顧客の資産を運用する投資運用業でも、また自己財産を運用する金融機関等でも、要は、業務として行われる資産運用においては、当然至極のことながら、組織としての資産運用がなされるのです。しかし、そのことは、決して、組織としての合意によって意思決定されることを意味しません。意思決定は、常に、具体的事案に対峙するプロフェッショナル個人にあるのです。
これは、資産運用に限らず、高度な専門的知見によって、いや、もっといえば、高度な専門的知見のみによってなりたつ職務においては、共通のことです。なぜなら、専門的知識も経験も、個人にしか帰属し得ない以上、個人の判断と責任において、業務が執行されるほかないからです。
もちろん、組織的に共有される知識や経験はあるのです。しかし、それは、各プロフェッショナル個人にとっての有益な参考情報ではあっても、それらの集積から、組織としての意思決定が導かれることはあり得ません。
そのことは、大きな病院に所属する医師、大手事務所に所属する弁護士などのプロフェッショナルを考えれば、すぐに、わかることです。どのような組織内情報も、患者に対峙する医師、依頼人に対峙する弁護士の責任と判断において、利用されるにすぎないのです。
資産運用においても、個別具体的な投資対象の銘柄に対峙するのは、それを担当するプロフェッショナル個人です。故に、その銘柄に関する判断と決定は、そのプロフェッショナル個人に帰属します。実際、組織の他の人間は、その銘柄に関する限り、深い知見を有さない以上、当の担当者に判断を任せるほかないのです。
しかし、組織として、一定の統制をすべきではないでしょうか。
組織統制のことは、一般に、リスク管理といわれていますが、資産運用でも、そう呼ばれます。当然のこととして、リスク管理は非常に重要です。しかし、注意しなければならないことは、リスク管理は、プロフェッショナル個人の意思決定を前提にしているからこそ、必要なのであって、リスク管理から、組織としての意思決定がでてくることはあり得ないということです。
資産運用は、多数の銘柄の組み合わせ(ポートフォリオという片仮名の呼び名が定着しています)で一つの投資戦略を構成するものですから、全体統制として、銘柄の属性を集計したときの偏りや、一銘柄当たりの投資額の上限など、数量的制限をつける必要があります。これがリスク管理の第一義的意味であり、最低限の内容です。この意味のもとでは、リスク管理がプロフェショナル個人の意思決定の集積結果の数量調整にすぎないことは、明瞭です。
この最低限のリスク管理に加えて、投資運用業者や金融機関等は、それぞれの資産運用のあり方を工夫するなかで、固有のリスク管理技法を発展させてきたわけです。その結果、例えば、プロフェッショナル個人の意思決定に至る手続きを統制したり、銘柄の属性等に制限を設けたり、一定の条件のもとの売却強制の規則を設けたりと、各社ごとに程度の差はあるにしても、リスク管理の名のもとの煩瑣な諸規則の体系ができてきたのです。
それでも、原理的には、プロフェッショナル個人の銘柄選択に関する意思決定が基礎になければならないのですが、組織統制が強く大きくなっていけば、当然の効果として、個人の裁量余地は小さくなり、事実上、組織の規則による統制が優越してしまうのです。こうなれば、組織の合意による意思決定という幻想が生まれてくるのは、当然のことです。
リスク管理の独り歩きですか。
リスク管理とは、本来は、プロフェッショナル個人における銘柄の選択に関する意思決定が先にあって、その実行までの精査の過程を統制する手続きです。それが、逆転し、リスク管理規定に準拠して銘柄の属性等が先に決められ、その基準に合致する銘柄が選択されるようになれば、その選択は、狭い範囲の事務的なものにすぎなくなり、もはや、プロフェッショナルの仕事ではなくなります。
また、よくある事例として、保有銘柄のリスク管理と称して、一定の事象の生起、例えば、基準範囲を超えた価格の下落、社債ならば格付の引下げ等により、強制売却の定めを作ってあるので、担当のプロフェッショナルの決定を待つまでもなく、勝手に売却決定がなされます。
こうしたリスク管理の先行、あるいは優越は、プロフェッショナル個人の決定と責任を排除し、組織としての合意に基づく資産運用という幻想を作り上げます。なぜ、幻想かというと、これは、もはや資産運用ではなくて、単なる資産管理の事務だということです。
しかも、リスク管理手法は、どの投資運用業でも、どの金融機関でも、似たり寄ったりなので、結果として、個性もない、付加価値もない資産運用が横行するのです。これが日本の現実です。何が問題かといって、これでは、資産運用のプロフェッショナルが育つ余地がないことです。事実として、自称プロフェッショナルは大勢いるかもしれませんが、真のプロフェッショナルは、日本には、稀有かと思います。
背後には、金融規制の影響もあるのではないでしょうか。
過去の金融庁の姿勢は、リスク管理等の組織統制の徹底を強く求めるものでした。それは、その時点における金融界の現実と、それに対する金融行政の課題に基づくものであり、歴史的正当性があるのであって、決して間違ってはいなかったと思います。
しかし、金融庁が次々に制定する規則等を受け、金融界では、総じて過剰反応を起こし、社内規則等が大量に制定され、かつ杓子定規な規則等の適用のなされたことは、資産運用に限らず、金融機能全体において、質の劣化を招いたことは否定できません。敢えて、わかりやすい喩えを用いれば、肉体は強くなりましたが、心と頭は弱くなった感じです。これは、金融庁にとっても、意図せざる不幸な結果だったでしょう。故に、大胆な路線転換に踏み切ったのです。
