プロフェッショナルの代表例は、弁護士です。弁護士は、大きな弁護士事務所に所属していても、業務は、個人としての弁護士の資格と責任において、行うのです。弁護士の資格は、法定のもので、その要件を満たすためには、狭き難関を突破しなければなりません。それは、いうまでもなく、高度な専門的な知見が要求される業務だからです。要は、プロフェッショナルとしての弁護士とは、法曹の分野において高度な専門的知見を有した個人としての職業人なのです。
医師や会計士など、法定の資格要件を備えなければならない職業人は、弁護士と同様に、全てプロフェッショナルです。法定資格要件があるのは、いずれも、特定の分野において、高度な専門的知見が要求される業務だからです。そして、資格が個人の資格である以上、弁護士同様に、法人に所属していても、個人の責任において、業務を行うのです。
プロフェッショナルは、なぜ、個人としての責任において、業務を行わなければならないのでしょうか。
資格が個人の資格であるから、というのは、おそらくは、順番が逆なのでしょう。そもそも、高度な専門的判断については、個人の次元においてしか責任を負い得ないからこそ、個人の資格として法定されているのだと考えられます。
つまり、例えば、弁護士として、ある法律上の判断をするとき、大きな事務所に所属しているのであれば、周りの弁護士と相談し、また先輩弁護士から指導を受けることもできるでしょうが、最終的な判断の責任は、事務所のものではなくて、弁護士個人のものだということです。他の弁護士の意見を参考にすることはできても、合議による責任の共有は起き得ないのです。
医師の判断にしても、弁護士の判断にしても、客観的に一つの正解があるのではありません。逆に、決まった答えがあるのなら、専門家の判断を仰ぐ必要もないでしょう。専門家の間で意見が割れることについて、それぞれが真の知見ある専門家ならば、合意の形成はあり得ません。故に、個人責任に帰着するしかないのです。
プロフェッショナルの責任とは何でしょうか。
弁護士にしても、医師にしても、法定資格であるプロフェッショナルは、専門家としての高度な注意義務を負います。これは、プロフェッショナルが専門性を前提にしたものである以上、当然のことです。つまり、専門家として知っているべきことを知らず、また専門家としての合理的推論に反して行為するのならば、注意義務違反に問われるのです。
しかし、より重要な責任は、忠実義務です。これは、専らに顧客のために働くべしという、当然至極のことです。英米法では、これを、フィデューシャリー・デューティー、つまり、フィデューシャリーとしての義務と呼ぶのですが、フィデューシャリーというのは、他者の信任を得て職務を遂行する人のことで、まさに、個人です。弁護士や医師は、代表的なフィデューシャリーです。
なぜ、ここで、英米法のフィデューシャリー・デューティーが登場するのでしょうか。
それは、金融庁が、投資運用業に携わるものに対して、フィデューシャリー・デューティーを求めているからです。弁護士は、プロフェッショナルであると同時に、フィデューシャリーです。投資運用業に携わるものは、投資のプロフェッショナルである以前に、少なくとも、フィデューシャリーではあるのです。
そもそも、プロフェッショナルとフィデューシャリーとの関係は微妙で、プロフェッショナルだからこそ、フィデューシャリーとしての責務を負うのか、フィデューシャリーとしての職務を適切に果たすために、プロフェッショナルとしての専門的知見が求められるのかは、何ともいい難いのです。
少なくとも資産運用に関する限り、歴史的には、フィデューシャリーとしての資産管理の責務が先にあって、資産管理手法の高度化とともに、フィデューシャリーには、資産運用のプロフェッショナルとしての高度な専門的知見が求められてきたのだと考えられるのです。
ところで、投資運用業は、「金融商品取引法」に規定された法定の登録業ですが、投資運用業に携わる個人には、法定資格はありません。それでも、プロフェッショナルでしょうか。
弁護士や医師は、むしろ、特殊なプロフェッショナルなのでしょう。一般に、プロフェッショナルといえば、特定分野における専門的技能や知見を有する職業人のことですから、野球のようなスポーツでも、職業として従事するのであれば、プロフェッショナルであるわけです。
同様に、投資に従事するものも、自分の財産を運用するのではなくて、業として他人の財産を運用するのであれば、そこに専門的技能や知見が必須である以上、投資のプロフェッショナルでなければならないのです。
しかし、プロ野球の選手になるのは、至難の業ですが、投資のプロフェッショナルなど、投資運用業者に勤務していればいいのですから、簡単なことです。それでも、プロフェッショナルでしょうか。
弁護士や医師のような法定資格に基づくプロフェッショナルは、確かに、高度な要件を満たさない限り資格を得られないのですが、資格のない人の参入が禁止されているので、競争制限による保護を受けている側面もあるのです。
ところが、資格のないプロフェッショナルの場合は、逆に、厳しい競争によって、常に、プロフェッショナルとしての実質的要件が高められていき、それを満たすことができないものは淘汰されていくことを通じて、専門的技能や知見の高度化が図られていくわけですから、法定資格によって保護されたプロフェッショナルよりも、職業人として、厳しい生き方を求められるといえるでしょう。
投資のプロフェッショナルも、野球のプロフェッショナルと同じで、非常に明確な数的指標で評価されるものですから、常に自己研鑽を積み、競争に打ち克って、プロフェッショナルの地位を獲得し、更に成長していかなくてはならないのです。
しかし、日本の投資運用業界の現実をみるとき、投資のプロフェッショナルとしての厳しい生き方をしている人は、どれほどいるのでしょうか。
