私は、雑誌「WEDGE」の四月号に、「東電国有化は政府の欺瞞」という論考を寄せましたが、これは、東京電力の原子力損害賠償問題について、事実と法律と論理だけで、国有化のあり得ないことを論じ切ったものです。
結果的に、この論考は、東京電力擁護論のようにみえるかもしれません。しかし、どこにも東京電力を擁護するような箇所はありません。事実と法律と論理だけで論じると東京電力擁護論のように聞こえてしまうとしたら、それは、もしかすると、巷の報道のあり方が必ずしも事実と法律と論理だけに立脚するのではなくて、憶測や意見や感情によって東京電力悪者論が作り上げられているからかもしれません。
この「WEDGE」の論考の冒頭では、東京電力が政府の定めた安全基準に違反していた事実がないこと、東京電力は法律の無過失責任の規定に基づいて損害賠償責任を負うことを表明して政府に援助を申し入れたこと、その限りにおいて東京電力に批判されるべき点などないこと、を指摘しています。要は、私は、東京電力の法律上の立場について、単なる客観的な事実認識を表明しただけなのです。
にもかかわらず、東京電力に批判されるべき点はない、というところには、感情的な違和感を覚える人もいるでしょうね。それは、おそらくは、何となく損害賠償についての東京電力の過失責任を頭のどこかで前提にしてしまっているからでしょう。それも当然で、賠償責任は過失責任が原則だからです。ところが、東京電力は、過失によって、原子力損害の賠償責任を負っているわけではないのです。そうではなくて、「原子力損害の賠償に関する法律」が定める無過失責任によって、賠償責任を負っているのです。
ところで、無過失責任というのは、法律の一般原則の例外であり、非常に特殊なものです。だからこそ、保険なり社会保障なりの公的な仕組みと組み合わせて初めて機能し得るものなのです。つまり、私の論証の中核は、東京電力の無過失責任を前提にしたときは、制度設計上、政府にも重い責任があるという点なのです。東京電力の責任もさることながら、政府の責任こそが問題なのです。当然でしょう、原子力政策の中の東京電力であり、東京電力は政府が定めた安全基準に忠実であったのですから。
さて、なぜ、私にとっては当たり前の内容とも思える論考に、「WEDGE」の編集の方は価値を見出してくださったのでしょうか。それは、客観的で中立的な論調で東京電力の損害賠償問題を論じたものが希少だからだそうです。なぜ、そのようなことになるのでしょうか。おそらくは、客観的な論理で押すと、東京電力擁護論のようになってしまうからでしょう。誰も東京電力支持者とは思われたくないのかもしれません。でも、それは、おかしいでしょう。なぜ、東京電力に対して公平でいられないのでしょうか。
同じような影響は、もしかすると、原子力発電推進派の方の言論にもでているかもしれませね。
原子力発電は、国民の選択として、行われてきたのです。今後、新たなる国民の選択として、それが放棄されるにしても、そのことは、過去における原子力発電の社会的意義をなんら貶めるものではありませんし、原子力発電の発展のために貢献されてきた多くの方々の貴重なお仕事の価値を否定するものでもあり得ません。
ましてや、現段階では、国民の選択はなされていません。もしも、報道の良識ということがあるならば、国民の選択が適切に行われるように、原子力推進派と反対派の双方の意見が中立的に紹介されるような環境を作ること、それこそが報道の役割として意識されるべきなのではないでしょうか。しかし、現実には、原子力推進の立場の方の発言は、必ずしも中立的に扱われる状況にはないようですね。非常におかしなことです。そして、おそらくは、非常に危険なことです。自由な言論は、民主主義の要なのですから。
ところで、東京電力の国有化はあり得ないという結論についてですが、枝野経済産業大臣などは、税金を使って東京電力を支援する以上、経営介入は当然だ、という考えのようですが。
東京電力と政府との間の法律上の関係を厳格に理解していただきたいのです。両者の関係は、原子力損害補償の履行にあたっての、「原子力損害の賠償に関する法律」の第十六条に基づいた、支援を受ける側と支援をする側の関係にすぎません。 全く自明のことで論を待たないことなのですが、政府の役割は、法律上、東京電力による原子力損害補償の履行の支援に限られるのです。なのに、なぜ国有化が必要なのでしょうか。
もしも、政府が東京電力の経営を支配下に置こうとするなら、その理由として、東京電力に任せておくならば賠償履行の円滑な進捗が阻害される、というような東京電力側の問題が存在しなければなりません。そのような事態は現実に起きているのでしょうか。
もしかすると、賠償履行における遅延とか補償額や被害者への対応方法をめぐる苦情などがあるのかもしれませんし、費用削減などの経営改革の遅れなどが認められるのかもしれませんが、それを、東京電力の経営姿勢に起因する問題だと証明できるのでしょうか。仮に、そうだとしても、政府の経営介入によらない限り改善のめどが立たない状況なのでしょうか。あるいは、政府の経営介入によって事態の改善が図られるのでしょうか。
私の知る限り、政府が損害賠償問題に関して東京電力に経営介入することを正当化するような事実は公表されていないと思います。仮に、政府がそのような事態を公表したとして、どうして、その政府の一方的な評価を信じることができましょうか。東京電力側にも、当然のこととして、正当な反論があるでしょう。しかし、今、東京電力が正当な反論をしようとして、できるでしょうか。できるような世論の状況にあるでしょうか。また、それを公平にとりあげる報道機関があるでしょうか。
