リスク分散を、一つの籠に卵を盛るな、という喩で説明するのは、間違いではないのですが、この喩からリスク分散という言葉で意味されるべきものを正しく理解するためには、長い注釈が必要ですし、長い注釈なくしては意味をなさない喩も、喩として意味をなさないような気がします。
一つの籠に卵を盛るな、とは、例えば、大金持ちの人が銀行に大きな金額を預金しようとするとき、複数の銀行に分けて預けるようなことをいうのでしょう。今どき、銀行の破綻は珍しくないので、破綻というリスクの分散というわけです。
しかしながら、このような行為は、銀行の経営破綻に出会う可能性を高めてしまうのではないでしょうか。銀行の数が多いほど、どこかの銀行が破綻したとき、それが自分の使っている銀行の一つである可能性は高くなるでしょう。銀行を分けるよりは、むしろ、一番安全そうな銀行へ全額預けるほうが合理的だと思われます。
一番安全そうな銀行というのを、どのように選択するのでしょうか。
例えば、信用格付などの何らかの客観基準で判断できるならば、それに従えばいいのではないでしょうか。あるいは、この銀行はつぶれない、というような自分の信念に従ってもいいでしょう。要は、選択は一つの決断ですから、決断ができさえすれば、それでいいのです。
決断できないときは、どうしますか。
明確な根拠がないと決断できない、自分の判断力に対する自信がない、判断できるまで調査分析する能力がない、能力があっても面倒くさい、そのようなことでは困るのですが、現実には、決められない人はいるでしょうね。
決断できないということであれば、自分が知る限りの全ての銀行に細かく分けて預金すればいいでしょう。こうすると、どこかの銀行が破綻すれば、その銀行は確実に自分の預金している銀行の一つになるわけですが、金額が小さいので、影響も小さい。しかも、ペイオフに引っかからないほど小口にしておけば、破綻しても、損にならない。これぞ、まさに、リスク分散です。
そうしますと、リスク分散の意味の一つは、決められないから分散、ということですね。
この銀行はつぶれないという判断が正しければ、その判断に従えばいいのですが、そのときは、判断の誤りという危険、つまり、リスクを冒すことになります。ただし、自己の判断に対する確信が強ければ、その信念のもとでは、リスクを冒すという自覚はないのが普通です。故に、リスク分散などということは、起こり得ないし、必要でもない。
ところが、自己の判断に確信をもてない人、信念を欠く人は、特定の銀行を選択することによりリスクを冒すことになります。そのリスクを避けようとすれば、選択しないことになり、銀行を選択しないで預金するということは、全ての銀行に預金するということになり、リスク分散が帰結するのです。
投資の世界では、そのリスク分散の考え方がインデクス運用に帰結しているわけですね。
インデクスが、その名の通り、市場を指し示す指数ならば、その構成要素の全てに構成方法と同じ比率で投資すれば、市場の平均的な収益率が実現することは、間違いないでしょう。特に、TOPIXのように全銘柄で構成される指数の場合、それは市場の平均そのものです。しかし、このようなリスク分散の思想に基づくインデクス運用には、根源的な誤謬が潜んでいます。
そもそも、インデクス運用の前提には、市場の効率性の仮定があります。総体としての市場が効率的でなければ、インデクス運用には意味がないのです。しかし、市場が効率的であり得るのは、投資家が、個々の銘柄に対して、自己の信念のもとで、選択を行うからです。投資家の銘柄選択が市場を効率的にしているのであり、投資家が選択を放棄すれば、市場の効率性は保証できなくなり、インデクス運用も意味を失うはずなのです。
実は、選択しないことによる分散は、あり得ないのです。それは、表面的なリスク分散なのであって、真のリスク分散ではない。真のリスク分散には、銘柄の選択が先行しなければならない。分散とは、選択した範囲内でのみ、なし得ることです。
今の日本では、インデクスの非効率が政府の関心事になっています。背景には、TOPIX連動のインデクス運用の普及があります。そこで、政策的にJPX日経400という新指数の普及促進が図られることになりました。この指数は、TOPIXのように市場の全銘柄で構成されるものではなく、一定の基準に基づいて平均よりも優れていると評価された400銘柄で構成されるものです。
このJPX日経400がインデクス運用の対象として普及すれば、投資家の銘柄選択は放棄されていても、400銘柄を選択したことを通じて、指数の算出会社による銘柄選択が機能し、市場の効率化に一定の効果のあることが期待されているのです。
JPX日経400に連動したインデクス運用の思想には、一方で、インデクス運用自体のリスク分散の考え方を支持しながら、他方で、インデクス運用の背後に潜む選択放棄という根本的誤謬について、改善策を求めたところがあります。つまり、ここでは、分散に先立って、400銘柄の選択があり、分散とは、その400銘柄への分散となっているのです。
では、銀行預金の例に戻れば、全ての銀行に小口預金すれば安全というのは、選択を放棄しているという意味で、間違った分散の考え方なのですね。
政府がペイオフ解禁に踏み切った背景の一つは、預金者の自己責任原則でしょう。預金者の自己の判断に基づく銀行選択は、銀行間の健全な競争を促し、金融規律を支えるという原則的思想を前提にして、社会政策的配慮から小口預金には保護を与える、それが、現行制度のあり方だと思われます。
従って、ペイオフ解禁の思想からいえば、社会政策的に保護に値しない富裕層の預金は、預金者の自己責任原則のもとで、銀行選択がなされることが前提なのです。そのとき、特定の一つの銀行に全額を預金せず、選ばれた数行に分けるかもしれませんが、もしも、分散があるとしたら、このように、選択された数行への分散のことでなければならないのです。
