大学生や大学院生のうち、あるいは、金融界などで働く人のうち、投資のプロフェッショナルを目指している人は、どれほどいるのでしょうか。そもそも、投資のプロフェッショナルが何であるのか理解されていない現状、また、見本となるべき投資のプロフェッショナルを見かけることも稀な現状では、それを目指す人など、わずかなのだろうと思われます。
勘違いといいますか、心得違いといいますか、妙な幻想か憧れで、相場でうまいことをして儲けたいという人なら、掃いて捨てるほどいるのではないでしょうか。
投資のプロフェッショナルは、投資を職業として行う人、即ち、他人である顧客の資産を運用する専門的職業人のことですから、自分の資産を上手に運用しようとする人は、仮にいかに上手でも、そもそも、投資のプロフェッショナルではありません。
投資のプロフェッショナルを投資のプロフェッショナルならしめる根源的要素は、他人の資産を運用するということであり、そのことに基づく重大な責任を負うということです。この責任は、昨年、金融庁が英米法の理念と用語を輸入して以来、フィデューシャリー・デューティーと呼ばれているのですが、伝統的な日本法の用語でいえば、忠実義務のことです。要は、専らに顧客の利益のために働くべしという当然至極な義務のことです。
忠実義務に替えてフィデューシャリー・デューティーと呼ばれるに至ったのは、忠実義務は、単なる精神規定に堕すのが普通で、実効性を伴わないのに対して、それに強い履行強制力を付与するためです。金融庁は、この点について、フィデューシャリー・デューティーが実際に果されることを求めると明瞭に述べています。
また、フィデューシャリー・デューティーという用語の構造にも、注意が必要です。フィデューシャリー・デューティーとは、フィデューシャリーが負う責任のことであって、フィデューシャリーというのは、他人の信認を得て職務を遂行するもの、即ち、個人のことをいうのです。
投資のプロフェッショナルは、第一義的には、フィデューシャリーだということですね。
投資のプロフェッショナルは、投資の技術的能力以前の問題として、他人の資産を管理運用するというフィデューシャリーの責務から出発しなければならないのです。これは、英国の中世に遡る投資運用業の歴史的淵源でもあるのです。
フィデューシャリーは、他人の信認を受けて他人の資産を管理するものとして、専らに、その他人のために働かなくてはならない、そこでは、一切の自己の利益を考慮してはならない、他人の利益のために最善を尽くさなければならない、これが、フィデューシャリー・デューティーの中身です。
つまり、投資のプロフェッショナルとしての専門的な技能は、フィデューシャリー・デューティーを徹底することで、必然的に要請されてくるのであって、いかに高度な専門的技能を有していても、フィデューシャリー・デューティーを厳格に履行できないものは、投資のプロフェッショナルになり得ないということです。
日本の投資運用業では、投資の技術面ばかりが論じられてきたわけですから、フィデューシャリー・デューティーの導入は、業の根底を衝く革命的転換ですね。
日本の投資運用業の発展にとって、金融庁がフィデューシャリー・デューティーを導入したことの意義は、極めて大きいのです。いかに、投資の技術が優れていても、フィデューシャリー・デューティーがなければ、業としての投資運用業は、真の意味では成立しないからです。
実際、投資信託においては、販売会社や投資運用業者自身の利益のために、また、企業年金においては、母体企業および母体企業の親密先である銀行や保険会社の利益と、その子会社である投資運用業者自身の利益のために、運用がなされているとしたら、それはもう、投資の技術以前の問題として、投資運用業とはいえないのです。
日本の投資運用業の不幸な歴史は、その原点において、フィデューシャリー・デューティーを欠落させていたことです。昨年に金融庁によって端緒が与えられたフィデューシャリー革命は、今まさに、投資運用業の新生へ向けて、動き出したところです。
フィデューシャリー革命をもって、金融庁による規制の強化と考えるのは、根本的な大間違いであり、金融庁自身、そのようには考えていないはずです。規制の強化ではなくて、これは、日本の投資運用業を世界に通じる価値あるものにするために、業界自身が率先して行うべき創造的革新なのです。
ところで、組織としての投資運用業者と、そこに所属する個人としての投資のプロフェッショナルとの関係は、どうなるのでしょうか。
フィデューシャリーとしてのプロフェッショナルは、個人であって、組織ではありません。しかし、投資運用業者の組織は、フィデューシャリーとしてのプロフェッショナルの集団を中核とするものである限り、組織として、フィデューシャリーです。
ここで大切なことは、組織が先にあるのではなく、フィデューシャリーであり、プロフェッショナルである個人が先にあることです。投資運用業者に所属することによって、投資のプロフェッショナルになるのではありません。投資のプロフェッショナルとしての個人の確立があってこそ、その集合としての投資運用業者の組織が成立するのです。
球団に所属することによって、野球のプロフェッショナルになるのではありません。野球のプロフェッショナルの集団として、球団が成立するのです。医師、弁護士、会計士、全て、プロフェッショナルと呼ばれるものは、組織よりも個人が先にあるのです。
そうしますと、現にある投資運用業者では、フィデューシャリー革命によって、抜本的に組織風土を改革しないといけないですが、具体的に、どうすればいいのでしょうか。
