投資信託の販売が単なる手数料稼ぎに堕さないために

投資信託の販売が単なる手数料稼ぎに堕さないために

森本紀行
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投資信託の販売については、顧客と金融機関との間に大きな情報量の差がある以上、顧客の利益にそぐわない営業が行われうる、これが金融庁の基本認識です。なかでも特に問題視されるのが、手数料や系列関係にとらわれた営業姿勢です。さて、投資信託は、金融機関の単なる手数料稼ぎなのか、そうでないことを証明するためには、何が、どう、是正されなくてはいけないのか。

 
 投資信託の手数料等の費用の問題については、もはや、よく知られたことです。銀行や証券会社による投資信託の販売姿勢については、一方で、法外な手数料等を得ることを目的とした犯罪的行為とする意見があり、他方で、顧客は手数料等の費用の総額を承知のうえで投資しているのだから、何ら問題はないとする意見があります。
 問題を、表層的、あるいは形式的にとらえれば、もちろん、後者の意見が正しいのです。仮に、実質において手数料稼ぎの暴利行為であったにしても、そこには、「金融商品取引法」上の違法の事実はなく、手続きの形式要件を充足している以上、金融機関の行為の犯罪的性格を論じる余地はないわけです。
 のみならず、金融機関が巨額な手数料等を得ているのならば、当然の事実として、顧客による巨額な投資信託の購入がなされているのですから、そこには、何らかの顧客の支持がなければなりません。全くの顧客不在では、そもそも、手数料稼ぎ自体が成り立たないはずなのです。
 

しかし、手数料等の水準は、不当に高いといわれてもしかたない場合が多いのではないでしょうか。

 
 例えば、よくある例ですと、税抜で、販売時の手数料が投資額の3.0%、毎年発生する信託報酬が1.7%くらいです。これで、3年間投資しますと、税込みの手数料等の総額は8.7%で、年率約2.9%です。従いまして、年率3%の投資実績でも、実質0.1%にしかなりません。
 年率3%の期待収益率というのは、金利がゼロにも近い日本では、極めて高いものであって、当然に、それなりの損失の可能性をも内包しています。そのような危険を冒して、たかが0.1%では、投資としては、合理性を欠いたものといわざるを得ず、そのようなものが売れるとも思えません。
 手数料等が合理的な水準となるためには、期待収益率を大幅に引き上げないといけません。例えば、年率6.0%ならば、手数料等を控除しても、年率3.1%になり、それなりの納得感が出てきます。現実に、売れ筋といわれる投資信託は、期待収益率の高いものが多い、つまり、潜在的な損失の可能性も大きなものが多いのです。
 そこで、ここには、高い手数料等の水準を維持するために、大きな危険を顧客に押し付けるような商品設計と販売政策が隠されているのではないか、そのような疑義が生じるわけです。
 

顧客は、大きな損失の可能性を理解しているのでしょうか。

 
 それは、顧客の理解を得ているということの意味によるのではないでしょうか。法令等並びに販売会社の内規等に基づいた適切な説明が顧客になされ、顧客が説明を受け、かつ内容を確認したことを示す確認書等が完備されていること、それが顧客の理解の意味だとしたら、顧客は理解しているのです。少なくとも、反対の事実は、おそらくは、証明し得ないでしょう。
 

では、投資信託の現状は、是認されるのでしょうか。ならば、なぜ、金融庁は改革を求めるのでしょうか。

 
 金融庁は、より高い理想を求めているのです。低い視点から是認されるものも、高い視点からは、是認されないのです。
 金融庁は、単なる「顧客ニーズ」や、単なる「顧客の利益」をいっているのではありません。それは、「金融モニタリング基本方針」を少しでも注意深く読めば、すぐにわかることです。金融庁はいっています、「真に顧客のニーズに応え」、あるいは「顧客のニーズや利益に真に適う」と。この「真に」は、決して冗語ではありません。
 つまり、金融庁からしても、形式的な要件充足を問題とする限り、投資信託の現状は、顧客のニーズや利益に反しているとはいえません。しかし、真の顧客のニーズや利益を、実質の次元において、問題とする限り、金融庁にしても、私にしても、投資信託の現状を是認することはできないのです。
 

