英語を片仮名にするとき、いつも問題になるのは、長音を示す横棒でしょう。金融庁は、フィデューシャリーとしましたが、私は、フィデュシャリーとしてきました。それは、樋口範雄先生に、『フィデュシャリー「信任」の時代』という本があるからです。
この本は、1999年に出版されたのです。先生は、そのとき、いよいよ、日本にも、フィデュシャリーの時代が来ると思われたのでしょう。しかし、残念ながら、そうなりませんでした。それが、15年の後、金融庁が、政策として、フィデューシャリー・デューティーを掲げたことで、とうとう、フィデューシャリーの時代が来たのです。長音の横棒が挟まりはしたのですが、とにかく、来ることは来たのです。さて、先生の思いは、いかに。
実は、私は、昨年の暮れに、フィデュシャリー、いや、フィデューシャリーの時代が来ると確信しました。そこで、今年の始めから、集中的に、フィデューシャリーについて、多数の論考を発表してきたのです。この私の先見性については、大いに自慢したいところです。今の私の思いは、大満足であり、多年の願いが金融庁に届いたことに、深い感慨を覚えるものです。
そこで、自分としては珍しく、あっさりとフィデュシャリーを放棄して、金融庁が用いたフィデューシャリーを採用することにしたのです。
フィデューシャリー・デューティーというのは、少し前に、資産運用の担い手の受託者としての責任といわれていたものと同じでしょうか。
「金融・資本市場活性化有識者会合」が今年の6月12日に発表した「金融・資本市場活性化に向けて重点的に取り組むべき事項」と題する提言では、以下のように、いわれていました。
「資産運用の担い手が投資家に対する受託者としての責務を真に認識し、投資のプロとしての専門性を発揮し、真に投資家の利益の最大化を目指した運用が行われるよう、幅広い方策の検討を進める」
今回の金融モニタリング基本方針では、この「資産運用の担い手」を「フィデューシャリー」と呼び、「受託者としての責務」を「デューティー」と呼んでいるわけで、二つは、基本的には、同じものです。
金融庁は、フィデューシャリー・デューティーという言葉に注釈をつけていますね。
金融モニタリング基本方針には、フィデューシャリー・デューティーに関して、以下のように書かれています。
「家計や年金、機関投資家が運用する多額の資産が、それぞれの資金の性格や資産保有者のニーズに即して適切に運用されることが重要である。
このため、商品開発、販売、運用、資産管理それぞれに携わる金融機関がその役割・責任(フィデューシャリー・デューティー)を実際に果たすことが求められる。」
そして、フィデューシャリー・デューティーには、次のような注がついています。
「他者の信認を得て、一定の任務を遂行すべき者が負っている幅広い様々な役割・責任の総称。」
金融庁の注は、高度に抽象的で、注としては、役に立たない感じですね。具体的には、何を意味するのでしょうか。
金融庁のつけた注に、さらに注を付けるという僭越な行為を、敢えてしてみましょうか。
例えば、ある人(委任者)が、何かの仕事を、他人(受任者)に依頼するとして、その仕事が個別具体的に特定されていれば、委任者の信頼が裏切られる可能性は小さいでしょう。
では、仕事の執行に関して、受任者の裁量が働く、あるいは、受任者が適切な裁量を働かせなければならない場合は、どうでしょうか。裁量は、専らに委任者の利益のためになすという責任のもとで、行使されるわけで、このとき、受任者は、委任者の信認を受けたものとして、フィデューシャリーと呼ばれ、フィデューシャリーが負う責任は、フィデューシャリー・デューティーと呼ばれるのです。
従って、フィデューシャリー・デューティーとは、専らに委任者(顧客)のために働くものが負う責任として、理解されるべきです。日本法との関係では、忠実義務が一番近いもので、具体的な内容としては、利益相反取引の禁止に関連したものが多くなります。
特に問題となるのは、受任者が職務の執行に関して受ける報酬等(委任者から直接に受ける報酬や、取引に関連して間接的に受ける利益や報酬などの総体)の適性性です。よりはっきりいえば、委任者(顧客)の負担のもとで、受任者(フィデューシャリーとして業者)が不当な利益を得ていないかどうかの検証ということになります。
なぜ、資産運用に関連して、フィデューシャリー・デューティーがでてくるのでしょうか。
歴史的に、フィデューシャリー・デューティーは、英国の中世において、財産管理を他者の一任に委ねたことに起因する紛争の解決から、生まれたからで、もともと、資産の一任管理、即ち、業としての資産運用に関連して発展してきた概念なのです。
実際、資産運用の委任契約ほど、受任者の裁量が大きく、また、それが委任者の利益に与える影響の大きいものは、他にないでしょう。敢えていえば、あとは、医療行為くらいでしょうか。フィデューシャリーとしての医師の責任は、患者(委任者)の立場からいえば医師の一任に命を預けるわけですから、極めて重いものです。そして、命の次に重いのは、やはり、財産でしょうか。
具体的に、資産運用におけるフィデューシャリー・デューティーとして、何が問題となるのでしょうか。
一番大きな論点は、受任者(フィデューシャリー)が受ける直接・間接の報酬の合理性と、受任者が自己を相手として行う取引の正当性です。
具体的には、金融モニタリング基本方針のなかで、「顧客ニーズに応える経営」として、「手数料や系列関係にとらわれることなく顧客のニーズや利益に真に適う金融商品・サービスが提供されているか」を検証していくとされていることに、帰着します。
投資信託を例にとりましょう。
