一つの例から始めましょう。信託の受託者責任について、問題となる代表的事例は、忠実義務と利益相反取引との関係です。最初に、この利益相反取引を材料にして、論点を明らかにしてみようと思うのです。
利益相反取引については、その可能性自体を禁じるという立法の構造があり得ます。もしも、日本の信託法についても、そうした法律の建付けになっていたら、少なくとも、利益相反取引に関する限り、忠実義務違反が放置されるような事態は、断じてあり得ないわけです。
利益相反取引の可能性自体を禁じるというのは、例えば、顧客の委託を受けた代理人に対して、自分自身が取引の相手方になることを禁じるということです。具体的にいえば、信託において、受託者の行為規制として、当該信託財産の運用に関しては、受託者自身が取引の相手方になることを禁じるという法律の規定を導入するわけです。
この場合、自己取引が不可能であれば、受託者は、利益相反取引を行い得る状況自体に身を置くことがないので、利益相反取引は可能性の次元において完全に排除され、故に、受託者の忠実義務の履行は、少なくとも、利益相反取引に関する限り、完全に担保されるわけです。
しかし、それは不便ですね。利益相反取引になり得ない自己取引を認めるほうが、法律の仕組みとしては、実務的に弾力的だと思われますが。
その通りでしょう。故に、日本の信託では、受託者による利益相反取引は禁じられていても、自己取引は禁じられていません。これは、日本だけでなく、米国のトラスト(日本の信託の先祖ですが、日本のものとは、法律の理念の次元において異なります)といえども、そうです。つまり、利益相反取引に該当しない自己取引があり得る以上、利便性を損じてまで、自己取引を禁じる必要はないということです。
そこで問題になるのは、利益相反取引かどうかを判定する基準です。ところが、そこに明確な客観基準を作ることなど、ごく限られた場合以外は、おそらくは、実務的に不可能でしょう。
その限られた場合というのは、受託者以外の他者と取引をしても条件が変わらないような場合、即ち、一般的に市場で成り立つ公正価格による取引であることが証明され、かつ、その取引によって受託者が取引業者としての立場で得る報酬が妥当で合理的であることが証明される場合だけです。
そのような難しい証明をする義務は、受託者側にあるのです。ならば、形式的には、自己取引が可能ではあっても、現実的には、利益相反取引でないことの完全な証明の困難性ゆえに、自己取引は、事実上、禁じられているのと同様な結果になるほど、限定的にしか認められ得ないことになります。
あるいは、いい方を変えれば、自己取引は、完全に利益相反取引ではないことが証明された場合にのみに限定して行われる、その結果、利益相反取引は現実的に排除される、それが法律のあるべき機能であり、現に、米国のトラストは、そのように機能しているはずです。
ところで、利益相反取引は明示的には禁じられていませんね。単に、受託者には忠実義務が課せられる関係で、忠実義務違反を回避すれば、結果的に、利益相反取引も回避される、それが法律の構成ですね。
何が忠実義務違反かは、明示的に特定されているわけではないので、忠実義務に違反した取引は禁止だといっても、その禁止の実効性は、非常に疑問である、それが、ここで提起したい問題点なのです。
ここでは、二つの点が重要です。第一に、忠実義務違反行為が、例えば、自己取引というように、明示的に特定されていれば、形式的な金融規制によっても、忠実義務違反は防止できるということです。もっとも、それすら、全ての取引を網羅的に列挙することは、事実上、困難ですから、実効性には、疑問が残りますし、利便性を考えるとき、このような制度の構造に問題のあることは、先に述べた通りです。
第二に、より重要なこととして、忠実義務違反をめぐって法律上の紛争が起きない限り、忠実義務違反の定義の内実は深められないということです。このことは、忠実義務違反の内容についてだけでなく、注意義務も含めた受託者の責任全体についていえることです。
いうまでもないですが、英米法の歴史において、トラストの解釈と内容が豊かに充実してきたのは、中世にまで遡る長い時間のなかで、膨大な判例が積み重ねられた結果であって、その過程のなかで、忠実義務にしても、注意義務にしても、具体的な内容が明らかにされてきたのです。
法律によって細かに規定するという非効率を排して、判例の蓄積によって個別具体的な事例から予見可能性ある実質を抽出することで、忠実義務や注意義務の内容が確定されてきた、それが英米法の歴史です。要は、膨大な紛争の歴史がトラストを作りあげてきたのです。