ルールに適合していても、プリンシプルには反するということですね。

 
 私は、金融庁の「金融モニタリング基本方針」に対して、多大なる敬意を感じています。そこには、ルールからプリンシプルへ、という行政手法の抜本的改革の視点があります。この思想は、金融庁の行政だけではなくて、是非とも、全ての行政に採用してほしいものです。
 従来の金融規制の考え方では、真の顧客のニーズに適合していなくとも、十分に説明がなされ、顧客が説明を確かに受けたという事実の確認があれば、販売された投資信託は、形式的に顧客のニーズに適合していたことになったのです。つまり、営業政策に基づく既定の商品先にありきでも、真の顧客のニーズにそぐわない場合でも、ルールを遵守した説明がなされている限り、形式的には、顧客のニーズとの適合を擬制できたのです。
 これに対して、プリンシプルとは、原理原則であり、行動指針です。ルールのもとでは、説明で済みましたが、プリンシプルのもとでは、説明ではなくて、真の顧客のニーズ先にありきで、対話を通じて十分に顧客ニーズを聞き出したうえで、顧客の視点に立った提案がなされたのかという実質の検証が求められるのです。
 

金融庁が新しく導入したフィデューシャリー・デューティーとの関係は、どうなるのでしょうか。

 
 フィデューシャリー・デューティーというのは、英米法の概念ですが、敢えて日本法に置き換えれば、専らに顧客の利益のために働くべきとの忠実義務に該当します。もちろん、日本にも忠実義務がありながら、敢えてフィデューシャリー・デューティーを導入するのは、そこには、日本伝統の忠実義務に収まらないものを含むからです。
 フィデューシャリー・デューティーを投資信託の販売に適用すれば、専らに顧客の利益のために、真の顧客のニーズを踏まえたうえで、適切な投資信託の選択と提案がなされるべきこと、そのようなプリンシプルが導かれます。こうして、プリンシプルとしての忠実義務を導かなくてはならないのは、投資信託の販売会社にルールとしての忠実義務を課すことは、「金融商品取引法」等の構造からして、困難だからなのです。
 では、フィデューシャリー・デューティーは、法律的強制力がなく、無意味なのかといえば、そうではなくて、日本の忠実義務の内包を豊かにしていくために、行政のひとつの指針として、機能するものなのだと思われます。行政指針は、判例形成に影響を及ぼしていくことを通じて、時間をかけて、立法に替わる法創造の機能を果たしていくのでしょう。
 

投資信託の手数料等の関連でいえば、フィデューシャリー・デューティーは、どのような意味をもつでしょうか。

 
 フィデューシャリー・デューティーの最も重要な内容の一つに、手数料等の合理性の確保があります。合理性は、水準の問題ではありません。高額な手数料を徴収するには、それに見合う役務の提供がなければならないという要請です。
 ところが、現在の投資信託の手数料等を、フィデューシャリー・デューティーの視点からみるならば、合理性を欠いているのではないかと推察される事案は、決して、少なくないのです。
 

