農業の事業主体は自営農家が多く、産業化と法人化は進んでいないのでしょうね。そのことが、農業の存立にとって不可欠な特質であるのか、それとも、旧来の仕組みを頑なに守ってきたことの結果にすぎないのかは、よくわかりませんが、今後は、変わるのでしょうか。日本の農業に明るい未来はあるのでしょうか。
伝統的方法に忠実であることや、自営業のあり方について、産業化以前の後進的なものと考えるのは間違いでしょうね。古典芸能や相撲などは、伝統を守ってきたからこそ、今日まで存続してきたのだし、我々が飲食の満足と喜びを見出すのは個人経営の料理屋であるのですから。
飲食業では、法人化を通じた外食産業化の方向が顕著にある一方で、他方には、依然として厖大な数の個人経営の店もあって、二つは異なる世界を形成しているようです。実際、産業化された外食チェーンの店で食事をすることと、ものの本にも紹介されるような小さな名店で食事をすることとは、食物の摂取という人間の動物的側面については同じでも、社会的文化的側面については全く異なるものです。
飲食業は、社交や旅行や遊興や寺社参詣といった人間の社会的文化的活動を背景に形成されてきたものでしょうから、社会変動とともに、そこから外食産業が分化していったからといって、伝統的飲食業の形態は大きく変わることなく、今日に至っているのです。一方、外食産業もまた、変化した家族生活や食生活などを背景にしたものですから、産業化にも社会的必然性があるのでしょう。
要は、伝統飲食業は、時代の変化とともに、法人化が進行して外食産業という大きな産業を創出したのですが、だからといって、伝統的古層の全体は崩壊することなく、無数といえるほどの個人経営が、食文化を支え、食文化に支えられながら、その総体としては活発に働き続けているのです。
農業についても、法人化と産業化に向かう部分と、自営農家の伝統を守る部分とに、分化していくということでしょうか。
私が強調したいのは、農業の法人化と産業化というとき、農業の全体が法人化と産業化に向かい自営農家が消滅するなどという極端なことを考えるべきではない、ということです。今の日本農業からは、時代の変化に合わせて法人化された農業産業が分化していくとしても、そこに時代を超えて変わらない社会的価値がある限り、伝統農業の形態は残り続けて独自の発展を続けていくのではないか、私は、そのように考えております。そのとき、法人化された外食産業と旧来の個人経営の飲食業が二つの異なる業となるように、法人化された農業産業と旧来の自営農家とは、異なる業になるのではないでしょうか。
こういうことをいうのは、実は、日本の農業の将来の可能性について法人化と産業化の方向を論じるのは結構なのですが、他方で、例えば、日本の農産物の高度な品質と知名度の価値については、おそらくは、産業化の方向性では発展させ得ないものではないかと思うからです。丁度、一流の料理屋の高度な技術の産業化が不可能であるばかりか不必要でもあり、どうかすると有害ですらあるように。
問題の立て方が、農業の法人化と産業化ではなくて、産業化と法人化に適した農業のあり方でなくてはならないということですね。
農業一般の法人化と産業化を論じることはできないと思うのですが、法人化と産業化に適した農業という表現でも、うまく論点をとらえることができないような気がします。どちらかといえば、農業分野における法人化と産業化に向かうべき外部的必然性について論じるべきではないかと思うのです。つまり、農業内部における法人化と産業化への適性ではなくて、農業外部から農業に対して働き掛けてくる法人化と産業化への誘因が問題だと思うのです。
農業が、社会構造の大きな変動にもかかわらず、自営農家中心の古い姿を守り続けているとしたら、それは、外部から働きかける力がなかったのか、力は働いたが規制等によって阻止されたのか、農業に内在する特質が変革への誘因を生まなかったのか、何らかの理由がなくてはならないでしょう。変わるべき必然性のないものが変わらなくとも、別に問題とすべきことではない。
