人材の不良債権化

人材の不良債権化

森本紀行
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企業の人材処遇においては、どうしても貢献への期待に対する処遇という要素をなくすことができません。そうすると、期待外れといいますか、企業の立場からみたとき、期待貢献ほどには実際貢献を実現できていない人材というものができてしまいます。そのような場合を、比喩的に、人材の不良債権化といっているのですね。
 
 報酬は事前に決めるしかなく、成果は事後にしか判明しません。その限り、報酬とは、成果への期待、実際貢献への期待に基づいてしか決め得ないのです。あるいは、過去の実績に基づいて決めるにしても、それは、過去の実績の再現を期待してのことですから、やはり、期待への報酬であることに変わりはありません。
 ですから、事後的には、どうしても、期待と実績との差ができてしまう。どのくらいの時間軸で調整するかという難問はあるにしても、この差は調整されなくてはなりません。実績が期待を上回ろうが、下回ろうが、どちらにしても調整されなくてはいけません。そうでなければ、人事制度の公正公平性が保てず、最終的には組織統制の崩壊を招くことにもなるでしょう。ここは、人事制度の要諦であるわけです。
 

実績が期待を上回っているときは、それほど難しくはないですね。賞与等で対応すればいいのですから。問題は、実績が期待を下回っているときですね。
 
 一番簡単な方法というのは、固定給与を小さくしておいて、成果に応じた歩合給や賞与を支払うものです。実際に、保険の営業職員等の処遇制度にみられるもので、保険に限らず、多くの歩合的な営業職に、広く普及しているものだと思われます。
 このような制度では、期待への報酬という先払い的要素が最低限に切り詰められていて、一期間(多くは1年でしょう)のなかの事後的な実績に基づいて、その間の成果に見合った報酬を支払うわけですから、いわば一期清算型の完全な今払い報酬を実現しているのです。故に、期待外れは起きません。
 しかしながら、このような制度は、完全な個人責任のもとの行動と業績に基づき、かつ成果の評価も販売額等によって客観的に定量化できるからこそ成り立つもので、組織内での協働や、その協働を通じた人材の成長(あるいは組織の立場からいえば人材育成)、また組織内貢献の評価の仕組み等を考慮するときには、一般的な適用には限界があります。やはり、このような特殊な場合を除けば、完全に期待的要素を取り除くことは難しいのです。
 ただし、従来の古典日本型の報酬体系(高度経済成長から安定成長へ移行した昭和50年代に一般的に普及していた制度)では、期待要素が強すぎて、事後的な調整に不便であったのも事実でしょうから、現在では、明らかな方向として、期待給的要素を引き下げて、実績に基づく賞与の比重を高める、あるいは、給与体系のなかに成果給的要素を入れて、その部分の引き下げを含む弾力的な運営ができるようにするなど、様々な工夫がなされるようになっているのでしょう。
 