例をあげてください。

 
 野村證券のウェブサイトによれば、現時点での販売額一位(現時点というよりも、長いこと一位にあるようですが)とされているのは、「アムンディ・欧州ハイ・イールド債券ファンド(トルコリラコース)」というものです。
 これは、主にユーロ建ての低格付け社債に投資するものですが、通貨をトルコリラに転換することで、ユーロとトルコリラの金利差を上乗せしており、投機的ともいえるほどに期待収益を高めた(実質的に期待収益が大きいかどうかわかりませんが、少なくとも表面的には)仕組みになっています。まさに、日本の投資信託の現状を象徴するような商品であり、同時に、手数料等の構造も典型的なものです。
 まず、販売時手数料は購入額の3.5%(税抜)、加えて、毎年、残高に対して1.01%(税抜)の信託報酬がかかります。この信託報酬の内訳は、販売会社の野村證券に0.70%、運用会社のアムンディに0.28%、事務受託のりそな銀行に0.03%となっています。
 実際の運用は、アムンディが行っているのではなくて、同じグループに属する海外の運用会社が行っていて、そこに現地における運用報酬が発生しています。それが0.68%。結局、合計すると、年間の投資家負担は、年率1.69%(税抜)にもなるわけです。
 さて、3年間の投資期間を考えると、販売手数料等の累積総額は、投資額の8.57%(税抜)です。この水準が合理的かどうかは、主観的要素があって、判断が難しい。しかし、関係当事者間の配分については、合理性の議論は、それなりの根拠で成り立ちます。
 8.57%のうち、販売会社の野村證券に5.60%で、全体の65%、運用会社のアムンディに2.88%で、全体の34%、事務受託のりそな銀行に0.09%で、全体の1%と配分されます。また、アムンディのなかでは、全体の2.88%のうち、29%の0.84%が投資信託という箱の管理をしている日本法人へ、71%の2.04%が実際に運用をしている海外法人へ配分されています。
 

販売会社の取り分が突出して高いことについて、合理性が問われるということですか。

 
 まず、販売時の手数料については、さて、これは、どのような役務に対する合理的な対価なのか。役務の対価は、役務の価値を表してこそ、合理的なのですが、販売時において、販売会社は、どのような価値を顧客に提供しているのか。
 販売会社が全く価値を提供していないとは、金融庁といえども、決めつけることはできないでしょうが、さて、手数料水準を合理化できるような価値が提供されているかについては、疑問があります。
 疑問は疑問にすぎないわけで、要は、疑問は解消されればいい。少なくとも、販売会社の立場として、金融庁並びに顧客に対して、合理的な説明ができればいいということです。ただし、私の感覚では、合理的な説明は、かなり難しいのではないかと思われますけれども。
 

毎年の信託報酬のなかでも、販売会社の取り分が高すぎるようですが。

 
 信託報酬は、原理的に、資産運用にかかわる経費です。そこには、運用会社の報酬が含まれるほか、事務管理をしている信託銀行の報酬も含まれます。では、なぜ、運用をしていない販売会社が報酬をとるのかといえば、運用報告書の送付や配当金の支払には、事務経費がかかるからとされています。
 さて、問題は、その報酬が、運用会社の報酬と変わらないほど高いことについて、合理性があるのかということです。確かに、投資信託は、多数の小口の顧客の資金を集めたものですから、窓口としての販売会社には事務経費負担がかかることは、ある程度は、仕方のないことですが、さて、これほどに、費用がかかるのか。これも、販売会社が合理的に説明できればいいことですが、さて、どうなのでしょうか。
 

運用報酬はどうでしょうか。

 
 おそらくは、実際に運用をしているアムンディの海外法人の報酬は、合理的な水準にあるのでしょう。しかし、投資信託という箱の管理をしているにすぎないアムンディの日本法人の取り分について、どのような合理性があるのか、私には、わかりません。
 

役務の内容と対価との間の合理的連関が問題だとすると、販売方法や商品設計の差が手数料等の水準に反映していないといけませんね。

 
 インターネットを通じた申し込みによる販売と、対面営業による販売とで、販売時手数料が同じである場合も珍しくない現状については、誰がどう考えても、そこに合理性を認めることはできないでしょう。同様に、無分配型の投資信託と、毎月分配型の投資信託とで、信託報酬における販売会社の取り分が同じであるというのも、そこに合理性を認めることはできません。
 こうした非合理は、現状、投資信託の販売や商品設計のなかで、いくらでも、見つけることができるはずです。今、直ちになされなければならないことは、顧客の視点に立って、全ての非合理を排して、役務と報酬との間に合理性を確立することです、その是正の過程のなかで、必ずや、水準の合理性についても、検証がなされ、是正が進んでいくでしょう。
 そうならない限り、投資信託の健全な発展はあり得ません。
 
以上

 
 次回更新は4月2日(木)になります。
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森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。