企業は誰のものか

企業は誰のものか

森本紀行
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企業は誰のものか、これは、企業統治論の核心の問いですね。常識的な答えは、企業は株主のものである、ということでしょうか、それとも、全ステークホルダーのものである、というあたりが無難でしょうか。あるいは、そもそも、企業は誰のものかなどと問うことが不毛なのか。


 所有権の問題は、私の長年の哲学的関心の対象です。現代の経済体制の形成には、近代社会における私的所有権の確立が不可欠だったわけで、現代資本主義体制の再検討のためにも、改めて所有とは何かを考えることは重要であると思っております。
 ということで、企業は誰のものかという問いについては、企業が誰かのものでなければならないと考える思考の構造、所有という概念を中軸に据えた思考の構造、まさに現代資本主義の思想の原点を先に検討しておくことが必要でしょう。


確かに、企業は誰のものかと問いたくなる動機自体が問題ですね。

 企業は誰のものかと問う動機は、やはり、企業統治論を展開したいからではないですか。おそらくは、企業統治論というのは、企業は誰のものかという問いに答えるものではなくて、企業は誰のものかと問う背景の事情を検討することなのだと思われます。
 企業は誰のものかという問いは、暗に、企業は株主のものであるとの前提で企業統治がなされるべきだといいたいのか、あるいは、逆に、企業は本当に株主のものなのだろうかという企業統治論の再構成を仄めかすのか、その両極ではないでしょうか。そして、現実的には、その両極の間に、実際の企業統治のあり方を探すことになっているのではないでしょうか。
 

要は、企業は株主のものであるとの見解を軸に、その周りに展開する批判的な検討の集積が、企業統治論を形成しているということですね。では、企業は株主のものかという検討から始めましょうか。
 
 企業が株主のものであるとは、一体、どういう意味でしょうか。株主が企業を所有していて、経営を専門家に委任しているという古典的な所有と経営の分離の延長にある話でしょうか。では、そこでいう所有とは、どういう意味か。
 所有とは、ものに関する完全に排他的で無制限な支配権のことだとしたら、株主が企業を所有しているとは到底いい得ないでしょう。株主の企業に対する支配力など、多くの制限のもとでの極めて不完全なものでしかあり得ないからです。もしも、企業統治論が現状の不完全な株主の所有権の強化を求めるものだとしても、完全な支配権という所有権の主張にはなり得ないでしょうし、また、そもそも、ものではない企業に所有なる概念が当てはまるものかどうかも疑問です。
 

株主の企業に対する支配力が極めて不完全なものでしかあり得ないとは、どういう意味でしょうか。
 
 株主の権利とは、株主総会における議決権(および、それに関連した提案権など)、配当を受け取る権利、清算時に残余財産の分配を受ける権利、この三つだけです。
 しかも、議決権など、圧倒的な大株主でもなければ意味がありませんし、配当についても、配当をするかしないかの決定から金額の決定まで、経営者の裁量に委ねられている以上、株主の権利は受動的なものにすぎません。残余財産分配権に至っては、このような権利が顕在化する状況においては、多くの場合、株主の経済的利益が大きく損なわれているときに違いないのです。
 さて、このように、株主の権利とはいっても、いかにも弱い権利です。このような弱い権利にすぎないものが経済的価値、即ち投資価値をもつとしたら、それは、どういう場合か、これが私の長年の研究課題なのです。当然ですが、このような株主の弱い立場からするとき、株主の企業に対する支配力など、極めて不完全というよりも、むしろ、ほとんどないといってもいいのではないでしょうか。
 

企業には多くの利害関係者(ステークホルダー)がいますが、株主の地位は、そのなかで一番低いということですね。
 
 取引先や従業員などは、契約によって、明確に権利が守られています。金融関係の利害関係者についても、債権者の地位は厚く守られていますが、株主の地位は債権者の地位に劣後しています。先ほどの私の問題意識を別のいい方で表現すれば、融資や社債における債権者の地位に劣後する株式について、どうしたら投資価値が生まれるのであろうか、となります。
 

所有権という強力な権利の意味からすれば、権利面で一番劣後する株主が企業を所有するなどというのは、論理的にあり得ないことですね。
 
 敢えて極端ないい方をすれば、株主の権利に帰属する自己資本部分とは、株主以外の全てのステークホルダーの利益を守るための万が一に備えた危険準備金にすぎないということです。そこで、くどいようですが、このような危険準備にすぎない株式が、どうしたら投資価値をもち得るのか、これが究極の問いとなるのです。企業は誰のものかと問うことは、結局は、この究極の問いの形を変えたものに他ならないのだと思われます。
 

企業は、株主以外のステークホルダーのものではなくて、株主を含んだ全てのステークホルダーのものであるという主張が、原点にあるということですね。
 
 最も劣後する権利だからといって、全く保護されないでいいということにはなりません。むしろ逆でしょう、最も劣後するがゆえにこそ、一定の保護が必要であるということです。これは当然のことです。なぜなら、株主は、利益の分配においては最後であるにもかかわらず、損失の負担においては最初だからです。これが、株主が最劣後することの意味です。
 つまり、株主は、株主の上にいる全てのステークホルダーに対して、一種の保険を提供しているのですから、一定の対価を請求できる、つまり、一定の権利の制限を主張できる、という株主の立場に立った立論もあり得るわけです。おそらくは、この視点が、株主を軸に据えた企業統治論の核心であろうと思われます。
 

