You Can Do Anythingという英語には、実は、私は、忘れ得ない思い出があります。日本語にすれば、何をしてもよい、でしょうが、私には、やはり、英語のままがいい。それで、敢えて、英語の混じった表題にしました。片仮名を使わない主義ですが、英語は片仮名ではないから、許されるでしょう。
私の若かりし頃、You Can Do Anythingと私にいってくれた会社があって、その言葉に惹かれて、新しい事業の開発に取り組むことに決意したのが、1989年の夏でした。いわゆるバブル経済の頂点、その先に、奈落の崖の底があろうとは誰も思っていなかった、あの平成元年です。この年は、昭和64年として始まったのです。昭和も遠くなりにけり。
履歴書には、翌年の1990年にワイアットへ入社し、年金基金向けの投資コンサルティング業を興したとありますね。
勤めていた会社に辞めると申し出たところが、当時のことですから、私のように辞めることなど例もなく、実際に辞めさせてもらえるまでに、実に半年近く要したのです。今では、考えられないことです。本当に、昭和は遠くなりました。
この1989年に、改正厚生年金保険法が成立し、厚生年金基金は、制度が発足してから初めて、資産運用の自由化へ向けて、小さな第一歩を踏み出しました。いまや、制度廃止の議論すらある厚生年金基金ですが、当時は、企業年金制度の代表的な受け皿だったのです。この改正法は、翌1990年4月1日の施行を待つ状態でした。
この改正法施行について、米国のコンサルティング会社であるワイアットは、企業年金の資産運用の自由化が投資コンサルティングに対する大きな需要を生み出すと考えました。故に、この時期に合わせて、日本での新規事業として、年金基金向けの投資コンサルティング業の開始を決定していたのです。そして、私は、その新規事業の立ち上げの責任者に選ばれたというわけです。
年金基金向けの投資コンサルティング業は、米国では、既に確立された大きな事業になっていましたが、ワイアットは後発であったので、規模的には、米国内での地位は下のほうでした。そこで、積極的に海外事業の開発に力を入れていて、グローバル展開を目指していました。かなり、先見の明があったと思います。事実、当時既に、香港で圧倒的に強かったほか、アジアでは広く展開していて、その戦略の一環として、未開の地であった日本への参入を目論んだのです。
その新規参入への戦略がYou Can Do Anythingであったのですね。
年金制度は、確かに、制度設計に使う年金数理の技術と資産運用の技術については、世界共通ですが、各国ごとに、異なる歴史、法律、規制、慣習などがあって、グローバル化の難しい分野です。故に、当時のワイアットには、徹底した現地主義の考え方があって、日本のことは日本の責任者に全てを任せるというのが参入戦略であったのです。その思想を端的に表現したのがYou Can Do Anythingです。
実際、私は、全く自由に事業の立ち上げを行うことができました。私は、今でも、その自由さが事業の成功の秘密であったと確信しています。完全な自由が保証されていなければ、成功はできなかった。このことに間違いはない。
You Can Do Anythingというのは、当時のワイアットの企業哲学でしょうか。
今では、ワイアットは他社と統合して、ワイアットという屋号も消滅していますが、同時に、古き時代の特色ある企業哲学も消滅したのだと思います。あるいは、特色ある企業哲学を失ったが故に、事業再編の波のなかに飲み込まれて消えたのかもしれません。
ワイアットの創業の原点は、年金数理の専門家(アクチュアリー)であったワイアット氏が同志を集めて行っていた勉強会だったようです。ワイアット氏は若くして亡くなられたのですが、残された同志の面々がパートナーシップを立ち上げました。それが、ザ・ワイアット・カンパニーの始まりです。終戦直後のことです。
その後、年金制度の普及拡大に伴い、ワイアットは成長していきます。成長の過程で、企業年金を中核として、関連した川上と川下の分野へ、多角化していきます。
一方で、企業年金制度は広く企業福利制度の一部であり、福利制度は企業内処遇制度の一部であり、それは更に企業人事制度の一部であり、人事制度は企業経営の要であるというように、経営上層へ向かって川上へ展開し、他方では、年金制度があれば年金資産があり、また事務管理があるというように、川下へも展開していきました。また横向きにも、年金数理と保険数理は重複するところから、保険事業への展開もあったのです。