報酬について、期待的要素を完全には払拭できないとしたら、実績が期待を下回った場合の対応は、常に重要な人事の課題として、残るわけですね。
 
 従来の日本型の報酬体系では、結局のところ、実績が期待に追いつくまでの時間を非常に長くとっていたのでしょうね。実績が追いつかない人は、当然のことながら昇格が遅れてきて、それでも実績が伴わなければ、昇格が見送られて低い資格で滞留し、そのまま定年になってしまうこともあったのでしょう。昇格と昇給は連動するのですから、このような昇格の運用によって、しかも、定年までという長い時間のなかで、貢献と報酬の調整の問題を解決しようとしてきたのです。
 実際には、定年までの長い時間のなかでは、経験による習熟や熟練もないわけではなく、ある程度の規模の企業であれば、職務も多様ですから、まさに適材適所の考え方で、適性と能力と過去の行動様式や実績に見合うように、資格と職務を用意できる場合が多かったと考えられます。こうした方法により、貢献と報酬を均衡させるように工夫することで、日本型の制度も、それなりに機能していたのです。今からみれば、人に甘く、生温いように感じられるかもしれませんが。
 ただし、このような日本型の人事制度の運用は、昭和の時代までは、絶対的な人員数を維持することも可能だったからこそ機能し得たのも事実で、平成になれば、企業(あるいは企業の株主)の立場からは、雇用優先の考え方ではないのか、人件費合理化の余地が大きいのではないのか、といった批判が当然のように起きてきます。つまり、制度の仕組みの見直しが、単なる仕組みの問題だけでなく、絶対的な雇用量の調整とも連関して浮上してきたのです。「リストラ」ということが、異常事態における対応というよりも、日常茶飯の常態と化してきた感さえあります。
 それでも、当初は、雇用量の削減は必ずしも容易ではないので、総人件費管理の考え方のなかで、実績に応じた報酬格差を大きくする方向、即ち、成果の高い人を処遇する原資を、そうでない人の処遇を削減することで捻出する方向へと、程度の差こそあれ、多くの日本企業で制度改革がなされはじめたのです。いわゆる成果主義への流れです。
 その上でなお、雇用量の維持について困難と考える企業が増えてきたのも事実で、そうなると、「リストラ」が常態化してきます。常態化すれば、異常事態における制度外の処置としてではなくて、一つの仕組みとして人事制度に取り込むことになります。人が辞めやすい(辞めさせやすい)制度への移行です。
 

人を採用し、育成し、幹部に登用するのが人事の課題であることは、いつでもどこでも変わらないことでしょうが、力点を、優秀な人の登用に置くか、そうでない人の削減に置くかは、本質的な差ですね。
 
 人事は、三つのRが課題なのです。第一のRは、Recruit、即ち、引き寄せ(採用)、第二のRは、Retain、即ち、引き止め、そして第三のRが、Release、即ち、引き離し(退職)です。もっとも、最後のRは、普通は、Retireというところですが、定年退職や自己都合退職の意味合いだけでなく、企業の立場からする人員削減の意味も込めて、Releaseにしてあります。
 人事の課題を一言でいえば、優秀な人材(幹部候補生)を引き付け(採用し)、そのなかから幹部を登用して引き止め(辞めないようにし)、剰余となった人材を引き離す(辞めてもらう)、これに尽きます。もっとも、こういう表現は、直截的にすぎて、企業の視点で人を商品のように扱う感じで、聞こえは良くないですが、表現を直しても主旨は変わりようがありません。
 さて、企業にとって、この三つのRの全てが永遠の難問なのですが、企業の置かれた環境により、経営判断として、どれかに最重点課題としての力点を置かざるを得ないことは自明です。日本では、経済成長期には、採用という第一のRが最大の課題であり、次いで人材の育成と登用という第二のRが重要だったのです。第三のRは、組織に余裕があり、どの人にも人事異動により何らかの適任の職務を用意できる限り、大きな問題ではなかったのです。
 それが、第三のR、即ち、人材を減らす、中核人材以外は辞めてもらうという課題が一気に浮上してくれば、これは確かに革命的なことなのです。制度というものは、人事に限らず、一度確立し長年にわたり定着しているものを変えるのは容易ではない。故に、革命的な破壊と再構築にならざるを得ない場合が多いのです。
 

しかし、「リストラ」といい、あるいは、人材の不良債権化といえば、負の価値、破壊的側面ばかりが前面に出てしまって、その後に来るべき正の価値、創造的な側面は、見えなくなるようですね。
 
