福島の事故をみると明らかですが、大規模な原子力事故が起きたときの損害賠償債務額については、事前には予測不能です。事前にわかることといえば、賠償債務額は、民間の事業者としての負担限界をはるかに超えて、巨額に達するものになり得るということだけです。
原子力事業者にとっては、このような巨大な不確実債務を負うかぎり、資金調達は不可能になります。なぜなら、資金を供給する側の金融界の論理として、万が一の事故の発生によって、原子力事業者は巨額な債務超過となり、全ての金融債権が履行不能に陥る可能性があるような事案には、資金を供給できないからです。
もしも、資金調達ができなければ、原子力発電所の建設もできないのですから、原子力事業の遂行も不可能になります。このことは、日本が、国策として、原子力事業の開始を決意したときに、直ちに、根本的な難問として、浮上したのです。
そこで、「原子力損害の賠償に関する法律」が制定されたのですね。
原子力損害賠償については、特別法によって、一般の損害賠償とは異なる枠組みを作らない限り、原子力事業者による資金調達は不可能である、このことは、民間の事業として原子力事業を行っている国の共通の課題です。日本の「原子力損害の賠償に関する法律」もまた、そのような課題に対する答えとして制定されているのです。
実際、福島の事故において、この法律は、民主党政権下の極めて不適切な対応にもかかわらず、最終的には、有効に機能しました。
具体的には、法律の第十六条に定める政府の援助義務に基づき、政府が賠償債務を一時的に肩代わりする措置が取られたのです。故に、東京電力の資金調達の道が絶たれることはなかったのです。結果として、電気事業は継続され、電気の安定供給義務も果たされました。
そして、何よりも決定的に重要なことは、こうして、法律に規定された政府援助により、東京電力を存立させたが故に、政府が肩代わりしている巨額な負債についても、東京電力の将来収益によって完全に弁済できる目途がたつに至ったことです。
結果として、原子力事故に起因する損害を受けられた被害者への賠償履行、その賠償費用の国民負担の最小化、電気の安定供給、金融債権の保全など、全体として、合理的で望ましい解を得るに至ったのです。
しかし、国民の理解不足もあり、また、民主党政権の対応能力に大きな問題もあり、最終的な落着に至るまでの混乱は非常に大きかったですね。
私は、法律の主旨に基づき、多数の論考を発表し、当時の政府の対応を厳しく批判しました。そのときの記録は、『福島原子力事故の責任 法律の正義と社会的公正』(2012年9月日本電気協会新聞部刊)に纏められています。
膨大な議論の詳細については、拙著を参照願うほかありません。要点を一点に凝縮すれば、原子力損害賠償責任について、法律上、それが政府と東京電力との特殊な連帯債務であることに疑義はないのですが、どちらが主たる責任を負うかについて、決定的な対立があったということです。
民主党政権は、一貫して、東京電力に第一義的責任があるといい、私は、一貫して、政府責任が主で東京電力の責任は従であると主張しました。この問題は、最終的には、安倍総理大臣が、政権発足直後に、政府が前面にでると宣言されることによって、私の主張通りに、政府責任が主になることで決着します。
実は、この論点は、既に、「原子力損害の賠償に関する法律」立法時の最大の争点だったわけで、当時の政府の財政事情等との関連において、曖昧な条文の構成で政治決着したことが禍根を残し、実際に、大問題として露呈したのです。
経験を踏まえて、今まさに「原子力損害の賠償に関する法律」の改正作業が行われているのでしょうが、改正の論点は何でしょうか。
最大の論点は、少なくとも金融の論理からいえば、法律の適用の予測可能性を高めることです。現行法の欠陥は、実は、予測可能性が全くなく、実際に、福島の事故においては、法の適用を巡って、無用の大混乱を招いたことなのですから、これは、当然のことです。
実は、政府と原子力事業者の責任の主従関係は、この予測可能性との関連において、決定的な論点となるのです。つまり、巨額な偶発債務については、発生時において、政府責任を主として第一次処理をし、その後、政府と原子力事業者との間で、原子力事業者の負担能力に応じた第二次処理をしない限り、全くもって、予測可能性などあり得ないということなのです。
原子力事業者の債務超過を回避することが要点なのですね。
もしも巨額な損害賠償債務の発生を即時に認識するならば、原子力事業者は、確実に、巨額な債務超過になります。金融機関の対応としては、まさに、原子力事業者が巨額な資金を必要とするときに、資金を供給できなくなります。故に、政府が一時的に債務を肩代わりするなどして、事業者の債務超過を回避させる対応が必要なのです。
実際、東京電力に対してとられている現在の措置では、賠償債務を政府が一時的に肩代わりし、東京電力の負担能力に応じて、順次求償することで、東京電力の債務超過を回避させて、電気の安定供給と、賠償債務履行事務の遂行を確実ならしめるようにしているのです。
具体的に、法律改正においては、どの箇所が問題になるのでしょうか。
実は、現行法の第十六条は、第一項において、政府による「必要な援助」の義務を定めるものの、その内容については、第二項において、「国会の議決により政府に属させられた権限の範囲内」としているので、事前の予測可能性は、全くないのです。