ところで、農業の外へ目を向けるならば、つい最近まで、個人経営の八百屋、魚屋、肉屋、本屋、酒屋、米屋などで買い物をするのが普通の生活でした。今では買い物の中心は、大きなスーパーマーケット、コンビニ、インターネット通販などに移行していますから、こういう個人商店は数が激減しました。
地方の町は、旧市街に多数の個人商店が集まっていたものですが、郊外に大きな道路ができて、その沿線に大規模店舗が建設されるにしたがい、旧市街は廃業に追い込まれた店が並ぶシャッター通りになってしまいました。こういう現実が、社会の進歩であるのか、経済の成長であるのか、よくわかりませんが、社会構造が変わり生活様式が変われば、避け難く生じる構造変化ではあるのです。もちろん、政策的には、個人商店を保護して旧市街を守ることもできたのですが、現実の政治は、積極的な道路建設と、規制緩和の名のもとに大企業の参入を容易にする施策を展開してきたのですから、商品流通市場における巨大法人化と産業化は、必然的帰結であったわけです。
さて、農業については、流通市場におけるような大きな外部環境の変化があったのか、外部の変化はあったのだけれども、規制等によって農業内部の変化は阻止されてきたのか、規制等がなくとも農業の本質として内部的に変化する誘因が存在しなかったのか、さて、どうなのでしょうか。
外部変化は顕著ですね。街の野菜屋がほぼ完全に消滅しているのをみても明らかです。
今では、農作物の大きな買い手は、外食産業であり流通業です。そこには多数の大企業がひしめいています。顕著な変化ですね。需要側の大きな変化が供給側に影響を与えないはずはないと思われます。それなのに大きな変化がないとしたら、規制等の要因か、農業の内部構造の問題があるのです。
この点については、おそらくは、規制等の要因も大きいのでしょうが、農業の内部構造としての農業協同組合が重要な働きをしているのでしょう。自営農家は、極端に零細な生産者ですから、外食や流通の巨大資本と対等に取引できるはずもなく、規制と農協がなければ、とうに淘汰されて、大規模法人化が進行しているか、外食産業や流通業や食品加工業の傘下に統合されていたはずです。
しかし、農協は、巨大な卸売商社ですから、大企業の購買者と対等の取引ができています。零細な自営農家は、集団として行動する限り、零細な個人経営ではなくて、実は、巨大な産業資本と同等な力をもっているのです。つまり、農業は、既に、法人化され産業化されているのです。ただし、農協という非常に特殊な形態を通じて法人化され産業化されたにすぎません。
では、なぜ、今さら改めて、農業の法人化と産業化が問題となるのでしょうか。
理屈上、農協とは異なる法人化と産業化の仕組みが求められている、ということになるようですね。しかし、なぜ、農協ではいけないのでしょうね。ここで、農協の現状を批判するのは簡単なのかもしれませんが、しかし、いかに批判しようとも、事実として農協の力が大きいことは否定できないのではないでしょうか。
おそらく、農協に替わる法人化と産業化の仕組みとして想定されているのは、自営農家の解体だと思われますが、農協は、自営農家の協同組合組織として、自営農家を守るために工夫された特異な法人化の仕組みです。要は、生産の独立自営と流通の法人化を矛盾なく統合したものなのです。おそらくは、だからこそ今日に至るも強い組織力を維持しているのではないでしょうか。
ここには、二つの極端な見方が可能なようです。第一に、農協の存在が零細な自営農家を過保護にしてきたので、生産現場における法人化と産業化による効率化が阻まれ、日本農業の衰退を招いた、という否定的見解(一般的には、これが主流の見方なのでしょうか)と、第二に、農協の存在が、法人化と産業化による均質化を防ぎ、多種多様な零細な自営農家の独自の工夫を促進してきたので、日本農業の高度な品質をもたらしている、という肯定的見解です。
さて、実際は、どうなのでしょうね、よく分かりませんね。ただ、私の思考様式からいえば、いかに批判されようとも、農協が現に大きな力をもち続けているのならば、それには農協を支える農業内部の本質的要因があるはずですから、それを明らかにしておかないといけないということになります。そうしないと、農協を変革させることも、農協に替わる法人化と産業化の仕組みを作ることも、日本の農業を発展させることもできないのではないかと思われるのです。