当然ですが、米国は面積の大きな国ですから、全米の主要都市への地理的な拡大もありました。国際的には、先に述べたように、早くからアジアへ進出していました。これには、それなりの理由があって、企業年金を積み立てるという思想は、英語圏に広く普及したもので、英語を話さない国としては、日本は例外的な部類に属していたのです。故に、ヨーロッパや南米の事業は大きくなかったのです。
さて、こうした多方面への展開は、You Can Do Anythingの思想に基づいて行われていました。即ち、最初に時間をかけて事業開発の責任者を選び、後は、その責任者の自由に任せるのです。責任者の採用は、私のように社外に求める場合と、社内に求める場合があったのですが、原理は、常に、You Can Do Anythingだったのです。
You Can Do Anythingは、企業文化として、徹底していたということですか。
私は、ワイアットに入る前に、多くの人からYou Can Do Anythingといわれました。また、ワイアットの多数の拠点のうち、投資コンサルティング事業を行っていたのは、10もありませんでしたが、入った直後に、1か月かけて世界を一周し、その全ての事務所を訪問しました。そのときに、各事務所の投資コンサルティング事業の責任者に会って、じっくりと議論をしたわけですが、その全員がYou Can Do Anythingといっておりました。見事だなと感心したものです。
You Can Do Anythingということは、指揮命令系統がないということですか。
プロフェッショナル間の対等、「平らな組織(フラット・オーガニゼイション)」というのが、当時の企業文化です。当時、ワイアットの全職員の4分の1くらいがパートナー、即ち株主だったのですが、パートナーの大半が、いわゆる専門的技能をもったプロフェッショナルだったのです。このプロフェッショナルは全て対等というのが基本でした。私は、32歳の新入りだったわけですが、同じ部門の先輩と全く対等というわけです。
地域的には、各事務所に多くのパートナーがいて、そのなかから事務所の代表が選ばれており、また、事業部門横断的には、各事業分野に多くのパートナーがいて、そのなかから部門責任者が選ばれている、という仕組みです。これらの事務所や部門の責任者には、一定の権限があるのですが、いうなれば、強力な学級委員という程度のものだったわけです。
また、社長というのは、事務所や部門の責任者から選ばれていて、ワシントンに管理本部的機能を集約させていたのですが、社長がボストン事務所の代表から選ばれれば、その社長はボストンにとどまるというような、実に緩やかな組織だったのです。
You Can Do Anythingを徹底すると、甚だ属人的となり、企業としての統一性はなくなりますね。
実際、当時のワイアットは、分散拡散していて、全く統一性のない組織でした。米国内では、隣接する二つの事務所の間で同じ顧客を取り合うことすら、日常茶飯だったのです。投資コンサルティングだけをとってみても、事務所の数だけ異なるサービスがあるというのが実態でした。
こんなことでいいのかという反省は、当時まさに、社内のあちらこちらで始まろうとしていました。組織統一化へ向けた歴史的な転換の時期だったといえます。米国の戦後の黄金期は、実は、終わろうとしていたのです、ちょうど同じころ、日本においても、戦後の黄金期が急速に終わろうとしていたように。
私は、結局、13年の長きにわたり、日本における投資コンサルティング事業の責任者を務めましたが、その間に、ワイアットが急速に変化していくのを内部から観察することができました。その変化を象徴するのが、You Can Do Anythingの文化の急激な消滅です。
私は、You Can Do Anythingによって成功した最後の人間であり、最後まで、それにこだわりました。故に、最後の最後まで、You Can Do Anythingの理念のもと、既に顕著に陳腐化がしていた投資コンサルティング事業の外に、新しい事業を開発していきました。そして、ワイアットという環境が、私にとって、何らの意味ももたなくなったとき、このHCアセットマネジメントが生まれたのです。You Can Do Anythingではなく、I Can Do Anythingになったというわけですね。
ワイアットが何の意味ももたなくなったというのは、要は、ワイアットが創造の場としての意味を失ったということですね。
私は、一貫して、成長が新しい価値の創造である限り、企業の成長の原点は個人の次元にしかないということを主張しているのです。成長の芽は、組織には宿らない。それは、常に個人のなかに生まれる。その芽を育てるのが組織の機能です。成長する企業とは、個人の次元において成長の芽を生む確率を高くするような環境(多様性と個人の自律)のことであり、その芽を育てるための資源の供与の仕組み(いわゆる組織)のことであり、要は、その結合なのです。