ところが、日本では、信託をめぐる裁判例は極めて限られており、受託者の忠実義務と注意義務については、その内容の掘り下げは、十分とはいえない、というよりも、実質的に、ほとんど進んでいないといってもいいでしょう。このような日本の現状では、受託者責任の完全な履行は、そもそもが、受託者責任の内実が貧困なのですから、非常に難しいのです。
紛争が起きるためには、信託の受託者と受益者(あるいは委託者)との間に、健全な緊張関係がなければいけませんね。
当然ですが、いかなる受託者責任違反行為も、顧客合意のもとでは、問題になり得ないのです。合意は、必ずしも明示的である必要はなく、顧客側において、受託者の義務違反に気付かない、気付いても見過す、それでは、結果的に同意を与えたのと同じことになります。
おそらくは、日本では、そうした現実があり、それが、受託者責任の内容を薄っぺらなものにしているのです。つまり、信託の受託者と受益者(あるいは委託者)との間には、健全な緊張関係が十分に働かない場合が多いのだろうと推測されるわけです。
しかし、それでは、顧客自身の注意義務違反等が問題になってしまうのではないでしょうか。
まさに、その論点こそ、日本の信託に真の受託者責任の履行を実現させ、日本の信託の質を高め、米国のトラストと同様の次元にまでもちあげていくことで、日本の国際金融センター化を実現していくための基本的視点であるべきです。
日本においては、信託は、そのほとんど全てが信託銀行による商事信託であり、その利用目的は、年金の資産運用であったり、投資信託の器であったり、資産流動化の受け皿であったり、いずれにしても、委託者もまた、何らかの社会的責任のもとで、信託を利用する場合が基本です。
特に、企業年金や公的年金の資産運用のために信託が使われる場合では、それらの年金基金は全て設立根拠法をもっており、そのなかで、年金基金の資産運用の管理責任者に対して、注意義務や忠実義務が課されているわけですから、信託の受託者を監視する法律上の責任は、本来は、非常に重いはずです。
従って、例えば、ある年金基金が、自分の使っている信託銀行の行為に関して、受託者責任違反を認めたとしたら、そのことを法律的に問題としなければならない法律上の義務を負っているわけですから、当然に、そこで、法律的な問題が顕在化するはずなのです。少なくとも、法律の建前からは、そうなるはずです。
しかし、ここに、大きな問題があります。それは、信託を取り巻く関係者間の、あるいは信託内部の当事者間の、責任の分担構造が不明確だということです。
年金基金は、信託銀行に対しては、信託の委託者兼受益者の立場で、信託の受託者である信託銀行の行為の責任を問えますが、では、その年金基金自身の責任は、誰が問題とするのでしょうか。また、資産運用機能は投資運用業者に、資産管理機能は信託銀行に、というふうに、信託内部に責任の分担があるのですが、では、それら当事者間の受託者責任の分担の構造はどうなっているのでしょうか。
もしも、年金基金を、擬制的に、あるいは類推的に、それ自体が信託であるとして理解するならば、その後ろには、実質的な受益者である年金制度の加入員受給者の存在があるのですから、年金基金自身にも、実質的な受託者としての大きな責任が課されていると理解されるはずです。実際に、そのような擬制信託的な理解のもとで、年金基金の管理者責任については、かねてより、「受託者責任」という信託から借用した名前で呼ばれてきたはずなのです。
また、年金基金が一つの信託ならば、そのなかの年金基金と信託銀行との間の信託は、資産運用や資産管理に関して派生した子信託のようなものですから、そこには、年金基金自身の擬制信託的意味における「受託者責任」と連動した形で、信託銀行や運用会社への「受託者責任」の分属を認識し得るはずです。
ところが、日本の現実では、年金基金を信託として擬制することによる一つの「受託者責任」の内部構造が不明確であるがゆえに、年金基金の責任も、信託銀行の責任も、運用会社の責任も、すべて不明確になり、結果として、信託の受託者責任が機能しないのです。
そうしますと、責任の連鎖の構造から考えて、原点といいますか、根底にあるのは、年金基金側の受託者責任ですから、その責任が機能していないことになりますね。それは、なぜなのでしょうか。
その理由は、極めて明瞭なのではないでしょうか。それは、年金基金として、信託銀行や運用会社の責任を問う誘因が機能しないからです。つまり、そうすることにより得られる年金基金自身の利益がないということです。