金融庁の新しい施策は、2014年9月に公表された「金融モニタリング基本方針」において、明瞭な形で整理され、それは、さらに強化されて、2015年9月の「金融行政方針」に継承されます。この新路線では、重要な行政課題として、「資産運用の高度化」が掲げられているのです。
高度化には、フィデューシャリー・デューティーの導入等、様々な具体的内容を含むのですが、その最重要なものの一つは、間違いなく、プロフェッショナリズムの徹底、即ち、組織統制から個人の能力への基軸の転換なのです。このことは、金融庁が金融庁自身の組織改革について述べた次の言葉に明瞭に表れているでしょう。
「金融庁職員の一人一人が、省益ではなく「国益への貢献」を追求し、困難な課題にも主体的(プロアクティブ)に取り組んでいくことを目指し、そうした職員を任用・昇格により評価する等の業績評価のあり方の検討をはじめとした取組みを推進していく。」
「困難な課題にも主体的(プロアクティブ)に取り組んでいく」ものは、金融行政のプロフェッショナル以外の何ものでしょうか。金融庁職員を、資産運用に携わるものに置き換えて、資産運用のプロフェッショナルは、「困難な課題にも主体的(プロアクティブ)に取り組んでいく」べきなのではないでしょうか。
表題の意味は、資産運用のプロフェッショナルが主体的(プロアクティブ)に行動するときには、組織と鋭く対峙することも避け得ないということですか。
リスク管理の最低限の内容として、プロフェショナル個人の意思決定の集積結果に対して、全体統制として、数量調整等を行うことは、当然のことですし、統制目的からして、それがプロフェショナル個人の意思を超えることも自明です。
しかし、その余のリスク管理は、本来は、組織の意見にすぎず、組織の決定ではあり得ないのです。リスク管理の独り歩きといいますか、暴走とは、この意見にすぎないものに、命令と同様の権威を与えてしまったことです。
決定は、どこまでも、プロフェショナル個人にあるのです。組織統制としてのリスク管理とは、その個人の決定に対して、リスクとして認知すべき論点を、敢えて注意喚起のために、指摘することであって、その指摘は、何らの強制力をもつことなく、単なる意見に留まるものなのです。
プロフェッショナル個人としては、当然の責務として、その意見に対しては、反論しなくてはなりません。反論できないということは、プロフェッショナル個人の判断として、リスク管理の意見の正当性を認めることですから、それに、自主的に、即ち、自己の意思決定として、従うべきです。
プロフェッショナルは、自己の誇りと能力の全てを賭けて、リスク管理と戦わなくてはならないのですね。
それは当然です。プロフェッショナル個人の能力の全てを傾けて、徹底した調査を行い、そのうえで到達した結論に対して、リスク管理は、当のプロフェッショナルとは別な視点から、自由に意見をいうことができます。
その意見は、しばしば、本人が気付かなかったリスク要因の指摘であるわけで、それを受けて再分析を行い、異なる結論に到達するのならば、より洗練され精緻化された投資判断となり、プロフェッショナル個人としての成長にもなるわけです。これぞ、正しいリスク管理のあり方です。
プロフェッショナル個人は、リスク管理の指摘事項の全てについて、徹底した再分析、再調査、再検討を行った結果として、自説を変える必要を認めないのならば、自説通りに決定し、行動すべきです。その行動は、リスク管理の反対を押し切ったものになりますが、組織統制上、リスク管理は執行機関ではないのですから、少しも問題はありません。むしろ、リスク管理が事実上の強権をもつことは、組織統制を乱すものです。
更にいえば、リスク管理の反対を押し切ることは、実は、リスクの所在を際立たせ、組織としてのリスクについての認識の共有を徹底化させます。故に、そのリスクが顕在化するとき、プロフェッショナルの適切な行動を促すことになるのです。これが組織的資産運用ということの本当の意味です。
また、いわずもがなですが、リスク管理の反対を押し切ることで、プロフェッショナルとしての責任の自覚が促されて、成長していくのです。プロフェッショナルは、自己の誇りと能力の全てを賭けることで始めて、成長するのです。
リスク管理の暴走を許したのは、プロフェッショナルとしての個人の確立がなかったからかもしれませんね。
実のところ、何でも過去の金融庁の施策のせいにすることには、少なくとも資産運用に関する限り、大きな疑問を感じます。おそらくは、金融庁が主導したリスク管理の暴走がプロフェッショナリズムの崩壊を招いたのではなくて、プロフェッショナリズムの欠落がリスク管理の暴走を許したのです。ここには、もちろん、鶏と卵の難問があります。難問を解くのは、資産運用に携わるもの自身です。
さあ、資産運用に携わる君よ、自己の誇りと能力の全てを賭けることができるか、リスク管理の意見を撃破できるか、自信をもってリスク管理の意見に反した行動がとれるか、そこまで徹底した調査分析ができているか。今、君は試されているのだ。
2016/01/28掲載「資産運用に携わる君よ、賭けているか」
2015/12/24掲載「投資運用業の君よ、悲しくはないか」
2015/07/02掲載「投資のプロフェッショナルとは何か」
2015/06/18掲載「資産運用の能力とは何か」
2015/05/07掲載「金融機関の経営者に資産運用がわかるのか」
2015/04/23掲載「みずほの資産運用能力と作文能力」
2010/10/28掲載「資産運用に腕前の良し悪しはあるのか」
≪ アーカイブから今週のお奨めは「組織統制の失敗」≫
2015/01/15掲載「金融機関が陥る集団の愚」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。