借換えで債務を弁済することは本当に弁済なのか

借換えで債務を弁済することは本当に弁済なのか

森本紀行
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金融の世界の有名な難問が、資本性の融資です。資本性の融資というのは、銀行等が連続的な借換えに応じることで、事実上、半永久的な貸付けも同然と化した融資のことです。これは、期日における確実な回収という融資の基本中の基本から、逸脱しているのではないのか。今回は、この難問をとり上げるのですね。

 
 永久債という債券があるのですけれども、これは永久に償還をしない債券ですから、そもそも発行体にとっての負債なのかという、哲学的な問題があります。つまり。負債という概念には、弁済という行為を内包しているのではないかと思われるのですが、永久に償還しないということは、永久に弁済しないということで、要は、弁済しないということですから、これはもう、負債ではないのではないか。
 負債でなければ資本だろうというわけで、永久債は、資本性のある債券ということになります。資本性のある債券を、債務性のある資本といっても、実質的な金融機能としての性格は変わらないでしょう。固定配当を払う出資証券と償還しない債券とは、金融機能的には、大差ないからです。
 要は、純然たる債務性と純然たる資本性との中間には、いくらでも連続的に色の変わる合成物を作れるのです。この中間のことを、資本を建物の一階に、債務を二階に喩えたうえで、中二階という意味のメザニンと呼ぶのです。
 さて、融資については、永久融資というのを聞いたことがありません。永久債は債券であって、債券とは、特別な手続きを要せずして随時に譲渡可能な債権(融資)のことなので、債権者は、債券売却によって、いつでも債務者との関係を断ち切れるのに対して、普通の融資の場合は、譲渡を前提としないが故に、さすがに債権者と債務者との間の関係について、永久はあり得ないだろうというわけで、永久融資はないのだと思われます。
 しかし、仮に永久融資というものがあるのならば、それは、明らかに純然たる融資とはいえず、資本性の融資とせざるを得ません。つまり、融資ではなくて、メザニンです。では、有期の融資を連続的借換えによって事実上永久化した場合において、それがメザニンかというと、融資が弁済されて新たな融資が実行されることの連続である限り、メザニンではなくて、純然たる融資というほかない。つまり、弁済という行為を介在させる限りは、資本性の融資ではないと思われます。
 

連続的な借換えにおいて、弁済という行為はあるのでしょうか。あるとしても、形式だけではないでしょうか。
 
 最高度に金融の機微にわたる論点です。結局、資本性融資の問題は、金融機関に対する検査等との関連で問題になることであって、表面的には完全な正常債権であるようにみえるものの実態の精査に踏み込んだときに、実質的にメザニンではないのか、更には実質的に不良債権ではないのか、といった疑念を生じやすいのが、この資本性の融資と呼ばれるものであるわけです。
 結論から先にいえば、要は、金融規律の問題であると思われます。金融規律を支えるのは、事実としての現金の力です。現金による決済は、金融規律の問題を超えて、より広く、商取引の規律を支える極めて重要なものだと思います。
 例えば、差金決済の問題があります。買ったものを同じ日付で転売して差益を得る場合、差金だけを決済すれば便利ですが、そのようなことを安易に認めれば、小さな元手での投機的取引の横行を招き、商業規律の弛緩を招きかねない。故に、買い付け代金と売り付け代金は、それぞれ独立に決済すべきなのです。つまり、買い手に対して、買い付けるだけの資金を用意することを求めることで、取引の規律と安全性を維持しているのです。
 ところが、特殊な場合として、市場の流動性を豊富にするために、投機資金の呼び込みが必要なときもあります。先物市場や信用取引が、そのいい例です。ですから、先物市場では、差金決済がなされるのです。つまり、投機のためには、差金決済が望ましいが、正常な取引では、差金決済は認め難いのです。これが取引にかかわる金融規律です。
 同様に、融資契約書を書き換えるだけで弁済と新規融資の実行を擬制するならば、それは、弁済と新規融資の差金決済であって、融資の本旨として、あるいは金融規律の問題として、認め難いということです。弁済というのは、現金が債務者から債権者へ移動しなければならず、新規融資というのは、現金が債権者から債務者へ移動しなければならないのです。
 

金利もそうですよね。金利は現金で支払われるべきで、元本に加えてはいけない。
 
 現金による金利の支払いこそ、金融規律の基本です。実は、先ほどの永久債も、それが債券であるためには、定期的な金利の確実な支払いが必須要件になっているのです。
 では、金利を元本に加えていって、満期時に元利一括弁済することは、絶対にないかというと、そうでもないでしょう。例えば、リバースモーゲージは、担保資産の売却による弁済を前提にしている特殊な住宅融資ですが、これが、債務者の弁済能力ではなくて、担保資産の弁済能力を基礎にした融資である以上、期中に現金による利息の支払いを行わず、満期時に元利合計を一括弁済することにしても、融資の性格上、おかしなことはないでしょう。
 しかし、債務者の弁済能力を基礎とする通常の融資においては、定期的な金利の支払いこそが債務者の弁済能力の定期的な確認である以上、金融規律の維持のためにも、現金による金利支払いは、絶対要件になるのです。
 