民主党政権は、この援助の意味を、東京電力の責任が主で政府責任が従であるとの意味に用い、故に、東京電力に第一義的責任があると宣言したのですが、実際には、第二項に基づいて「原子力損害賠償支援機構法」(今の「原子力損害賠償・廃炉等支援機構法」)を制定したときは、賠償責任を政府が一時的に肩代わりする措置をとったわけで、事実上、政府責任を主とする構成にしたのです。
論理的に、こうならざる得ないことは、さすがの民主党政権も理解していたわけで、ならば、最初から、安倍総理大臣のように、政府が前面にでるといえばよかったのです。
以上の経緯からしまして、問題の核心は、事前に、政府による「必要な援助」の具体的内容を定めておくことです。その定め方は、実際に、福島の経験において、政府がとった措置を基礎に、必要な改善を行えばいいのではないでしょうか。いわば、大筋での東京電力の現状の追認ということです。
なお、念のために付け加えれば、東京電力の措置については、当時も今も、政府による救済という見方が根強くありますが、これは、全くもって不当な理解であって、法律に基づく政府の義務の履行としてなされたものであること、このことを、法律改正においては、明らかにすべきです。
要は、現行法制定時の議論に戻り、本来のあり方にすればいいのですね。
現行法の決定的な欠陥は、制定当時の諸事情を考慮のうえ、敢えて政府責任を事前に明確にすることを避けたことなのです。これについては、当時の政府の力では経済的な責任を負い得ないという財政事情と、民間事業者の債務を政府が肩代わりすることは不適切であるという形式的論理とが、背景にあったのです。
しかし、当時から既に、国策遂行において、被害者の賠償について直接に政府が責任を負うことは当然であるとの有力な意見もあり、法律案の検討段階においては、政府が賠償責任を負ったのち、原子力事業者に求償するという案もあったのです。
いずれにしても、福島の事故の後、この論点を蒸し返すのは不毛です。もはや、政府責任を不明確にしたままでは、原子力事業の継続は困難です。このことは、誰の目にも明らかです。
では、政府は、どこまでの責任を負うことを明らかにすべきなのでしょうか。
その問いは、二つに分けられます。第一に、損害賠償責任について、範囲を画するのか、いいかえれば、責任に上限を設けるのか。第二に、責任の総額について、政府と原子力事業者との負担割合をどう決めるのか。
第一の論点については、現行法は、無限責任としています。これは、賠償責任を厚くすることで、国民の理解を得て、原子力事業の健全なる発展を期するためにとられた政策判断の結果です。しかしながら、福島の事故の経験を踏まえると、何らかの責任範囲の限定も必要だとの有力な見解も登場してきているようです。
確かに、一方では、事前に、賠償対象となる損害の基準を明示しておくことは必要でしょうが、他方では、対象となる損害については、限界を設けることには異論も多いと思われます。実際、これを有限責任に改めることについては、国民の理解を得ることは難しく、かえって、原子力事業の継続を困難にする可能性も大きいように思われます。
ただし、責任の全体において無限責任であることと、原子力事業者の責任を有限化することとは、別問題です。そこで、第二の論点として、無限責任を維持しながら、どのようにして、政府と原子力事業者との負担割合を決めるべきか。
原理的に、方法は、二つしかないでしょう。政府と原子力事業者の両方が、一定の負担割合で、無限責任を負うか、政府または原子力事業者の一方の責任を有限化して、他方に上限を超える部分の責任を無限に負わせるか、この二つです。
金融の論理からいえば、いうまでもなく、原子力事業者の責任の有限化が望ましいのです。ならば、最善の策は、原子力事業者の責任を有限化し、それを超える部分についは、無限に政府が責任を負うことです。
さて、これから先の検討には、微妙な政策判断が必要です。なによりも、原子力事業者の責任に上限を設けるとしても、それを低く設定する、つまり、政府の無限責任を厚くするためには、国策としての原子力事業の推進についての幅広い国民の支持が必須だからです。この点、現在の世論動向からすれば、原子力事業者の責任上限は、かなり高いところに設定しない限り、国民の理解を得にくいのかもしれません。
また、これは、技術論にすぎないことですが、原子力事業者の責任は、個社が負う部分と、原子力事業者全体で相互扶助的に負う部分とに、二つに分けるほうがよいのだと考えられます。これも金融の論理からは、保険制度を通じて原子力事業者全体に危険を分散する範囲を大きくしたほうが、個社への金融の取り組みがしやすいからです。
2013/1/17掲載「産業金融の理念」
2012/12/26掲載「脱原子力は原子力以上にバンカブルではない」
2012/12/20掲載「原子力発電はバンカブルではない」
2012/11/08掲載「貸せない先に貸してこその銀行」
2012/10/25掲載「電気事業の自由化と技術革新における金融の働き」
2012/09/27掲載「今の電力会社に新規融資は可能か」
≪ アーカイブから今週のお奨めは「資金調達の高度化」≫
2014/07/17掲載 「オブジェクトへの金融」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。