二つの同じ経済効果、あるいは経済価値をもつものは、等価でなければならないということは、事実として、等価であるといっているのではなくて、理論として、等価となるはずだといっているのでもなく、単に、二つのことの背後にある諸条件と諸仮定と諸期待の間には、二つが等価になる方向へと、市場の力が働くといっているだけです。
例えば、住宅については、買っても借りても、費用が同じになるように、住宅価格と賃料は、住宅ローンの金利等の多数の変数を介して、一定の合理的相互連関を保ちながら、均衡点を求めて動いているということです。
もしも、金利が低下すれば、金利等の住宅ローンの条件が借り手に有利になり、他の条件にして一定ならば、住宅を借りることをやめて、買う人が増えるでしょう。そのことは、住宅市場に影響を与えて、買うことと借りることの関係は、相対的な条件面で、新しい均衡点へ移っていくわけです。
つまり、こうした自働的な均衡作用こそが市場機能であり、故に、経済政策的に、また金融政策的に、市場機能が健全に働くことは、非常に重要なのです。さもなければ、住宅価格が上がれば、賃料も上がり、賃料が上がるから、住宅価格も上がるというような、いわゆる「バブル」、即ち、均衡への収束ではなくて、管理不能な発散をきたしてしまいます。ここで、発散が逆に下方に向かうことを、「危機」というのですが、「バブル」も「危機」も、同じくらい危険なことです。
逆に、市場機能による新たな均衡への動態があるからこそ、政策的に、介在する変数を操作することによって、即ち、例えば、金利を下げるという金融政策や、住宅ローン減税を行うという経済財政政策によって、住宅市場の活性化という景気刺激策を行うことができるのです。
しかし、実際の経済においては、買うことと借りることの間に、あまりにも多数の変数が介在しているので、均衡しているかどうかも、また、均衡がどう動くかも、よくわからないのではないでしょうか。
間違いなく、現実は、その通りですが、現実に立ち向かう人間の態度としては、変数の体系を完全に把握できないので、均衡をとらえることはできないという発想と、変数の体系を完全に把握できさえすれば、均衡をとらえることができるという発想とがあり得るのです。いうまでもなく、知的な成長は、後者の発想に基づきます。
同様に、有名な喩え話ですが、靴の営業で、南洋の島へ行ったところ、誰も靴など履いていない現実に対して、故に靴は売れないという発想と、これらの人が靴を履くようになったら、大きな市場が生まれるという発想があり得ます。いうまでもなく、資本主義経済を支える精神は、後者です。
しかし、そうはいいましても、現実の経済を合理的に説明しつくすことはできません。ただ、説明を極めていけば、説明できない点が明瞭になっていきます。金融では、リスク管理が重要だとされていますが、その意味は、合理的に説明できない点を自覚的に認識しておいて、その合理性を超えたものが引き起こすかもしれない不測の事態に備えることです。
説明できない点とは、どのようなものでしょうか。
それは、明らかに、定義によって、非経済的なもの、人間の知的な側面よりも、感情的な側面に依存するものでしょう。例えば、住宅については、自分の家を所有したいという持家願望や、不動産価格が上昇するという期待などです。こうした願望や期待のもとでは、当然に、買うことは、借りることに対して、割高になる、即ち、不均衡になるはずです。
この事態に対しては、願望や期待の理論価値を合理的に推計することにより、不均衡になっているのではなくて、均衡しているとも説明できます。ただし、そのような推計の確からしさは低い、つまり、リスクが大きいので、表層的な均衡が崩れる可能性が大きく、しかも、その結果生じる影響についても、予想し難いものがあります。このことの認識こそ、リスク管理です。
持家願望はともかくも、価格上昇期待は、十分に合理的なものであり得るのではないですか。
極めて難しい問題です。おそらくは、合理性を前提とした標準的な経済学の理論を適用すれば、下がれば上がる、上がれば下がる、という期待形成を想定するほかないでしょう。
それに対して、人間の心理的反応は、多くの場合、上がれば上がる、下がれば下がる、という期待形成になりやすいと思われます。こうした人間行動の特性を理論化し、合理的に説明することも可能でしょうが、そこに大きなリスクのあることは、先述の通りです。
実際、上がれば上がるという期待のもとに、「バブル」が起き、下がれば下がるという期待のもとに、「危機」が起きることは、歴史的事実です。もちろん、それでも、社会は進化するので、今の日本で、昭和の不動産バブルが再発するとは思えません。金融手法の革新や、不動産流通市場の整備によって、非合理性が暴発する余地が大きく減少したからです。
他方では、社会の進化は、新しいものを生みだすわけで、そこにまた、想定し得ていない新たなリスクが生起するので、全体として、何がどう進化したのか、よくわからないというのが市場の現実なのでしょう。
必ずしも合理的ではない特殊な選好は、企業にもありましたね、つい最近まで。
かつて、日本の大企業は、本社ビルを自分で所有していましたし、社員寮、社宅、体育館、グランウンドに至るまで、非事業用資産を大量に保有していました。さすがに、今日では、コーポレートガバナンスということがいわれ、経営の合理化が進んだので、不動産の所有から、不動産の利用へ、モノの所有から、モノの利用へ、企業の行動様式は大きく変化しました。