わからないから、判断できないから分散、ということはあり得ず、わかるもの、判断できるものへの分散、でなければならない。自分で判断して選択する、そして、選択された範囲で分散する、これが本当のリスク分散なのです。
では、本当のリスク分散では、分散されるリスクとは何でしょうか。選択判断にかかわるリスクでしょうか。
原理的には、選択という判断の後に分散がくるのですから、分散投資の意義は、判断の誤りにかかわるリスクの分散のことであり、それがリスク分散ということの本質になるのです。
しかし、注意しなければならないことは、選択判断は信念に基づくものであり、その信念は、選択された全てのものに及んでいるということです。なぜなら、信念を抱き得ないものは選択され得ないからです。
例えば、日本の株式市場について、自己の信念に忠実であるとき、選択できる銘柄が一つしかなければ、その一つに投資するほかなく、一つもなければ、投資することができない。つまり、分散を前提とした選択など、あり得ないということです。
ならば、選択判断の誤りは前提されていないのですから、その判断の誤りのリスクを分散するということもあり得ないのではないでしょうか。
リスクとは、損失の可能性です。つまり、損失という事象の発生も、損失額も、不確実であるからリスクなのです。ですから、リスクは、ある種の確率です。
信念とは、主観的な確率において、リスクのない状態です。しかし、客観的な確率においては、リスクはあるかもしれない、いや、リスクがある場合が多いと思われます。つまり、主観確率は事前の信念ですが、事後的に結果を測定したとき、一定の損失が測定される場合が多く、それによって客観確率を測定すれば、それは、明らかに、一定の客観的なリスクの所在を示すであろうと考えられるのです。
そうしますと、リスク分散とは、客観確率におけるリスクの管理手法だということですね。
分散という手法で管理されるリスクには、二つのものがあるはずです。信念の中の損失にかかわるリスクと、信念の外の損失にかかわるリスクです。
信念の中の損失は、事前には合理的な手法で見込まれない損失、即ち、信念のもとでは存在しない損失でも、事後的には結果として生じざるを得ない損失です。また、信念の外の損失は、事前に合理的な手法で見込むことのできない損失、即ち、信念の形成過程のなかで可能性として取り込まれなかった損失です。
信念の中の損失とは、具体的に、どのようなものでしょうか。
一番わかりやすい例は、銀行の融資でしょう。いうまでもなく、膨大な数の与信先の全てについて、融資実行段階では、貸倒等の損失の見込みは一切なされていません。全額完全に弁済されるとの前提でのみ、融資実行がなされます。いかに与信先の数が多くとも、そこには、リスク分散の考え方など、一切、入る余地はない。
当然ですが、貸倒確率は、事前には、常に、ゼロなのです。逆に、貸倒の主観確率がゼロになるまで、即ち、融資の安全性に関する確たる信念が形成されるまで、徹底的に審査しなければならない、この規律こそが、銀行経営を支える基本中の基本なのです。
ところが、これも当然のことですが、事後的には、一定の貸倒損失がでます。これは、不可避です。なぜなら、信念の形成は、事実と合理的仮定に基づく推論の結果ですが、推論構造に誤りがなくとも、完全情報はあり得ず、合理的仮定の信憑性も完全ではない以上、信念は、常に、可謬的だからです。
ですから、事後的な結果検証は徹底して行われる。このとき、膨大な数の与信先をもつことが、結果的なリスク分散効果をもたらすことは、自明です。つまり、与信先の分散は、リスク分散を目的とするものではなく、あくまでも結果的なものですが、その分散が、実は、リスク分散効果をもたらしているのです。
では、信念の外の損失とは、何でしょうか。
融資を例にとれば、審査の前提としての事実が不正で、その不正が巧妙にすぎて見抜けない場合や、合理的推論の枠を超えるような事象が生起する場合などは、それはもう、信念の外にあるわけですから、どうにもなりません。このときも、救いは、事後的なリスク分散効果しかありません。
リスク管理の方法論におけるリスク分散の意味について、まとめると、どうなりますか。
第一に、わからないから分散、これはあり得ない。確たる信念が形成されるまで分析できたものだけが選択されなければならない。つまり、わかったものとして選択された範囲、信念の範囲内でしか、投資は考え得ない。ここには、リスク分散の考えはない。
第二に、信念の形成は可謬的だから、わかったものの範囲内での分散は、事後的には、必ず、有効性が証明される。リスク分散が問題になるのは、信念の可謬的についてのみ、しかも事後的においてのみである。
2014/05/22掲載「冒険者はリスクを冒さない」
2014/05/15掲載「リスクをとるという誤謬について」
2014/05/08掲載「GPIFのリスクを正しく論じるために」
2010/02/18掲載「投資の損失とリスクとボラティリティ」
2010/01/14掲載「価値と価格とインカムとバリュー」
2009/12/17掲載「価値の変動と価格の変動」
2009/11/19掲載「市場機能を支えるリレーションシップ型リスク管理の意義」
2009/11/12掲載「市場型リスク管理の限界」
2009/06/11掲載「「ナンピン」を考察する」
2009/06/04掲載「「損切り」を考察する」
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2014/04/24掲載「公的年金資産運用改革論の誤謬」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。