例えば、仮に、信託銀行の注意義務違反が何らかの経済的損失に帰結したとしましょう。その損失の填補を求めることは、年金資産の利益にはなりますが、年金基金の管理責任者である役員の利益にはなりません。それでは、法律的な手段に訴えてでも信託銀行に損失填補を求めるための誘因は十分には働きません。
それは、間違った議論ですね。年金基金の管理責任者には、職責上の義務があるはずですから、その義務の履行には、何らの誘因をも必要としないはずです。
そのような人間の善意に依存したような議論こそ、社会工学的な制度設計の視点からは、間違った議論だと思われます。当事者の受託者としての義務の履行を強制するような制度の設計があるからこそ、受託者の義務の履行が確実なものとして担保されるのです。
では、どのような社会工学的な設計が必要なのでしょうか。
例えば、米国の年金基金の構造の事例に学ぶならば、それは関係当事者間の連帯責任の導入です。
米国では、年金基金自体が一つのトラストとして明確に認識されており、その資産運用管理責任者は、受託者としての責任を負います。年金基金が資産運用を委託した先の運用会社や事務管理会社は、その同じトラストの受託者として、連帯して、年金基金の責任者と同等な受託者責任を負います。
このような連帯責任の構造のなかでは、当然のこととして、運用会社の義務違反を放置することは、年金基金自身の連帯責任を生み出しますので、その連帯性から抜けなければならないという誘因が働きます。ですから、そのような事態は放置され得ないのです。
同様に、年金基金の受託者責任違反についても、運用受託している運用会社において、その事実を認知すれば、運用会社が問題を提起することになりますので、それが放置されることはあり得ないのです。つまり、ここには、厳格な相互監視が機能しており、その緊張関係が、受託者の義務の履行を、社会工学的に、担保しているのです。
この米国の事例は、一つの制度設計の例です。日本では日本なりに工夫をすればいいのです。ただし、間違いなくいえることは、法律のなかに年金基金の責任が明定されているから、それで十分とするような思想は、全く役に立たないということです。制度設計の良し悪しは、制度の機能の実態によって評価されるべきです。現に機能していないのならば、制度的に手当をしたことにはなりません。それは、行政の怠慢です。
いうまでもなく、信託の利用は、様々な金融機能のなかで、多方面で行われている以上、信託改革は、全ての信託の利用形態について、ここで述べた年金基金の信託改革と同様な視点において、断行されなくてはなりません。
今、日本では、安倍政権による急激な構造改革が進行しています。そのなかでは、行政の怠慢は厳しく指弾され、明確に成果重視の立場が貫かれていくわけですから、必ずや、機能面からする制度設計の本質的な改革が図られていくはずです。
もしも、現実に機能する制度設計が想定されているのでなければ、例えば、2020年までに日本をアジア最大の国際金融センターにするという構想など、限りなく、ほら吹きの妄言になってしまいます。
安倍政権では、そのような無責任は起き得ない。ならば、日本の信託の改革は、現実に信託が変わることを目的として、つまりは、制度のお化粧直し的な変更ではなくて、実質的な側面において、必ずや断行される、それは、間違いないでしょう。しかも、時間が大事です。直ちに断行されることが必要です。
以上
次回更新は4月10日(木)になります。
2014/03/27掲載「ファンドのディレクターとトラスティー」
2014/03/20掲載「国際金融センターへの挑戦と信託」
2014/03/13掲載「GPIF改革、あるいは投資家の内部統治と信託」
2014/03/06掲載「投資信託は本当の信託なのか」
2014/02/27掲載「投資詐欺事件における信託銀行の責任」
2014/02/20掲載「信託の合同運用における法創造」
2014/02/13掲載「信託の受託者の忠実義務」
2014/02/06掲載「金融危機さなかの信託銀行批判」
2014/01/30掲載「企業年金の資産運用におけるフィデュシャリーの責任」
2014/01/23掲載「九州石油業厚生年金基金訴訟に思う」
2014/01/16掲載「フィデュシャリー、あるいは信じて託すること」
2014/01/09掲載「トラスト、あるいは信託の本旨」
≪ アーカイブから今週のお奨めは「グローバル」≫
2013/09/18掲載「日本にこだわってこそのグローバル」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。