認め難い。心情的には、私は政府の方針の帰結を支持します。しかし、結果がよければ、それでいい、といえるのか。結果が手続きを正当化するのか。本当に、それでいいのか。


理屈上は、二つしか方法はないでしょう。東京電力の賠償責任を認めたうえで、政府責任の程度に応じて実質的な政府負担を大きくする方法か、東京電力を免責にしたうえで、改めて東京電力の責任を問う方法を考えるか、このどちらかですね。

 その通りです。理論的に、その二つしかない。ただし、後者の東京電力免責論は、不可能ではないにしても、極めて非現実的であると思います。事実上は、前者の方法、まさに政府が採用した方法しかないのだと思います。


あれだけ熱心に主張してきた東京電力免責論を撤回するのですか。

 もともと、東京電力免責論は、本来の法律の仕組みを明らかにし、政府のやり方に対する批判として展開してきたものですから、深く拘るものではありません。もちろん、免責論を主張することは、依然として重要だと考えています。しかし、免責論の主張は、政府責任の明確化の主張にすぎないので、政府の責任が明確になれば、それで、目的は果たせるとも思うのです。
 例えば、東京電力免責論の経済的な意味は、事実上、株式の価値にかかわる問題であるわけですが、政府責任が明確になる程度に応じて、株式の価値にまつわる不確実性が低下し、その安定や上昇が起きるのですから、株式価値の変動を問題としている以上、免責にならなくても、実質的効果がとれれば、それでいいのです。


免責論の主張が難しいというのは、どういうことでしょうか。免責論を主張せずに政府責任を明確にすることは、可能でしょうか。

 政府が安全基準の瑕疵を認めたということは、より厳格な基準のもとでは事故は防げた、というのと同じでしょう。つまり、事故の原因は、「異常に巨大な天災地変」にではなくて、政府の定めた基準に従い政府の監督のもとで東京電力が運営していた原子力発電所の管理体制にあった、ということでしょうから、「原子力損害の賠償に関する法律」第三条ただし書きの適用は、難しいのだと思います。
 ですから、法律の構造上は、第三条ただし書きの適用ができず、東京電力に無限責任がある、ということにせざるを得ない。ここまでは政府の主張と同じです。ただし、重要なことは、安全基準を定めた政府責任を抜きにしては、東京電力の責任は問えないだろう、ということです。いいかえれば、もしも政府の安全基準に不備がなく、その基準のもとでも今回の事故が防げなかったのならば、そのような事故の原因となったものは、免責要件である「異常に巨大な天災地変」以外の何物でもあり得ず、故に、東京電力は免責であろう、と考えられるのです。
 論理的には、東京電力の免責を否定するためには、実は、東京電力の責任よりも先に政府の責任を認めなければならないのです。そして、実際に、政府は自身の責任を認めたうえで、東京電力の責任を追及するという方針をとったものと考えられるのです。ですから、私が手続き的正当性を問題にするのは、政府が第三条ただし書きを適用しなかったからではないのです。そうではなくて、第三条ただし書きを適用しない理由として、政府は、明らかに、政府自身の責任を問題にしていたと考えられるのに、そのことを一切説明せずに不明確にし、逆に一方的に東京電力の第一義的責任を主張する策にでたことは、いかにも国民感情迎合的であり、手続き的に不当だ、ということなのです。
 ですから、次の問題は、東京電力の賠償責任を認めたうえで、政府の法律上の責任を、どのようにして明確にし、かつ公式に国民に対して説明するか、ということになってくるのです。つまり、手続き的に政府責任を明確にするところから始め直すならば、自ずから実体的な政府責任の範囲が明確になるだけでなく、現在の政府主張のように、原則として全ての賠償責任が東京電力にあるかのような説明を、「国民負担の極小化」というような形では、展開できなくなると考えているわけです。