古き時代のワイアットには、You Can Do Anythingの名のもとに、パートナーという個人の次元における多様性と自律があった。そして、「平らな組織」のなかで、パートナーは組織の基盤を自由に利用することができた。それが企業としての成長を支えた原理です。パートナーという個人が主役の企業体だったのです。
一方、1990年代以降のワイアットの経営の課題は、そのようにして多数のパートナーが歴史的に作り上げた多様な基盤を、企業の立場から整理再編して統一する方向に向かいます。企業が主役となって、パートナーが単なる従業員化していく過程です。そうなれば、新しいものを生み出すという意味での成長はなくなり、他社との統合による規模の拡大と、内部的な効率化による利益の成長しかなくなる。事実、ワイアットは、その道を選び、そして屋号は消えた。
そういう過程では、You Can Do Anythingのもとで創造的活動をしてきたパートナーは、企業を去り、I Can Do Anythingのもとで新規の創業に向かうのですね。
ワイアットの歴史は、ワイアットだけの歴史ではなく、専門的知見を有する個人の連合体であったプロフェッショナル事業の歴史なのです。プロフェッショナル事業の代表は、コンサルティングですが、金融業界では、投資運用業と投資銀行業がそうです。
1990年頃までは、名門の投資銀行や資産運用会社は、全て、パートナーシップ型の企業でした。そこでの文化の基調は、程度の差こそあれ、ワイアットの旧文化に近いものであったと思われます。それが、創業者の引退に伴う資本移動や、事業構造の変化によって、資本再編による統合が進んでいきます。そして、2000年頃には、業界は、巨大化した少数の企業によって支配されることになるのです。
その再編の裏では、事業統合に反対した「保守派」(旧プロフェッショナル文化へのこだわりをもつ人々という意味で)が独立して、たくさんの小さなパートナー型の企業を作っていきます。いまでは、業界は、巨大な少数の企業と多数の小さな企業群とに二分されています。
いうまもなく、創造という意味での真の成長を担っているのは、小さな旧来のパートナーシップ型の会社なのですね。
プロフェッショナル事業では、規模は効率を意味するかもしれませんが、決して質を意味しません。ですから、統合のたびに質にこだわる人々が分離独立していくのです。そして、プロフェッショナル事業では、質へのこだわりこそが、創造という真の成長を支えているのです。そのプロフェッショナル事業の文化の基調は、You Can Do Anythingです。
そうしますと、人的資本投資の理論の課題は、プロフェッショナル事業の組織論を産業一般に拡張できるかということと、企業の規模の壁を越えられるかということになるわけですね。
事業の成長の担い手の企業が事業の成長過程で入れ替わっていくのは必然である、そうともいえるのですが、企業の成長の理論からいえば、一つの企業としての同一性を保ちつつ内側に成長源泉を維持できないのか、そういう問いは永遠に残るわけです。
また、プロフェッショナル事業だけでなく、実は、製造業であろうがサービス業であろうが、どの産業でも、成長の源泉に着目すれば、そこに担い手としてのプロフェッショナル的人材(経営や財務のプロフェッショナルを含めて)を見出すのではないのか、そうとも考えられるわけです。
私は、実は、人的資本投資の理論を、一つの企業についての成長戦略として適用し、かつ産業一般に拡大して適用できると考えています。そして、その中核の理念がYou Can Do Anythingであると信じています。しかし、その詳細は、次回以降に譲りましょう。
ちなみに、これまでの用語法からいえば、上の「パートナー」は全て「資本人材」に置き換えることができます。
以上
次回更新は8月15日(木)になります。
2013/08/01掲載「人、創造の場、環境としての企業」
2013/07/25掲載「資本人材の資本利潤」
2013/07/18掲載「人材の不良債権化」
2013/07/11掲載「貢献と処遇、あるいは債務人材と資本人材」
2013/07/04掲載「人的資本投資の理論」
≪ アーカイブから今週のお奨めは「TPPと農業」 ≫
2013/03/21掲載「競争なくして成長なし、では競争があれば成長するのか」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。