アセットアロケーションという誤謬について

アセットアロケーションという誤謬について

森本紀行
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アセットアロケーションは、投資の基本であるようにいわれますが、もっと基本的なことは、アロケーション(配分)よりも、セレクション(選択)ではないでしょうか。まずは、いくつかの投資対象資産を選択し、その選択された範囲のなかで、やっと、配分比率が問題になる。一体、資産選択の理論は、どこへいってしまったのでしょうか。
 
 日本の企業年金や公的年金の資産運用では、未だに、四資産分類という古色蒼然たるものが現役で使われているのです。四資産というのは、日本の債券、日本以外の外国の債券、日本の株式、日本以外の外国の株式の四つです。
 もしも世界の投資の対象となる領域が、債券と株式とによって完全に二分割されるならば、この四資産分類は、実は、債券か株式かという軸、日本の内か外かという軸、この二軸によって、世界全体の全ての投資可能な対象を網羅し、同時に、二軸の掛け算で四つに分類し切っていることになります。
 なかなかよくできた手法ですが、さて直ちに疑問が生じるのは、この二軸による分類、妥当なものかどうかということ。第二に、四つに分類して、四つの全てに投資することを前提にして配分を考えるのならば、選択ということが起きませんが、それでいいのかということ。
 

なるほど、配分に先立って選択があるべきですが、選択に先立っては、適切な分類がなくてはならないということですね。
 
 いや、話は、それほど簡単ではありません。
 もしも分類を細かくして多数の資産区分を設ければ、配分以前の問題として、選択が生じるのは当たり前です。逆に、分類を大雑把にして少数の資産区分を設ける、例えば、日本の年金基金のように、四つに分けるのであれば、全てに投資するのが前提でしょうから、選択を抜きにして、一気に配分に進むのです。
 この選択を抜きにした場合ですが、全く選択がなくなったとは思えないのです。それは、どこに隠れているかというと、配分の次にきているのです。つまり、「日本以外の外国の債券に総資産の30%を配分する」と決めたとしても、日本以外の外国の債券というのは、あまりにも漠然とし、あまりにも広大な領域を意味するので、そのなかで、具体的にどこに投資するかの選択は、絶対に必要であり、現に、そのような選択はなされているはずなのです。
 

そうしますと、資産分類の問題は、投資の管理手法、特に、意思決定のあり方に大きな影響を与えるということですね。
 
 一般に、資産配分の決定は、投資において、最上位の意思決定であると考えられ、故に、組織論としても、最高意思決定機関の決定であると考えられています。それは、確かに、そうあるべきで、なにしろ、資産全体の収益に一番大きな影響を与える決定であると考えられているからです。
 ところで、意思決定の構造、即ち統治論の核心部は、権限移譲の仕組みです。
 もしも資産分類を四つというような単純なものにしてしまうと、最上位の意思決定は、四資産の配分という大きな、いい方を変えれば、大雑把な決定にとどまり、大きく区分された一つの資産種類のなかで、具体的にどこに投資するかという選択は、下部組織の意思決定に属することになるわけです。
 逆に、細かく資産分類を分ければ、投資の最上位の意思決定は、どのような領域に投資するかという選択の決定になります。そして、下部への権限の委譲は、比較的に狭く定義された範囲内での更に狭い具体的な選択となります。
 

資産分類というような技術的にみえることが、実は、投資の意思決定の仕組みという統治論の次元で、大きな意味をもつのですね。
 
 より正確にいえば、資産分類が統治構造に影響を与えるのではなくて、先に、あるべき統治構造の姿があって、それに合わせた資産の分類を工夫すべきだということです。
 表題に、「アセットアロケーションという誤謬について」とつけましたが、どこに誤謬があるかというと、あるべき統治構造、即ち、最上位の意思決定のあり方と、下部組織への権限の委譲の問題という先決事項を抜きにして、資産配分を論じることの愚をいっているのです。
 具体的にいえば、最初から四資産の区分を前提にして、その配分を議論しているような日本の年金基金の意思決定構造、即ち統治のあり方の問題性を、大変に失礼ながら、「アセットアロケーションという誤謬」と表現しているのです。
 

では、統治論との関連で、資産分類は、どうあるべきでしょうか。あるいは、資産分類についての基本的な考え方は、どうあるべきでしょうか。
 
 例として、公的年金資産を考えましょう。
 日本では、公的年金資産は、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が運用していますが、そこでは、冒頭にあげた標準的な四資産分類が使われています。現在、GPIFでは、組織構造も含めた抜本的な運用改革の検討が進んでいますので、当然に、資産配分の考え方も変わるはずです。そして、資産配分の変更は、意思決定の構造の改革と無関係には、なし得ないはずなのです。
 さて、GPIFは、どう変わるのか、あるいは、どう変わるべきか。私なりに勝手な見解を述べてみましょう。
 まず、公的年金制度の構造からして、掛金と給付は、それなりの誤差を伴うとはいえ、大きな方向としては、名目所得に連動すると考えられます。ならば、年金資産の増殖率も、概ね、名目所得に連動させればいいということでしょう。
 しかし、確実に人口が減少していく日本において、国内の名目所得に連動させることは、年金制度の維持自体を困難にしてしまうかもしれません。超成熟国家の日本としては、これまでの蓄積を海外に移転して、そこからの投資収益で、年金財政の補完を行うのが自然な姿です。その海外投資部分についても、世界的な名目所得に連動することが望ましいように思われます。
 故に、公的年金の基本資産配分は、国内名目所得に連動する資産と、海外名目所得に連動する資産との比率の決定になるのだと思われます。
 