金融規律の維持と融資条件の変更の可否とは、難しい関係にありますね。
 
 いわゆる「円滑化法(中小企業者等に対する金融の円滑化を図るための臨時措置に関する法律)」は、銀行等に対して、債務者の弁済能力に応じた融資条件の変更を求めたものです。積極的な条件変更を法律で努力目標として規定することについては、金融規律を崩壊させる可能性があることから、反対が多かったのですが、民主党政権下、かの亀井静香先生のご主張で、強行されたのです。
 融資契約の書き換えによって弁済と新規融資の実行を擬制するだけならば、実質的な弁済がない以上、融資は資本性融資に転化するはずです。ましてや、弁済期日に弁済がなければ債務不履行になるところ、期日を変更することで、債務不履行を回避したときには、その条件変更によって、融資の不良債権化は避け得ないはずです。ところが、「円滑化法」のもとでは、法律が条件変更を積極的に推奨する以上、弁済期日を先送りにしたとしても、不良債権化は起きない。さて、このようなことでは、金融規律を維持できるはずもない。
 「円滑化法」も、この3月に、時限立法の期限が切れてなくなりました。さて、巨額に累積した条件変更債権のうち、どれだけが不良債権化するのか、その処理をどうするのか、困った問題です。もっとも、法律がなくなっても、金融規制当局は、法律の趣旨に沿った運用の継続を求めているようです。さても、この国の法治国家として仕組みの怪しさは、いったい、どう受け止めたらいいのか。
 

一般に資本性の融資と呼ばれるものについて、金融規律がきちんと維持されている限りは、資本性の融資ではなくて、立派な正常な融資であるということですね。
 
 現金で利息が支払われ、現金で期日に弁済がなされ、同時に、借換えとして、新規の融資が実行されているときに、その借換えが長期連続的に行われているとしても、期日到来ごとに債務者の弁済能力が確認されている以上、資本性の融資などではなく、立派な正常債権であることについて、疑義を差し挟む余地はありません。
 他方で、利息の支払いがなされているとはいえ、弁済期日の到来については、明らかに融資契約書の書き換えにすぎない方法で、再融資が実行されている事案については、不良債権ではないかもしれませんが、資本性の融資として、あるいは条件変更債権として、銀行等の経営管理上、別な枠に括る必要があるのではないでしょうか。
 ところが、難しいのは、境目が明瞭でないことです。例えば、厳格に債務者の弁済能力の再審査を実行したうえで、債務者の資金繰りの負荷を避けるために、表面的には、融資契約書の書き換えにすぎないような手続きにした場合においては、これは立派な正常債権ではないでしょうか。要は、境目を決するのは、銀行等の経営の良識です。
 同様に、融資条件の変更が直ちに不良債権化を意味しないことは、「円滑化法」で定めるまでもなく、明らかですが、他方で、条件変更債権のなかには、不良債権に分類せざるを得ないものが含まれ得ることもまた、「円滑化法」にもかかわらず、明らかです。識別の基準は、銀行等の経営の良識において、即ち金融規律の厳格な適用において、明瞭である、あるいは明瞭であるべきだ、といわざるを得ない。まかり間違っても、「円滑化法」によって明瞭であるということではない。
 

資本性の融資と呼ばれるものについては、借換えに応じないという金融規律も重要ですね。
 
 連続的な借換えにおいて、純然たる正常債権たり得るためには、弁済の事実だけでなく、新規融資の実行における再審査の存在も不可欠です。借換えが最初から前提とされているようでは、健全な正常債権ではなく、明らかに資本性の融資ですし、そのようなことでは、時間の経過とともに、不良債権化の危険もでてくるでしょう。
 

ところで、日本の国債ですが、事実上、借換債の発行による償還が前提になっていますが、国債を発行する財務省と、国債を購入する金融機関等の投資家との間に、金融規律は働いているのでしょうか。
 
 国債については、日本の場合は極端ですが、程度の差こそあれ、どの国でも、半永久的に巨額な発行残高を維持することにならざるを得ない。ですから、資本性のある永久債の発行にも、特に違和感を覚えない。
 日本の場合、満期の到来した国債は、確かに現金で償還しているのですから、弁済の事実は明らかですが、連続的な借換債の発行によって、半永久的な債務と化していて、さらには、その借換債の発行も、事実上、最初から前提にされている以上、資本性の債券とみるべきではないでしょうか。
 資本性が強いからといって、日本国債が不良債権であるわけではない。日本国債が、残高等の静態的な指標においては、極端に内容が悪いにもかかわらず、それなりの格付けを維持し、極端な低利に留まっていられるのは、実は、借換債の発行が何らの支障なく順調に推移しており、将来的にも推移し得るとの見通しがあるからです。もしも、日本国債の不良化があり得るとして、その境目を決するのは、借換債の発行における金融規律の働きに帰着するのではないでしょうか。
 さて、借換債の発行は、何故に順調なのか。それは、発行体の財務省と投資家との間の金融規律によって順調なのか。それとも、両者間の馴れ合い、癒着、漫然たる慣習と化した関係によって、そうなのか。借換債の発行が突如として不調になったら何が起きるのか。不調に陥る原因は何か。より根源的に、国債に資本性があるとして、では、日本国の資本とは何か。これらの問題は、難しすぎる、あるいは機微にわたりすぎるので、これ以上の詮索は止めときましょう。
≪アーカイブから今回に関連した論考≫
2012/11/08掲載「貸せない先に貸してこその銀行
2010/06/10掲載「国債と通貨と金
2009/11/05掲載「日本の国債の投資価値
2009/10/22掲載「不良債権は「不良」ではない

≪アーカイブから今週のお奨めは「不安なときの投資」≫
2010/06/24掲載「語り得ない不安と投資の保守主義
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。