私には、報道の良識が問われているのだと思われます。報道の第一の社会的使命は、国民に事実を伝えることです。事実の受け止めかたは、国民各自の問題です。各自、それぞれの立場で、それぞれの意見をもつでしょう。報道の第二の社会的使命は、そのような多様な意見の公平な伝達でしょう。しかし、今の日本の報道は、どうでしょうか。
AIJ事件をめぐる報道にも、全く同じ問題性が露呈していますね。
AIJ事件をめぐる報道への批判は、直近の二つの論考に尽きていますので、繰り返しません。いかに大規模な犯罪とはいえ、一業者の詐欺行為にすぎないことが、報道のあり方ひとつで、かくも大きな問題へと拡散し、かくも社会に対して不必要(というよりも有害)な動揺と混乱を与え得るのか、最近では、怒りを超えた驚きというか呆れというか、別な関心をもつに至りました。
それにしても、軽率で偏った報道の結果として、大いなる誤解に基づく行動を誘発してしまったら、報道機関は、その責任を、どのようにしてとるのでしょうか。事実として、総合型厚生年金基金からの脱退を検討し始めた加入企業などもでているようですし、投資運用業界では、いわば風評被害によるといってもいい営業上の影響は、確実にでているはずです。
AIJの事案の犯罪的実態が明らかにされる前に、面白おかしく偏った報道を行うことで、世の中に社会的動揺を生じさせ、さらに、その動揺に基づく行動や言論を、今度は事実(確かに事実には違いない)として、報道することで、動揺を拡大させていく。そのような俗悪な三流雑誌的な振る舞いが、報道という名に値するものなのでしょうか。
その中でも、噴飯ものの馬鹿げた報道は、日本経済新聞が3月7日の一面で報じた記事でしょう。そこには、自社の企業年金の資産運用に関して、「今後は独立系投資顧問会社と契約せず」とした個別具体的な企業名が掲載されていました。これらの企業が、本当に、そのような愚かしいことをいったのかどうかは知りませんが、仮に事実なら、驚くべき不見識を曝け出したことに、今となっては、恥じ入るばかりでしょうね。お気の毒なことです。企業の品格の問題ですよ。
AIJ事件というのは、要は、大規模な詐欺的行為ですよね。それなのに、国会にAIJの社長が出てきたりして、おかしげな政治劇になりましたね。それも報道が演出したものでしょうか。
さあ、私は政治が得意ではありませんので、よくわかりませんが。それでも、結果的に事実として起きたことは、政治が重要な局面にある中で、ものの見事に国民の関心が逸らされてしまった、という極めて重大な問題ですね。国民は、もしかすると、完全に愚弄されているのかもしれませんよ。
また、厚生年金基金の財政上の構造問題については、先送りができないような困難な事態が表面化することは、時間の問題として、避け得ない局面にあったのです。ところが、社会的には極めて重要な問題であるにもかかわらず、事案の高度な専門性と特殊性によって、広く国民の関心を引くことができず、また、国民の正しい理解を得ることも難しい領域として、放置されてきた問題でもあるのです。
ところが、AIJ事件を契機として、これも事実としては、この特殊な問題が広く国民の知るところとなったのです。国民に対する問題提起のあり方としては、相当に誤解を招いている面が多いと思いますので、どうかとも思いますが、いずれしても、国民的議論のきっかけを作ることができたのは事実です。厚生労働省としては、どうせ何かをしなければいけなかったのですが、何をやるにしても、もしかすると、やりやすい環境が作られたのかもしれませんね。
さてさて、こうしたことが最初から巧まれた政治なのかどうかは知りませんが、結果としては、なるほどそうか、うまいものだな、という感は否めないですね。
そこで最後に国民の批判精神の重要性がでてくるのですね。
報道に踊らされてはいけない。政治に愚弄されてはいけない。そのためには、きちんと論理立てて思考するという、まさに批判精神の働きが重要なのだと思います。要は、直観的に変だ、と思える感性を養うことが大切なのではないでしょうか。たくさんある中で、ただひとつのことだけを述べておきます。東京電力の問題です。
法律は政府支援目的を賠償支援に限定しているのです。その目的以外の理由で東京電力の経営に不当に介入することは、行政裁量の域を超えて違法だと思われます。ところが、政府は、こともあろうに原子力事故を奇貨のごとくに利用して、東京電力を不当に国有化し、電気事業改革という賠償目的と関係のない政策を強引に実行しようとしています。
私は電気事業改革自体に反対するものではありません。その政治手法に著しく危険なものを感じるだけです。このような超法規的な政治手法を認めることはできません。民主主義の危機です。国民の批判精神の働きが強く求められているのです。
以上
以上の議論は、過去の論考を前提にしたものですから、できましたら、下にある関連論考を合わせてお読みいただけると、幸いです。次回更新は、4月5日(木)になります。
≪ AIJ年金消失問題過去記事≫
2012/03/29掲載「東京電力とAIJにみる報道の良識と国民の批判精神」2012/03/22掲載「AIJ問題は投資運用業の埒外における犯罪的行為である」
2012/03/15掲載「AIJ年金消失問題という問題」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。