政府の第一義的責任のなかでの東京電力の責任

森本紀行
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原子力損害賠償責任について、政府は、東京電力に第一義的責任がある、といっていますが、それは法律適用の形式の問題で、実質的には、政府こそが第一義的責任を負うべきである、これが前回の論考の主張でした。その前提で、東京電力が負うべき責任の範囲を明らかにしようというのが、今回の趣旨ですね。

 東京電力が負うべき責任の範囲を積極的に明らかにするというよりも、政府が負うべき責任を明らかにすることで、消極的に東京電力の責任範囲が定まるのではないか、というのが目論見です。

念のため、政府と東京電力の責任について、論点を整理しておきましょうか。

 そうですね。原子力損害賠償問題に関して長い間検討してきたことの総決算として、最終的な見通しを示す意味でも、論点を整理しておいたほうがいいでしょう。
 事故直後は、東京電力は、「原子力損害の賠償に関する法律」第三条ただし書きの適用により免責である、という立場であったと思われます。一方、政府は、事故の原因についての政府責任を認めていませんでした。
 ところが、4月27日に、当時の枝野官房長官が、政府と東京電力の共同責任という考え方を示し、事故の背景にある政府の責任を明確に認めるに至りました。これを受けて、東京電力は、5月10日に、法律第十六条に基づく支援要請を政府に対して正式に行います。これにより、東京電力は、第三条ただし書きの適用を放棄し、自らの賠償責任を認めたことになります。
 背景から推察されることは、東京電力の自然な期待として、東京電力が一方的に全責任を負うなどということは、想定されていなかったであろう、ということです。当然に、政府責任を前提にしたうえで、形式上、東京電力の責任を前面に立てるにすぎない、という了解があったはずだと思います。ところが、政府は、一向に自らの責任範囲を明確にすることなく、「国民負担の極小化」という上手な表現のもとで、東京電力を盾にし、東京電力の後ろに隠れ、東京電力を悪者にまつりあげ、国民からの批判を巧みに東京電力の方向へ逸らす、という卑怯な方策に打って出ます。裏切りの行為です。
 要は、事案としての問題性は、これだけのことのなかに、支援要請に先立つ二週間ほどの間の国民に知らされていない政府と東京電力の交渉のなかに、あるのだと思います。第一の問題は、そもそも東京電力は本当に賠償責任を認めたのか、ということであり、第二の問題は、そもそも政府は本当に補償責任を認めたのか、ということです。

東京電力は賠償責任を認めていない、ということでしょうか。

 本当の意味では、賠償責任を認めていないのだと思います。あくまでも、政府の責任を前提としたうえで、仮に賠償責任を認めた形にして、支援要請をしただけです。
 そのことは、東京電力の支援要請の書面にも、明確に表れています。即ち、「原子力損害の原因者であることを真摯に受け止め、被害を受けられた皆さまへの補償を早期に実現するとの観点から、原子力損害賠償法に基づく補償を実施することとし」、というのが支援要請の背景説明であり、その理由説明は、「当社は資金面で早晩立ち行かなくなり、被害を受けられた皆さまへの公正かつ迅速な補償に影響を与えるおそれがあるばかりでなく、電気の安定供給に支障をきたすおそれもあります」、ということなのです。
 注意していただきたいことは、東京電力が決して法律上の用語である賠償という単語を使わないことです。必ず、補償という言葉を用いています。支援要請の趣旨は、「補償を早期に」、「公正かつ迅速な補償」、「電気の安定供給」というふうに、社会的使命を果たすことにあるのであって、そのために、仮に法律上の賠償責任を認めた形にして、政府に替り補償の仮払いを行う、というところにあるものとみられます。
 東京電力が注意深い書き方を用いたのは、後日、法的な手続等が生じたときに備えたものと思われます。そうであれば、ここは是非、何らかの法的手続きの中で、東京電力の真意を明らかにしていかなければならないと思うのです。特に重要なのは、支援要請を決めた取締役会の議事録です。当然のことでしょうが、株主の利益と社会的使命との狭間で高度な経営判断を行ったことについて、その経緯を示す記録が残っているはずですね。

