私は、この問題について、2年半にわたって論じ尽してしまい、もはや、いうべきことなど残っていないのですが、改めて根本に遡り、再整理してみたいと思います。ここで根本というのは、「原子力損害の賠償に関する法律」の趣旨のことです。
何度論じても結論は絶対に変わらないのですが、この法律が存在する以上、東京電力に対して同法の適用は必ずなされなければならず、事実、適用がなされている限り、東京電力の法的整理は、論理的にあり得ないということです。
逆にいえば、東京電力を法的整理にしたければ、同法の適用を排除すればいい。しかし、それは、不可能でしょう。何しろ、東京電力は、法の趣旨に則り、適法に適用申請をし、政府は、それを適法に受理し、具体的な支援の枠組みを定めるものとして、「原子力損害賠償支援機構法」の法案を国会に提出し、それが成立したことを受けて、同機構の支援のもとで、現在の東京電力存立の仕組みができているのですから、この法律的に適正な手続きのものに確定した事実を覆すことなど、どうしたって、できっこないのです。
ならば、新たなる立法によって東京電力を法的整理にしろ、などという乱暴なことをいう人がいるかもしれませんが、現行法に矛盾する法律は作ることができず、現行法を改廃するならば、その変更は将来に向かってのみ有効であり、いまさら、東京電力に新しい法律を適用することはできません。
しかし、理論的にあり得ない法的整理論が蒸し返されるについては、それなりの理由があるのではないでしょうか。
東京電力法的整理論には、二つの全く異なる系統のものがあるのでしょう。一つは、法理論的なもので、「原子力損害の賠償に関する法律」第十六条に定める政府支援を発動させる前提として、一旦は東京電力を法的に整理しておくべきであったというもの。二つは、単なる感情的な超法規論です。
感情論については、法律を無視するものである限り、特に論じる必要もないわけですが、経済的な権利関係を厳正な法律手続きのもとで処理しようとするとき、そこに、感情的なものを入れる余地など全くないことは、明確にしておかなくてはいけません。東京電力に対する社会的制裁として、法的整理を行うなどということは、断じてあり得ない。法的整理というのは、債権関係の法的整理のことであって、それ以上でも以下でもあり得ないからです。
他方で、第十六条に基づく政府支援の趣旨は、法的整理を回避する目的で東京電力を支援することではなく、逆に、法的整理を行ったうえでのみ政府支援が可能になるという法律的主張には、それなりに根拠のあるものでしょうから、ここは、丁寧に反論しておく必要があります。
法的整理論というのは、伝統的な倒産法制の考え方を維持しようとしているのではないでしょうか。
おそらくは、法的整理論は、その一点に帰着すると思われます。即ち、政府支援が行われることによって、その前後に、債権関係における断絶が生じなければ、そもそも、破綻と、その後の政府支援による再生との手続きが意味をなさないということです。
これは、その通りです。しかし、「原子力損害の賠償に関する法律」第十六条によって政府支援を受けなければならない東京電力の経営の状態というのは、倒産法制の伝統的概念によって説明されるものなのか。これが、究極の論点でしょう。
法的整理論の多くの人は、日本航空との類似で考えているのかもしれません。日本航空の場合は、法的整理が行われたからこそ、政府機関である産業再生支援機構が主導する経営再建が可能になったのであり、東京電力と原子力損害賠償支援機構との関係も、同様であるべきだというあたりが代表的見解なのではないでしょうか。
東京電力の場合と、日本航空のような一般の経営破綻とは、どこが根本的に異なるのでしょうか。
まず、電気の公共性については、経営破綻によって業務の継続が不可能になる事態を避けるために、再生を前提とした破綻処理の必要性があるのであって、東京電力を法的整理にしたところで、最初から事業継続を前提とした手続きが取られるでしょうから、電気安定供給自体は直ちに危機に瀕することはないでしょう。
ですから、日本航空と同様に、一旦は東京電力を破綻させること自体は、特殊な事業の公共性を考えても、不可能ではないと思われます。しかしながら、そうはいっても、東京電力の事案は、日本航空のような一般の破綻事例とは、かなり違います。本質的に違うといえるでしょう。
まずは、再生手続きのなかでは、一般に、日本航空の実例のように、事業の整理縮小が必要となる場合が多いのですが、電気事業の場合は、それはできません。もっとも、この点は、手続き上の制約条件であって、法的整理を不可能にするような本質的なことではありませんが。
本質的なことは、東京電力の負債のうち、圧倒的な比重を占めるのが、原子力損害賠償債務であることです。これは、債務額を正確に見積もることが不可能であって、全ての賠償が完了するまでは、その総額は確定し得ないのです。債務額が確定しないなか、しかも、最大規模の債務が確定しないなかで、どうしたら、債務の整理ができるのでしょうか。債務の整理は、再生の大前提であり、ここにこそ、法的整理の眼目はあるはずですが。
更に、重要な違いとして、原子力事故には、損害賠償の問題だけでなく、事故収束と廃炉に想像もつかないほどに巨額な経費を発生させるという特殊性があります。しかも、この費用は、見積もることもできないし、削減のしようもない。さて、こうした状況のなかで、仮に法的整理を行った場合には、合理的な仮定のもとで、即ち、十分に予見可能性のある将来見通しのもとで、その後の再生計画を策定できるとは、到底、考え得ないわけです。