そうしますと、企業統治論は、株主を含んだ全てのステークホルダーの間の利益の公正公平な均衡が目的になってきますね。
 
 要は、株主には、危険負担に見合った適正な利益が確保されなければならない、ということに企業統治論は帰着するのではないでしょうか。このことは同時に、株主以外の他のステークホルダーについても、権利の保証の厚さの程度に応じた適正な利益が確保されなければならないということでもあるでしょう。
 このことを普通のいい方(つまり片仮名を使って、ということ)で表現すれば、ハイリスク、ハイリターンの関係の適正性が守られなければならないということです。株主は、最劣後の地位に甘んじている、つまり一番大きな危険(リスク)を負担しているのですから、一番大きな利益(リターン)が結果的に帰属するのでなければ、不公平です。企業の経営者は、このことを正しく認識した上で、利益の均衡を図るべく経営しなければならない、これに企業統治論は帰着するではないかと思うのです。
 

一番大きな利益(リターン)が株主に帰属すべき、という主張の形を変えたものが、企業は株主のもの、という主張ですか。
 
 株主の危険負担と利益享受との関係については、理念的には、次のように考えられているのではないでしょうか。
 株主が資本を拠出する、株主から経営を委任された経営者は、その資本を稼働させるために、販売先・仕入れ先などの取引先、従業員、債権者などの様々な利害関係者と契約を結ぶ、この契約相手方がステークホルダーである、経営の目的は、ステークホルダーとの関係の適正性を期すことで、結果的に、株主利益の最大化が図られるようにすることである、一方、経営の継続のためには、ステークホルダーとの契約の履行は絶対要件だから、その利益を守るために損失は株主の負担のもとに吸収する、株主の負担限界を超えたときが事業破綻である、これが資本の論理である、企業統治とは、この資本の論理の貫徹である。
 結局、企業統治論では、企業の原点が株主による資本の拠出に置かれるわけで、経営者も、他のステークホルダーも、その資本の稼働のために動員される補助者であるわけです。このことを端的に表現すれば、企業は株主のもの、ということになるのでしょう。
 

資本は主役でしょうか。資本は、稼働させてこそ、利潤を生むわけでしょう。ならば、主役は、資本を稼働させるステークホルダーではないでしょうか。
 
 資本を非人格的なお金と考え、危険負担と利益との適正な均衡に基づく資本利潤が還元できてさえいれば、企業経営は株主から独立したものとして運営できる、つまり企業は全ステークホルダーのものということも可能であり、あるいは、より狭く、経営者と従業員のものということすら可能である、これは、私など、強く惹かれる議論です。
 要は、資本に対して適正な資本利潤の還元ができているかどうかにかかっているのです。それができている限り、企業は経営者と従業員のものだといっても、株主は文句をいえない。資本利潤の還元を受けていないと感じる株主は、当然に文句をいう、企業は経営者と従業員のものではないと、それが、企業は株主のものだという主張になる。
 

株主からすると、適正な資本利潤の還元ではなくて、資本利潤の最大化を要求したいのかもしれませんね。
 
 とうとう最後に、企業統治論の核心に到達しましたね。資本の論理は、資本利潤の最大化を求めるのか。それとも、資本は、合理的な適正利潤で満足すべきなのか。結局、企業は誰のものかという問いは、株主のものだという極と、全ステークホルダーのものだという極と、その両極の間に収まるのでしょうが、そのことを別のいい方で表現すれば、資本利潤の最大化が企業の目的か、資本利潤の社会的適正化を目指すのが企業の目的か、この二極の間に企業統治論が収束するのと同じなのです。
 ここに、正解などないでしょう。あるのは、哲学のみ。
 ただ、一ついえることは、時間軸の導入によって、最大化という概念も大きく動くということです。短期的な最大化は、長期的な最大化にはならないかもしれません。実際、多くの場合、ならないでしょう。一方、適正利潤は、社会的に合理化されたものでしょうから、反復継続性を期待できる。ゆえに、短期的には利潤率が低いようにみえても、長期的には安定した高い利潤率を確保できるかもしれないのです。
 
以上

 
 次回更新は5月23日(木)になります。
≪アーカイブから今回に関連した論考≫
2013/05/09掲載「企業の資金調達の目的と企業統治論
2013/04/04掲載「「株には手を出すな!」の発想からの株式投資
2011/12/15掲載「オリンパスが好きです
2011/11/24掲載「オリンパス問題の深層

≪アーカイブから今週のお奨めは「文学と投資」≫
2010/09/30掲載「「三貫文は、世にとどまりて、人のまわり持ち」的な経済理論
2010/09/09掲載「「清兵衛と瓢箪」的な価格騰貴と価値創出
2010/09/02掲載「「二銭銅貨」的な悔やみと社会的責任
2010/08/19掲載「「古池や蛙飛び込む」的な市場理解について
2010/08/12掲載「お金は眠らない
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。