政府もまた補償責任を認めていない、ということでしょうか。

 本当の意味では、補償責任を認めていないのだと思います。あくまでも、第三条ただし書きの適用を排除する目的で、政府の責任を認めた形にしたのでしょう。
 政府自身もまた、今回の事故の原因を、「異常に巨大な天災地変」である、と考えていたのかもしれません。もしも、「異常に巨大な天災地変」ではないとすると、東京電力に政府の定めた安全基準に違反している事実がない以上、安全基準そのものの不備を認めなければならないからです。普通は、国策の誤りなど、簡単に認められるものではない。
 ところが、ここは、相当に大きな政治判断であったのだと思いますが、結論としては、安全基準の不備を認めることになります。理由は、二つあったのでしょう。第一は、いうまでもなく、原子力政策自体の転換は不可避との判断でしょうが、第二は、原子力損害の補償費用の調達だったのだと思います。つまり、安全基準の不備に事故原因を求めることで、第三条ただし書きの適用を排除し、東京電力に賠償責任を負わせることで、補償費用を東京電力に負担させようとしたのです。
 もしも、政府が安全基準の不備を認めないとしたら、政府公式見解としては、現在の技術水準をもってしても防ぎ得なかった事故ということにならざるを得ず、そのような事故の原因を作ったものは、とりもなおさず、「異常に巨大な天災地変」でなくてはならず、そうであれば、東京電力は免責になってしまう。それでは、補償費用はすべて政府負担になって困る。だから、東京電力は免責にできない。免責にしないためには、「異常に巨大な天災地変」であってはならず、人知により防ぎ得た事故でなければならない。ということは、政府の安全基準が甘すぎたといわざるを得ない。これが、政府が責任を認めた理由でしょう。
 当時の菅総理大臣が、「規定をそのまま認めることは、東電を免責することを意味する。東電には賠償の面で第一義的な責任はある」、と発言したのは、まさに、この背景を極めて率直に語ったものとみられます。
 なお、政府が安全基準の不備を認めたもうひとつの理由、即ち、原子力政策の転換という視点でみると、簡単にいえば、経済性から安全性への力点の移行が行われるということだと思いますが、そのなかで、今後の新たな高い安全性の基準を現行の安全基準に適用すれば、当然に、これまでのあり方は不備ということになる。しかし、そのような論理は法律的にはおかしいのです。法律的には、あくまでも、これまでの原子力政策の中で経済性と安全性の調和を目指して設定された安全基準の合理性が評価されなければならないのですから、事故当時の基準が不備であるとは、簡単には、いえない。
 ここのところについても、政府は、基準を明確にしないで、大きな混乱のもとを作っていますね。つまり、事故をきっかけとした安全基準の見直しというのは、これまでの基準に不備があったから事故が防げなかったので、基準を強化する、ということなのか、これまでとは基準設定の視点を変えたので、その新しい高い基準から見たときは、これまでの基準は強化されなければならない、ということなのか。後者の場合は、そもそも旧基準と新基準は考え方が違うのだから、旧基準を不備だなどといえるわけがないのです。
 要は、政府は、安全基準の客観的妥当性についての検討を封印して、補償費用の調達と原子力政策の転換という政策課題の遂行に際し、国民感情も意識したうえで、事故についての政府責任を認めたほうが有利であろうとの政治判断から、責任を認めたにすぎないのだと思います。

ということは、政府は、東京電力が本当の責任を負う前提で、仮の責任を負ったことにし、一方、東京電力は、政府が本当の責任を負う前提で、仮の責任を負ったことにした、ということでしょうか。共同責任という名の共同無責任ですね。

 まあ、共同無責任のような恰好をした共同責任ということなのでしょうね。

さて、これで法律の形式的な適用としては、東京電力が原子力賠償責任を負い、その賠償履行を政府が支援する、という形で、共同責任といいますか、共同無責任的な構図ができました。次は、実質論であって、どこまでが政府の負担となるのか、逆に、残されたどこまでが東京電力の責任範囲となるのか、ということですね。

 前提として、現在の原子力損害賠償支援機構を通じた政府支援の仕組みの中で検討するのが実際的であろうと思われます。つまり、機構の構造を変えることなく、運用上の工夫や小さな修正等で実行可能な方策を検討すべきであろうということです。
 二つの軸を考える必要があると思います。第一は、賠償費用負担の方法の問題で、賠償費用そのものの実質的な政府負担によって東京電力の負担軽減を図るのか、賠償費用以外の費用負担を通じて、実質的に東京電力の負担軽減を図るのか、というものです。 第二は、政府負担とはいっても、結局は、政府を通じた負担の再配分ということですから、その意味では、東京電力以外の原子力事業者へ負担が再配分され得るか、ということが検討されなければならないと思います。