政府の立場は、政府責任は東京電力の賠償履行支援にとどまる、というもので、政府責任を明確にすることなく、状況に応じて弾力的に対応しようというものですね。

 政府が、東京電力に第一義的責任がある、としているのは、当然の反対効果として、政府には第二義的責任があることを認めるものです。つまり、債務の連帯性を、不明確ながらも、打ち出してはいるのです。単に法律上の技術的な理由で、東京電力の責任を主とし、政府の責任を従とする、という構成にしているだけだと考えられます。問題は、政府責任の範囲が明確になっていない(あるいは、明確にしようとしない)こと、政府が上手に東京電力の後ろに隠れようとしていること、だけなのです。
 もちろん、政府の責任範囲を明確にしない方針は、政府が責任をとらないということでは決してなく、逆に責任をとるという前提で、見積もりの難しい被害状況に弾力的に対応しようとするものとして、妥当なもののようにもみえます。例えば、社会的重要性を考慮して学校の除染を政府の費用負担で行うとしていることなどは、柔軟な対応の例でしょう。
 しかし、東京電力の株式が上場されたままであることを考えれば、東京電力の株式の価値について、十分に合理的な評価ができること、一定の予測可能性のある判断を形成できること、という条件を満たすのでなければなりません。そのためには、政府の責任範囲を明確にすることで、反射効果として逆に東京電力の責任の範囲を明確にしておくべきではないのか、というのが私の主張の第一です。
 そして、第二の主張こそが、本論の目的であり、本論の表題でもあるのですが、それは、東京電力の責任が政府の責任より大きいはずはないのだ、ということです。つまり、法律の仕組み上、形式的に、東京電力に第一義的責任があるとしても、実質的な社会の公正さの見地からは、政府にこそ第一義的な責任があるべきであろう、ということです。そのことを、金銭的な負担割合に明確に反映させれば、賠償費用の全額を東京電力の株主が負担するという現在の前提から、政府負担分だけ株主負担が軽減されることを意味し、結果として、東京電力の株式は価値の相当部分を回復し、株価は大幅に上昇するであろう、と考えているのです。


それは、もはや東京電力免責論ではなく、東京電力の賠償責任を認める前提での議論ですから、現在の原子力損害賠償支援機構を使った仕組み自体を変えることは必要ではなく、規定の枠の中で十分に実行可能だ、と考えているのでしょうか。

 そうです。しかし、今回はもう長くなりましたから、その議論は次回に繰り越しましょう。

以上


以上の議論は、過去の論考を前提にしたものですから、できましたら、下にある関連論考を合わせてお読みいただけると、幸いです。次回更新は、2月9日(木)になります。


≪ 東京電力関連≫
2012/03/01掲載東京電力の不徳のいたすところか」(最新コラム)
2012/02/23掲載東京電力の無過失無限責任と社会的公正
2012/02/16掲載東京電力の責任よりも先に政府の責任を問うべきだ
2012/02/09掲載政府の第一義的責任のなかでの東京電力の責任
2012/01/26掲載東京電力の株式の価値
2012/01/19掲載東京電力を免責にすると国民負担は増えるのか
2012/01/12掲載東京電力免責論の誤解を解く
2012/01/05掲載東京電力の免責を否定した政治の力と法の正義
2011/12/22掲載東京電力の国有化と解体
2011/11/04掲載東京電力に対する債権が不良債権にならないわけ
2011/10/13掲載東京電力に関する経営・財務調査委員会」報告書の曲がった読み方
2011/09/01掲載東京電力が歩む苦難の道と終点にあるもの
2011/07/14掲載東京電力を免責にしても東京電力の責任を問えるか
2011/05/02掲載【緊急増補版】なぜ東京電力を免責にできないのか

≪オリンパス関連≫
2011/12/15掲載オリンパスが好きです
2011/12/08掲載オリンパスの第三者委員会調査報告書
2011/12/01掲載オリンパスの株価が下がった理由
2011/11/24掲載オリンパス問題の深層
2011/11/17掲載オリンパスのどこがいけないのか
2011/11/10掲載オリンパスの悲願と裏の闇

≪ JR三島会社関連≫
2011/10/06掲載JR三島会社の経営安定基金のからくり
2009/07/23掲載JR三島会社の経営安定基金と大学財団
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。