経営が変わらなければ、どうしようもありません。投資運用業者が、銀行、保険会社、証券会社等の子会社ならば、親会社の力に依存することなく、フィデューシャリーとしての顧客からの信認、および、その先にある投資の能力のみによって成り立つ企業へと、つまり、完全に独立した企業へと、生まれ変わらなければなりません。そのためには、強い経営者によって、大胆な改革が断行されるほかありません。
この改革、真の投資のプロフェッショナルにしかできないとしたら、そのような人材が稀少な日本では、担い手をみつけることが困難となります。しかし、野球と同じで、超一流の選手は必ずしも優秀な監督ではなく、逆に、現役時代には実績のなかった選手でも超一流の監督になり得るわけですから、どこかに、人材はいるはずです。
経営が変わるとして、次は、どう組織を変えたらいいのでしょうか。
当然に、プロフェッショナルの個人責任を軸にした組織へと改組されなくてはなりません。現状は、多くの場合、合議による決定という不可能な幻想のもとで集団的無責任が支配し、規律の替わりに規則の形式的遵守がなされているにすぎません。それでは、プロフェッショナルは育ち得ないのです。
プロフェッショナルは、相互の切磋琢磨と厳しい競争のなかでしか育ちません。競争とは、投資のプロフェッショナルが各自の投資判断について全責任を負うからこそ、その判断の良し悪しについての競争があり得るのであって、合議や規則のもとでは、個人の組織への埋没による集団的無責任が生じ、個人間の競争が起き得ないのです。
プロフェッショナルの個人責任とはいっても、運用成果については、組織によってしか責任を負い得ないのではないでしょうか。
二つの理由から、結果責任は、組織に帰属します。
第一に、投資のプロフェッショナルは、単独では仕事ができません。複数の異なる専門性をもつものが、組織として有機的に結合されない限り、投資の対象とすべき領域の全体について、対応し得ないからです。投資の領域は、いかに範囲を限定しても、個人一人では対応できないほどに、広く複雑なのです。
第二に、結果責任を個人に負わせたら、決断できなくなります。組織として結果責任を負い、個人として投資判断の決定責任を負うからこそ、投資が成り立つのです。逆に、投資判断は、プロフェッショナル個人の熟練を通じた高度な専門的知見に裏付けられた確信の上にしか、形成され得ません。
もちろん、組織は、結果責任を負う以上、組織として、個人を統制する必要があります。しかし、統制は、規則で縛ることでも、命令や指示で拘束することでもありません。それでは、個人責任がなくなるからです。統制は、個人の自己規律を促すものです。
資本市場では予想できないことが絶えず生起して、運用者の確信を揺さぶります。確信の揺らぎを支え、規律ある個人の行動を貫かせるものは、組織の統制です。個人の力は、組織統制によってのみ、成果につながります。故に、結果責任は、組織に帰属するのです。
それにしても、そのような厳しい投資のプロフェッショナルの道を選択する人は、今の日本の投資運用業界のなかに、あるいは外に、いるのでしょうか。
一方で、フィデューシャリーとして、国民の富の蓄積を管理運用する重責を担い、他方で、プロフェッショナルとして、その資産を資本市場へ投下することを通じて、産業金融の担い手となり、特に、株式市場では、コーポレートガバナンスの番人として、企業の構造改革を後押しすることにより、経済の成長を金融面で支えるという重責を担う、これほどに、創造的で、革新的で、知的に刺激的で、社会的に有意義な職業があるでしょうか。
ひとたび、フィデューシャリー革命がなされ、投資のプロフェッショナルの社会的意味が認知されれば、それは、希望者殺到の憧れの職業となるべきものです。もちろん、そのなかから、厳しい修行と競争を乗り越え、真の投資のプロフェッショナルに達する人は一部ですが、投資運用業に参画できたことの経験は、その全員にとって、有意義なものであるでしょう。
投資のプロフェッショナルの道を歩めば、自然に、投資のプロフェッショナルによって新しい会社を作る動きもでてきますね。
米国では、1970年代に、実際に、年金基金の資産運用において、フィデューシャリー革命が断行されたのです。このとき、大きな金融機関に所属して投資に従事していた人のなかに、独立して自分たちの会社を作る動きが活発化しました。これによって、実は、今の巨大な米国の資産運用業の基礎が築かれたのです。日本でも同じことが起きることを、私は、強く、切実に、期待します。
投資のプロフェッショナルよ、どこかに隠れているのなら、今こそ、立ち上がれ!未来の投資のプロフェッショナルよ、今こそ、その動きに続け!
以上
次回更新は7月23日(木)になります。
2015/07/02掲載「投資のプロフェッショナルとは何か」
2015/06/18掲載「資産運用の能力とは何か」
2015/05/07掲載「金融機関の経営者に資産運用がわかるのか」
2015/04/23掲載「みずほの資産運用能力と作文能力」
2014/12/25掲載「ルール遵守で馬鹿になった金融機関」
2013/08/15掲載「You Can Do Anythingという責任と規律」
2010/10/28掲載「資産運用に腕前の良し悪しはあるのか」
≪ アーカイブから今週のお奨めは「処遇の科学」≫
2013/08/22掲載「人を正しく処遇する方法について」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。