政府は、様々な原子力事故処理に関する費用を、直接負担していますね。

 政府は、原子力損害賠償の範囲について、指針を作成して、紛争の未然防止に努めています。それとは別に、様々な事故処理費を直接負担しています。理屈上は、そのような政府の負担のなかにも、賠償対象になり得るものがあるのでしょうが、政府としては、それを東京電力に請求することはしないでしょう。ですから、政府が直接的に責任を負う範囲を拡大させれば、結果的に、東京電力の賠償責任範囲を小さくできるはずです。
 おそらくは、政府と東京電力の共同責任ということの現実的な意味は、このような方法を通じての責任範囲の分担のことなのだと思います。政府として、まだまだ積極的に、責任範囲を広げる余地があるのではないでしょうか。
 また、東京電力が受けた政府からの支援は、全て特別負担金として機構を通じて政府に弁済されるのですが、特別負担金は、債務性を帯びないように(要は、東京電力の債務超過を回避させるために)、東京電力の収支の状況を見て年度ごとに賦課することになっています。ここにも、政策的には、弾力化の余地があると思います。つまり、減額や免除、あるいは上限の設定の可能性について、検討する余地があるものと思われます。

賠償費用以外の負担という意味では、事故を起こした原子力発電所の廃炉費用の負担の問題がありますね。

 廃炉費用を政府が負担すれば、東京電力の実質負担は相当に軽くなりますね。ここについては、廃炉作業の進展とともに費用の見積もりがはっきりしてくるなかで、検討されていくのだと思います。しかし、全額を東京電力が負担するということはあり得ないような気がします。逆に、全額を政府が負担するような方向で検討されるのではないでしょうか。
 なお、耐用年数が切れて廃炉になるときの費用は、最初から原価に織り込まれていて、財源の手当てがなされているのですが、事故による廃炉の場合は、費用が激増するにもかかわらず、その増加分を電気料金へ転嫁できないので、東京電力の株主への負荷にならざるを得ないのです。株主の利益という意味では、非常に大きな問題です。

他の原子力事業者の負担の問題はどうでしょうか。

 機構は、将来の原子力発電所の事故に備えて、賠償原資を積立てる制度をもっていて、全ての原子力事業者が、そのための負担金を拠出しています。この負担金は、あくまでも将来の事故のためのもので、過去の東京電力の事故の賠償原資にならないことは、明確です。また、負担金は、原価として、電気料金に反映させられるものと思われます。このような制度があることから、逆に、東京電力の賠償費用が他社へ回るということは想定されていないでしょうし、そのようなことをもちだせば、当然に、他社からの強い反発があるでしょう。
 しかし、もしも、政府の定めた安全基準に不備があったとし、そして、全ての原子力事業者が、東京電力と同じように、その基準に忠実であったとしたら、東京電力の福島第一原子力発電所に事故が発生したことは、そこを地震と津波が襲ったことによって起きた、ひとつの不幸な偶然であったといわざるを得ない。他の原子力事業者の施設に同じような地震と同じような津波が襲ったのならば、同じような事故が起きたであろうと考えるのが自然でしょう。つまり、特別に東京電力に責任があったわけではない。
 理論的には、今回の事故の責任は、政府と東京電力の共同責任であるよりも、政府と原子力事業者全体との共同責任であったと考えるべきでしょう。この論理から免れるためには、各原子力事業者は、政府基準を上回る高い基準において、つまり東京電力よりも高い基準で、原子力発電所を操業していたこと、故に、同等の地震と津波によっても、事故が防げたであろうことを、立証しなければなりません。そのようなことができる原子力事業者は、いないと思います。
 私は、公正性の見地から、他の原子力事業者にも東京電力の賠償費用の負担を課すのが正しいのではないか、と考えています。もっとも、「原子力損害の賠償に関する法律」が、原子力事業者に無過失責任を課していることからすれば、たまたま福島第一原子力発電所に地震と津波が襲ったという偶然についても、東京電力の責任は免れない、というのが政府と他の原子力事業者の見解なのだとは思います。厳格な無過失責任の解釈としては、そう考えるのが妥当かもしれない。しかし、この問題については、いまだ十分な検討がなされていないと思います。

確かに、以上のような論点を再検討すれば、東京電力の株式の価値は、大きく動く可能性がありますね。

 一番大切なことは、予測可能性なのです。東京電力の株式の価値(他の8社の電力会社に賠償費用を負担させると、他社の株式の価値も大きく動きます)について、合理的な評価ができるようにすることが重要なのです。ですから、明確な政府の方針を、なるべく早く明らかにしてもらわないと、東京電力の株式は、価値評価にまつわる不確実性が大きすぎて、とても上場になじまない状態のままにおかれるということです。

以上


以上の議論は、過去の論考を前提にしたものですから、できましたら、下にある関連論考を合わせてお読みいただけると、幸いです。次回更新は、2月16日(木)になります。


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2012/01/26掲載東京電力の株式の価値
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≪ JR三島会社関連≫
2011/10/06掲載JR三島会社の経営安定基金のからくり
2009/07/23掲載JR三島会社の経営安定基金と大学財団
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。