こうした企業行動の変化は、間違いなく、社会の進化として、日本の不動産流通市場と、不動産金融市場との構造を、一変させたのです。おそらくは、今日、モノを借りても買っても、費用は同じという合理的市場構造は、法人用不動産市場をはじめ、例えば、運輸業であれば輸送用機器など、多くの事業用資産について、確立されつつあるのではないでしょうか。
つまり、モノを保有する費用は、必要な資金を調達する費用に関して、単なる表面的な金利等だけでなく、負債比率が企業の財務諸表全体に与える影響等までも考慮したうえで、また陳腐化等のモノに関する危険負担の費用も含めて、科学的に推計され、また、モノを借りる費用も、表面的な賃料だけではなくて、モノをもたないことによる危険回避の利益も含めて、科学的に推計されて、その比較衡量から、買うか借りるか、合理的選択がなされるようになってきているのだと思われます。もしも、そうでないのなら、そうなるようにしなくてはいけません。
モノを売る立場からいうと、顧客側において、買うことと借りることを、連続的に考えるようになると、販売手法を工夫しなければいけませんね。
モノを作り、モノを流通させるものは、徹底して、顧客の視点に立たなくてはなりません。つまり、買うことと借りることが連続的になるような販売流通市場を整備する努力をしなければならない、あるいは、むしろ、積極的に、買うことと借りることの間で、顧客の利益になるほうを提案すべきだということです。
そういう面で、今日、大きな問題は、個人住宅です。日本では、住宅は、個人による所有を前提として、資産ではなくて、住み捨てる耐久消費材として、製造販売されてきました。この背景には、高度経済成長期の大量生産大量消費という世の風潮(というよりも、産業政策)や、持家願望があったのでしょうが、環境が激変した今日では、見直しが必要です。
そこで、例えば、家族構成等に応じて住み替えるような新しい住宅のあり方を検討してみると、先決問題として、住宅の高品位化による資産化、賃貸市場、住宅の転売流通市場の整備などが必要であることがわかります。
顧客の視点に立って、住宅市場を改革すれば、ここにおいても、モノを借りても買っても、費用は同じという合理性が確立してくるでしょう。そうなれば、おそらくは、利用者の利便性は上昇するのです。
金融機関側にも、対応が必要ですね。
住宅ローンは、最初から、個人が住宅を買うこと、住宅は耐久消費材として最終的には価値がなくなること、故に、弁済原資として個人の所得しか評価しないことを、前提にしています。従って、住み捨てられる耐久消費財から、長期間使い続ける資産へと転換しようとしても、対応できません。
補完するものとして、無担保の増改築ローンや、リバースモーゲージ等もありますが、それらを総合して、根幹の住宅ローンの構造を抜本的に変えることで、住宅市場の構造変革を促し、また逆に、住宅市場の構造変革が金融機関の新たな収益源泉を作っていく、そのような好循環を通じて、顧客の利便性が上昇していくように、金融機関として、努力しなくてはなりません。
ならば、いっそ、金融機関に住宅仲介をやらせてもいいのではないですか。
顧客の住むという需要に真正面から取り組み、顧客の視点に立って、モノを借りても買っても、費用は同じという合理性の貫徹を目指すのならば、今の金融機関のように、自分の利益の方向で、住宅ローンだけを営業することはできないはずです。
金融制度は、金融機関先にありきではなくて、顧客先にありきで設計されるべきですから、顧客の視点で、一番優れた住宅市場と住宅金融のあり方を考えればいいのです。実際、それは、金融持株会社の業務範囲の見直しのなかで、十分に検討に値する論点として、いつか、取り上げられることになるのではないでしょうか。
オペレーティングリースも、そうした方向へ、展開していきますね。
モノを借りるか、買うか、顧客が合理的選択をするとき、金融機関の融資は、買うという選択にしか使えません。もしも、顧客が借りるという選択をしたときには、リース会社に対する融資として事業化するか、自分自身でリース事業を展開するか、どちらかしかありません。おそらくは、徹底して顧客との共通利益を追求するためには、後者の選択肢が望ましいのでしょう。
これもまた、金融持株会社の業務範囲の見直しのなかで、検討しなくてはいけないことです。なぜなら、オペレーティングリースを徹底していけば、どこかで、レンタルとの境目が問題となり、レンタルを徹底していけば、どこかで、物販との境目が問題となります。そうして、もはや、金融ではないという限界に達するでしょう。その限界を広げるのかどうか、それは、まさに、金融制度論の重要な論点です。
以上
次回更新は6月9日(木)になります。
2016/05/12掲載「学資ローンの条件を学業の成績で決めるフィンテック」
2016/03/17掲載「産業界よ、カネを使い切れ、マイナス金利なのだから」
2016/02/04掲載「銀行は、ヒトにではなく、モノとコトに貸したらどうだ」
2016/01/21掲載「いっそ銀行に住宅仲介をやらせるか」
2016/01/14掲載「決して潰しませんという銀行の確約」
2016/01/07掲載「銀行は、カネではなくて、モノを貸したらどうだ」
2015/12/10掲載「雨が降ったら傘を差し出す金融へ」
2015/07/09掲載「原子力損害賠償制度と金融」
2014/07/17掲載「オブジェクトへの金融」
2014/06/26掲載「公共ファイナンスの視座」
2012/11/08掲載「貸せない先に貸してこその銀行」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。