こうした特殊性が、そもそも、法律的にという以前に、実際的に、法的整理を不可能にしているのです。「原子力損害の賠償に関する法律」の現実的な機能というのは、こうした困難な事態に対して、東京電力を存続させ、電気安定供給義務を継続履行せしめつつ、そこからあがる収益をもって、事故収束等にあたらせ、同時に原子力損害賠償の履行を完全ならしめる、そのための特殊な法律的な枠組みを定めることにあります。
そうはいっても、実務的な意味では、論点は、二つに帰着しますね。第一に、原子力損害賠償債務の適正な見積もり、第二に、事故収束と廃炉に要する費用の適正な見積もり、この二つが可能になれば、法的整理も可能になるということですか。
確かに、その二点が解決すれば、とりあえず法律的な問題を脇におく限り、少なくとも実務的な面では、東京電力を法的に整理する条件は整うでしょう。しかし、実務的に可能ではあっても、現実に「原子力損害の賠償に関する法律」が存在している以上、法律的に可能になることはあり得ません。
安倍政権は、新方針を打ち出し、事故収束と廃炉について、政府が前面に出るとしています。そうならば、少なくとも問題の一つについては、解決の目途がつきますから、改めて、法的整理が近づくという思惑が浮上してくるのではないですか。
政府が前面に出るということの具体的意味は不明ですが、政府の直接的な負担により、事故収束と廃炉を行うという方向にあることは間違いないでしょう。ただ、政府が前面に出るということは、前面にすぎないわけで、後方に東京電力が控えていなくてはならない。つまり、政府が前面に出て責任を負うことは、政府が全面的に責任を負うことにはならないはずです。
さて、ここが、現在、政府が頭を捻っているところでしょうが、もしも、東京電力の負担に上限を画することで、後方における東京電力の責任を有限化するならば、その時点で、東京電力の将来費用負担見積もりは合理的に可能となり、法的整理を可能にする実質的条件の一つは整う。
もしも、こうした事実の積み上げが進むならば、当然のこととして、東京電力法的整理論の再燃を促すでしょう。
それでも、巨額な原子力損害賠償債務の無限性という問題は残りますね。
もしも、安倍政権が東京電力の負担する原子力損害賠償債務に上限を画する制度を導入する、即ち、上限を超えた無限責任部分を政府負担とする決断をするならば、東京電力の原子力損害賠償債務は確定債務となり、法的整理を可能にする実質的準備が更に整います。
ただし、これは、現在の支援の枠組みを根本的に変更することですから、東京電力に対する国民世論の動向が依然として厳しいなか、安倍政権にとっては、極めて困難な決断になります。もしも、安倍政権が決断するなら、もちろんのこと、私は、全面的に支持しますが。
事故当時、民主党政権は、東京電力の責任が主、政府責任は従という構図を作りました。それに対して、私の一貫した主張は、政府責任が主であり、東京電力の責任は従にとどめるべきだというものです。
今、安倍政権は、私の主張の方向へ政府支援の枠組みを変え始めています。まずは、事故収束における政府の主体的責任へ、そして、おそらくは、政府主導の廃炉、そして、さらに、原子力損害賠償における政府責任の明確化へまで進めば、私の主張は、事実上、完全に実現されるのです。私は、安倍総理大臣の決断に、大いに期待しています。
しかし、問題なのは、そのように政府が前面に出ていく条件として、即ち、支援の仕組みの抜本的改定を進めていく過程で、改めて、東京電力を法的に整理しようという動きが出てくる可能性です。もしかしますと、政府内部にも、国民感情に対する対策として、法的整理を支持する動きが生じるかもしれません。
原子力損害賠償、事故収束、廃炉、この全てについて、政府が前面に出て、東京電力の責任を有限化すれば、実務的には、東京電力の法的整理は可能になるでしょう。しかし、そのことは、法律的にも可能になることを意味しません。法律的には、法的整理は不可能です。
国民感情として、政府が前面に出るということは、東京電力の責任を政府が肩代わりすることとを意味するでしょうから、その代償を東京電力に求めるべきだという一種の制裁論が浮上してくることは、当然に予想されます。
もしも、ここで、東京電力法的整理論が浮上してくるならば、その背景は、感情的制裁論、あるいは、その国民感情を前提とした高度な政治論なのであって、法律を超えた超法規論になるでしょう。しかし、超法規論はあり得ない。法律の正義が政治に負けるような国は、亡ぶほかないのですから。
以上
次回更新は11月21日(木)になります。
2013/10/17掲載「東京電力福島第一原子力発電所の国有化」
2013/03/14掲載「ここがおかしい原子力安全規制」
2013/01/10掲載「東京電力にこだわり続ける、日本の明るい未来のために」
2012/12/27掲載「脱原子力は原子力以上にバンカブルではない」
2012/12/20掲載「原子力発電はバンカブルではない」
2012/11/29掲載「東京電力なしで電気事業政策は成り立つのか」
2012/11/15掲載「東京電力の「再生への経営方針」にみる政府の欺瞞」
≪ アーカイブから今週のお奨めは「グローバル」 ≫
2013/09/19掲載「日本にこだわってこそのグローバル」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。