ある大手銀行が販売する投資信託について、銀行が徴収する販売手数料と残高比例の信託報酬の額が、販売会社としての役務の提供内容に照らして、十分に合理的なものといえるか、不当に高すぎはしないか、また、その投資信託を運用する会社が銀行と同じグループに属する場合(自己取引)は、その投資信託の選択において、グループ企業の利益を優先する意図がなかったのか、これらの論点を、金融庁は、検証していくといっているわけです。
ところで、金融庁のいうフィデューシャリー・デューティーと英米法の原義との関係は、どうなっているのでしょうか。
さあ、そこのところは、よくわかりません。今後、金融庁と資産運用に携わる者との間の建設的な対話を通じて、英米法の原義をいかしつつ、構造の全く違う日本法のなかへ、一種の商慣習というか、商業道徳のような形で、あるいは、業界自主規制として、一定の規範性をもつものが形成されてくるのではないでしょうか。
間違いなくいえることは、フィデューシャリー・デューティーは、英米においては、英国の中世に遡る長い歴史のなかで、判例法として、即ち、実定法として、詳細な内容の確定をみている法概念であるのに対して、日本では、実定法に根拠をもたないことです。
にもかかわらず、規制当局である金融庁が、わざわざ、日本の実定法概念から離れて、フィデューシャリー・デューティーをもちだした以上は、金融庁が目指す資産運用の高度化のためには、法を超えた倫理規範の確立が必要だということなのです。
例えば、投資信託の販売において、何等の法令上の疑義がなくとも、実態として、役務の提供に要する原価をはるかに超えた法外な報酬が徴収されていれば、そこには、何らかの顧客の視点に立った是正措置が講じられなければならない。それは、もはや、法令による対応を超えたところで、なされなければならない。つまり、フィデューシャリー・デューティーの自覚として、なされなければならない。要は、そういうことでしょう。
最後に、金融モニタリング基本方針には、「家計や年金、機関投資家が運用する多額の資産」とありますが、年金というのは、直接的には、金融庁の所管ではないですよね。
家計の資産は、大半が預金と保険となっていて、残りが投資信託です。それは、第一に、機関投資家としての銀行と保険会社という位置付けのなかで、第二に、投資信託の改革のなかで、資産運用の高度化につながっていきます。
公的年金や企業年金などの年金基金は、それ自体が機関投資家なのですが、確かに、金融庁の所管ではなく、厚生労働省の所管です。ところが、年金資産は、金融庁所管の金融機関によって、運用されていますので、金融庁の立場は、それらの金融機関に対して、資産運用の高度化を求める構図になっています。
その場合、年金基金には、フィデューシャリー・デューティーは、課せられないのでしょうか。
英米法のもとでは、年金基金は、当然に、フィデューシャリーであり、そもそも、年金基金の資産運用においては、第一義的に重いフィデューシャリー・デューティーが課せられるのは、年金基金自身です。
金融庁は、「商品開発、販売、運用、資産管理それぞれに携わる金融機関」という表現のなかで、フィデューシャリーを、自己の所管する金融機関に限定しています。これは、おそらくは、厚生労働省の所管に踏み込まない(というよりも、踏み込めない)ことから、意図的に、そうしているのでしょう。
しかし、フィデューシャリー・デューティーが実定法に基づかない概念であることを考えると、ここは、官邸主導で、厚生労働省においても、年金基金に対するモニタリング基本方針のようなものを策定して、そこに、金融庁と連携のうえ、年金基金のフィデューシャリー・デューティーを謳うべきなのです。
なぜ、それができないのか。私は、いつも、厚生労働省のセンスのなさというか、意識の低さについては、失望させられます。今、まさに、公的年金の資産運用について、GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)のフィデューシャリー・デューティーが問われているときに、なぜ、適切な施策が打ち出せないのか。
いっそのこと、年金基金の資産運用は、金融庁の所管にしてもらえないだろうか。そのほうが、日本のためになります。安倍総理は、縦割り行政を断固として排するといわれているはずですが。
以上
次回更新は10月30日(木)になります。
2014/10/16掲載「三井住友銀行で一番売れている投資信託」
2014/10/09掲載「金融庁に「高度化」を求められた資産運用の貧困」
2014/10/02掲載「金融モニタリング基本方針の画期的な意義」
2014/07/03掲載「受託者としての資産運用の担い手」
2014/04/10掲載「信託受託者の忠実義務を徹底的に考える」
2014/04/03掲載「信託に厳格な受託者責任を課すために」
2014/03/27掲載「ファンドのディレクターとトラスティー」
2014/03/20掲載「国際金融センターへの挑戦と信託」
2014/03/13掲載「GPIF改革、あるいは投資家の内部統治と信託」
2014/03/06掲載「投資信託は本当の信託なのか」
2014/02/27掲載「投資詐欺事件における信託銀行の責任」
2014/02/20掲載「信託の合同運用における法創造」
2014/02/13掲載「信託の受託者の忠実義務」
2014/02/06掲載「金融危機さなかの信託銀行批判」
2014/01/30掲載「企業年金の資産運用におけるフィデュシャリーの責任」
2014/01/23掲載「九州石油業厚生年金基金訴訟に思う」
2014/01/16掲載「フィデュシャリー、あるいは信じて託すること」
2014/01/09掲載「トラスト、あるいは信託の本旨」
≪ アーカイブから今週のお奨めは「住宅ローン」≫
2013/06/12掲載「住宅金融あれこれ」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。