非常に残念なことではありますが、日本には、投資のプロフェッショナルという言葉に値する人は、数えるほどしかいない、あるいは、数えるほどもいない、それが現実です。
自明極まりないことですが、資産運用に携わるものがプロフェッショナルであり得るためには、投資の専門的能力の発揮に基づく仕事の質の差が評価され、その質の差が長期的に成果の差として実現していくことを通じて、優れたもののみが成長し、そうでないものは淘汰されていくような厳しい環境が必要です。
しかし、日本の投資運用業界では、そのような環境で働くものは、稀なのです。その稀な人々のなかから、真のプロフェッショナルの領域に達している人を選べば、ほんのわずかしか残らないわけです。
問題は、投資の質による競争が希薄であることです。しかも、問題は二重です。第一に、企業としての投資運用業者間に、投資の質による真の競争がなく、第二に、一つの組織としての投資運用業者のなかの個人間にも、投資の質による真の競争がないのです。
競争の前に、企業としての投資運用業者と、そこに所属する個人としてのプロフェッショナルとの関係を説明してください。
ゴルフのプロフェッショナルは、個人で仕事をするのですが、野球のプロフェッショナルは、組織で仕事をします。投資のプロフェッショナルは、野球と同じように、異なる専門性をもつものが有機的に結合されるように、組織として行動しなくてはなりません。それは、投資の対象とすべき領域は、いかに範囲を限定しても、個人一人では対応できないほどに、広く複雑だからです。
さて、責任の負い方ですが、野球のプロフェッショナルが、自分の役割において、個人として全動作の責任を負うのと同様に、投資のプロフェッショナルも、各自の投資判断については、全責任を負います。しかし、野球の勝ち負けは、組織の責任であり、最終的には監督の責任です。同様に、投資の成果は、組織としての投資運用業者の責任であり、最終的には社長の責任です。
投資のプロフェッショナルは、結果に責任を負わないのでしょうか。
結果責任を個人に負わせたら、決断できなくなります。組織として結果責任を負い、個人として投資判断の決定責任を負うからこそ、資産運用が成り立つのです。逆に、投資判断は、プロフェッショナル個人の熟練を通じた高度な専門的知見に裏付けられた確信の上にしか、形成され得ません。
しかし、人は、心理的に弱いものです。資本市場では予想できないことが絶えず生起して、運用者の確信を揺さぶるのです。その個人の弱さを支えるのは、組織の統制です。規律ある個人の行動は、組織の力によって、確立されるのです。運用の成果を規定するものは、より多く、その組織の力なのです。故に、結果責任は、組織に帰属するのです。
では、なぜ、日本では、競争がないのでしょうか。
投資運用業者のもとには、投資の質によってのみ、運用資産が集まってくるのでなければなりません。そうではなくて、投資信託においては、販売会社に従属するような形で資産を集め、企業年金等では、親会社の銀行や保険会社の力によって資産を集めているのでは、投資の質における競争は起き得ません。
また、組織の経営において、プロフェッショナルの個人責任の意味が理解されず、合議による決定という不可能な幻想のもとで集団的無責任が支配し、規律の替わりに規則の形式的遵守がなされているにすぎない状況では、プロフェッショナルは育ち得ないのです。プロフェッショナル個人の間の競争、切磋琢磨以前の問題です。
どうしたら、日本にも、投資のプロフェッショナルが育つでしょうか。
投資のプロフェッショナルが育つ環境を作らなければならない以上、投資運用業者の経営を刷新するほかありません。資産運用の能力のみによって成り立つ企業、つまり、完全に独立した企業へと、改革するほかないのです。問題は、改革を推進する経営人材です。
もしも、真の投資のプロフェッショナルにしか経営改革ができないとしたら、そのような人材が希少な日本では、改革の担い手をみつけることが困難となります。それでは、改革は起きない。ここは、どうしても、どこからか、優秀な経営人材をもちこむほかないのです。
人材は、いるでしょうか。
いないというわけにはいきません。野球と同じで、超一流の選手が優秀な監督になれるのでもなく、現役時代には目立った実績のなかった選手でも超一流の監督になり得るように、プロフェッショナル個人としての投資判断の能力と、プロフェッショナルを統制する能力とは、次元が異なるのですから、どこかに、人材はいるでしょう。
変革の起動力は何でしょうか。
いうまでもなく、フィデューシャリー・デューティーの徹底です。フィデューシャリーとして、専らに顧客の利益のために働くことを徹底する、そのことを通じてしか、投資のプロフェッショナルとしての高度な専門的知見が形成されることはなく、投資の質の高度化もないのです。
今、日本の投資運用業界の経営者に求められていることは、フィデューシャリー・デューティーの徹底なのです。それができない会社は、顧客の選択によって淘汰されていく、そのような社会にしない限り、日本の投資運用業に未来はありません。
2015/06/18掲載「資産運用の能力とは何か」
2015/05/07掲載「金融機関の経営者に資産運用がわかるのか」
2015/04/23掲載「みずほの資産運用能力と作文能力」
2014/12/25掲載「ルール遵守で馬鹿になった金融機関」
2013/08/15掲載「You Can Do Anythingという責任と規律」
2010/10/28掲載「資産運用に腕前の良し悪しはあるのか」
≪ アーカイブから今週のお奨めは「ライフサイクル金融」≫
2013/06/20掲載「住宅金融と生涯生活設計」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。