 私は、第三のRを重視するあまり、第一と第二のRへの配慮、特に第二のRへの配慮が欠けているのではないか、そのような懸念をもっています。つまり、人事戦略において、短期的な経営課題を追うあまり、長期的な成長戦略が疎かになっているのではないかと懸念しているのです。
 日本産業の置かれた厳しい現実として、人員削減をめぐる産業界の対応は、よくわかります。しかしながら、では、どのようにして苦境から脱却するのかといえば、やはり、当然のことながら、人の働きによるほかないでしょう。人の処遇というのは、人件費という費用でもありますが、人への投資という側面も否定できません。否定できないどころか、企業の成長を支えるものが投資対象としての人であることには、誰にも反対できないはずなのです。
 期待への処遇というのは、いうまでもなく、人の成長を前提にした、人への投資の反映です。企業は、期待に報酬を払う以上、投資損失を回避し、期待報酬部分を成果によって回収しようとするのが当然です。故に、人材の育成と登用が重要なのです。つまり、第二のRは、第三のRの重要性が増したとしても、何ら変わることなく、重要であり続けるのです。
 古典日本型の制度では、人は勤続とともに熟練により育っていくという楽天的思想もあったでしょうが、積極的に人材の育成に力を入れることで、投資回収を急ごうともしてきたのです。また、投資回収できていない段階で退職されても困るという事情があったが故に、長期勤続奨励(第二のR、即ち引き止めです)という傾向を強くもっていたのです。そして、その長期勤続奨励が、年金退職金制度の普及につながったのは、いうまでもありません。
 こうした古典日本型の制度が、現在もそのままで有効だとは、到底思えません。しかし、第二のRに重点を置いていたことは、少なくとも思想的には、正しいと思われるのです。もちろん、ほぼ全員を引き止めてしまう旧来の制度から、企業にとっての中核人材、選抜登用された人材に焦点を当てた引き止めの制度にするなど、技術的な改革は必要なのですが、人材の引き留めという根本思想自体は、変わりようがないはずです。
 例えば、成果主義的思想の普及と、「リストラ」の常態化に伴って、伝統的な引き止めの仕組みである年金退職金が不人気になってきたのは、もちろん偶然ではないのです。しかし、そこの改革が、一気に制度の廃止ということになっていいかどうかは、大いに疑問であるわけです。実は、私の一貫した主張は、企業の成長を軸に置いた人材戦略の視点から、年金退職金の存続を前提にしたうえで、抜本的な見直しを行うべきだというものなのです。
 

さて、処遇における期待要素を圧縮していくことは、処遇における投資的要素を圧縮していくことと同じですが、はたして、人材への投資なきところに企業の成長はあり得るのか、これが、本質的な問いになりますね。
 
 不良債権化した人材の扱い方について、「リストラ」や成果主義的な対応で対処するというのは、要は、不良債権の切り捨てというか、損失の償却なのです。それに対し、人材投資の考え方からいえば、あくまでも不良債権を債権として回収する努力を続ける、つまり人材を戦力化できるまで、昇給昇格のあり方を工夫し、人材の適正評価を工夫し、適材適所となるように人事異動を行い、教育育成に力を入れる、とにかく様々な積極的な働きかけを行うべきなのではないのか、これこそが、人事の王道ではないのか、ちょうど、不良債権であろうが、債権である限りは、債権を債権として回収するのが金融の王道であるように。
 もっとも、今では、金融の王道は廃れました。銀行は、不良債権を切り捨てるのみです。同様に、人事の王道も廃れるのか。そうならないことを祈ります。
 企業がもつ人材への期待と、その期待に応えようとする人材の成長意欲、これこそが、人材投資を支える基本哲学であり、人の成長こそが企業の成長の原動力であるという意味において、企業経営の基本哲学でなければならない。このことは、時代を通じて、環境変化を通じて、国境を超えて、不変でしょう。
 さて、「リストラ」で一時的に生き残ってもいいですが、人事制度改革において、その後の成長戦略への眼配りがなければ、人心崩壊し、常態化した「リストラ」の連続のなかで、企業統治も崩壊し、結局は、企業は消滅します。そうならないことを、願うのみです。
 
以上


 次回更新は7月25日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2013/07/11掲載「貢献と処遇、あるいは債務人材と資本人材
2013/07/04掲載「人的資本投資の理論

≪ アーカイブから今週のお奨めは「賭博と金融」  ≫
2013/04/18掲載「オプション取引は賭博か
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。