それは、もう、資産配分の決定というよりも、資産配分と資産分類の同時決定のようですね。
 
 統治構造上、資産配分と資産分類の同時決定ということはあり得ないでしょう。理論的には、分類が先行していなければならない。投資対象は、まずは、国内名目所得に連動する資産と、海外名目所得に連動する資産とに二分割される。これで、世界全体の投資の領域は、おそらくは、十分に広く取り込まれるでしょう。
 ただし、国内名目所得に連動する資産というものが具体的に存在するわけではないので、これは、いくつかの資産の組み合わせで近似的に複製するしかありません。海外名目所得に連動する資産も同様です。
 さて、統治論との関連でいうと、こうして二つに分類された資産について、最上位の意思決定は、いうまでもなく、その配分比率の決定になるのです。実際、国内名目所得に連動する資産と、海外名目所得に連動する資産との比率など、技術的な根拠から決めるのは無理ですから、一つの決断にならざるを得ない。故に、最高意思決定機関での決定に相応しいものになるのです。
 

いくつかの資産の組み合わせによる近似的な複製ということは、そこには、既に、資産の選択と配分の問題が内包していますね。
 
 国内名目所得に連動する資産として、および、海外名目所得に連動する資産として、様々な資産の組み合わせによって近似的に複製することは、技術的な要素の大きなものにならざるを得ません。故に、それは、最高意思決定機関で決めることではなく、また、決められるものでもなく、下部の技術的専門知見を有する担当者の決定に委ねられるべきものです。
 ただし、極めて重要な決定だけに、最高意思決定機関による承認は必要です。ここで、決定と承認は異なること、ここに統治論の要諦のあることに、注意ください。日本での統治論においては、どうも、この決定と承認の関係について、十分に理解されていないようです。
 統治論の要諦として、技術的に決められないことは、最高の責任を負う機関で決定するしかない。それは、決断だからです。ただし、このような重大な決定を求められることは、投資の世界では、限られています。もともと、経営というのは、たまにしかなされないが決定的な影響を与えるような重要な決断を行うことにつきるのです。
 次いで、統治論において重要なことは、技術的なことは、最高意思決定機関では、決める能力もありませんし、決める必要もないことです。その決定のために、専門的能力をもつ人材を起用しているのですから。しかし、専門家の決定は、専門家の責任においてなされるのではなく、組織の責任において、なされるのです。故に、最高意思決定機関としては、その決定を承認しなければならないのです。
 

最高意思決定機関として、専門家の決定に影響を与えるような指針をだすことはあり得るでしょうか。
 
 それは、当然でしょう。そのような指針は、投資の基本政策と呼ばれるものです。そして、それは、当然に、最高意思決定機関の決定です。
 ここで、詳細な指針を作るか、あるいは、ごく簡単な哲学的な指針にとどめるかは、各投資家の趣味といいますか、文化的、慣習的なものでしょうから、統治構造上の一つの個性のあり方にすぎません。
 例えば、海外については、特に、エマージング諸国の成長に傾斜をかけた構成にすべきかどうかなどは、簡単に技術的な要素だけでは決め得ない哲学的な側面をもっています。こういうことは、基本投資政策のなかで決めなくてはならないでしょう。
 同様に、名目所得の成長に連動するという目的に関して、不動産、インフラストラクチャ、エネルギー資源のように、実物的要素を重視するか、それとも、株式のように企業活動的要素を重視するかも、投資政策の決定の問題です。
 

ちなみに、名目所得の成長を凌駕するという目標設定もあり得ますね。
 
 それこそ、投資政策の最重要の決定です。もしも、そのような積極策を導入するならば、そのための方法論も決めなくてはならない。その方法論の枠組みのなかでのみ、権限移譲をうけた専門家の決定がなされ得るのです。
 

例えば、海外のインフラストラクチャに総資産の5%を投資するということになれば、その先の具体的な投資対象等の選定は、更に下部に権限移譲されるということですね。
 
 具体的には、外部の専門家である投資運用業者を選定するわけですが、そのような決定は、専門的判断を行う下部組織のなかでも、更に下位に権限移譲されるべきことです。下部で決められたことが専門的判断を行う最高責任者の承認を経て、最終決定されるのです。最高意思決定機関は、結果の報告を受けるだけで十分でしょう。
 統治論の要諦は、決定、承認、報告というように、適切なる権限移譲の体系に基づき、最高意思決定機関の役割が明瞭に定義されていることなのです。
 資産の分類、選択、配分の決定は、資産運用における意思決定構造という統治論の次元に絡んで、複雑な様相を呈します。そのとき、一番重要なことは、統治構造、即ち意思決定構造の確定が最重要課題だということです。決められないものは実行できず、実行できないものは意味をなさないからです。
 

統治論から乖離した資産配分の議論など、何の意味もないのですね。
 
 そうです。それは、まさに、「アセットアロケーションという誤謬」なのです。
 
以上

 
 次回更新は6月12日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫

2010/03/25掲載「アセットアロケーションとアセットの分類を考える軸
2010/03/18掲載「アセットアロケーションと分散効果
2010/03/11掲載「アセットアロケーションとガバナンス
2010/03/04掲載「アセットアロケーションとアセットセレクション
2010/02/25掲載「アセットアロケーション再考

≪ アーカイブから今週のお奨めは「リスク管理」≫
2014/05/22掲載「冒険者はリスクを冒さない
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。