農協を支える農業内部の本質的要因として、何が考えられるでしょうか。
ここで冒頭の議論に戻るのですが、農業には本質的に法人化と産業化になじまない部分があるのであろうということです。弁護士も今では法人を作れるのですが、法人化しても弁護士が個人の資格であり弁護士業が個人の業であることに変わりありません。この法人は協同組合みたいなものです。監査法人もそうですね。要は、農協と仕組みは一緒です。農業に本質的に自営業であるべき必然性があるのならば、農協が一番適切な法人化と産業化の仕組みです。
さて、ここが、重要なところですね。実のところ、私は、農作物の品質については、料理屋の味と同じ面があって、一流の料理屋を外食産業化できないように、農業生産にも、自営農家であるべき理由があるのではないのかと考えているのです。
他方で、加工食品用の原料を生産する農業において、自営農家である必然性は乏しいとも思われます。むしろ、大規模な法人化と工業の品質管理技法を取り入れた徹底した産業化と効率化が求められているのかもしれません。こういう分野での農業生産における法人化と産業化は甚だ理にかなっているようですし、そこに農協が介在する理由も乏しそうです。
また、一流の料理屋にとって、協同組合を作って共同仕入れや共同営業活動をしたりしなければならない理由はないでしょう。真に競争力があり付加価値の高い農作物の生産者にとって、農協に属することに利益はないかもしれません。事実、そうした生産者には、農協を離脱している人も多いようです。
しかしながら、一流の料理屋といえども、今どきは、ミシュランや食べログなどの存在を無視できないでしょう。農協を離れた一流の農業生産者にとっても、インターネットや直販ルートなどの新しい仕組みは必要です。事実、そうした分野には多くの企業が参入しています。これも、自営農家を自営農家のままで法人化して産業化する新しい仕組みであり、農協にとってかわるものです。
この二つの中間に、即ち、加工用の原料生産のような大規模な法人化と産業化と、高度に職人的な自営農業のあり方との間に、普通の農業があるのでしょうが、そこでの問題の鍵は、おそらくは、質と量の微妙な均衡でしょう。なにしろ、購買側が大規模化しているのですから、供給側も均質化したものを大量に供給しなければなりません。そこに、卸売商社としての農協の機能があるのでしょうが、さて、その機能が十分に果たされているのかどうか。
単純に図式化してしまいましょうか。徹底した質へのこだわりは量を制限し、そこでは伝統的な自営農家を基本とした流通面における何らかの産業化の仕組みが工夫されるのでしょう。一方、加工用原料の生産のように工業的に量が規定されてしまえば、質の定義は工業的なものに転換され、生産における産業化は避けられないでしょう。
ところが、その中間には、例えば、食品スーパーに並ぶ大量の形と大きさの揃ったキュウリのようなものが多種類あるのでしょうが、そこでの質と量の均衡の問題は、いかにも難しそうです。多くの農作物は供給量が大きく季節変動しますし、自然条件により質も変化します。そもそも、質を何で定義するのかもわかりにくい。曲がったキュウリは有名な難問です。ですから、この領域での法人化と産業化については、単純な図式化はできません。ただし、どうみても現状には改善と改革の余地が多そうだなとは感じます。
ここで農協の批判をしても、少しも生産的ではありません。単純な図式化ができないからこそ、地道な実践が必要なのです。私の今の見通しとしては、質と量の微妙な均衡は、自営農家の存在と法人化を通じた産業化との間の微妙な均衡につながるのであって、単なる大規模法人化では答えは出ないのでしょうし、農協や自営農家の解体衰退につながるとも限らないのでしょう。いずれにしても、農協の内と外の両方に、大きな変革が必要なのでしょうね。
以上
次回更新は10月18日(木)になります。
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森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。