銀行の食文化革命

銀行の食文化革命

森本紀行
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銀行経営は、これから、大きく変貌します。社会的責務の大きさ故に、経営を律する厳格な枠組みが必要であることには、何ら変わりはありませんが、それは、他律的な規制や、従来型のリスク管理を超えて、自律的なリスクアペタイトフレームワークと呼ばれるものに置き換わるでしょう。アペタイトとは食欲ですが、さて、銀行の新たな食文化の醸成とは、どのようなことか。
 
 銀行というよりも、信用金庫等も含めた広義の銀行は、預金の受入れという特権のうえになりたっていて、預金取扱金融機関であることは、銀行の定義そのものなのですが、預金を特権的地位から引きずり落として相対化してしまうと、これまで自明であった銀行の定義と地位が一気に揺らいでしまいます。
 そして、日本の現実として、特権により預金を集め、それを融資に回して、利鞘を得るという銀行の事業の基本構造が崩壊の危機に瀕しているということは、この特権が意味を失ったということですから、これは、銀行の本質的危機です。本質的というのは、銀行が銀行である所以を失うということであり、銀行という事業そのものが存立の危機にたたされるということです。
 こうした事態は、日本だけのことではなくて、先進経済圏全体の問題ですが、日本の場合は、成熟化の超先進国として、既に、長期にわたって事実上のゼロ金利の状況にある、即ち、銀行の利鞘も限りなくゼロに近いところに張り付く状況にあるなど、先行的に、また、より深い程度において、銀行の危機が顕在化しているだけです。
 もっとも、銀行の危機とはいっても、おそらくは、銀行が現に演じている社会的機能はなくならないでしょうから、銀行機能の危機ではないわけで、単に、特権的地位を失った銀行は、普通の事業会社として、改めて、自らの事業目的を再確認し、事業会社としての本源的なリスクテイクの対象を定めて、存立基盤を再確立しなければならなくなる、ただ、それだけのことです。
 喩えるならば、明治維新により幕藩体制が崩壊し、武士が特権的地位を失ったようなもので、ただの人となった武士は、役人なり、商人なり、教師なりとして、自己の生きる道を再定義しなければならなくなったのと、同じことです。しかも、かつての武士が演じていた機能は、新しい仕組みによって代置され、よりよい社会が建設されたのですから、むしろ、武士の特権はなくすべきであったのです。
 つまり、銀行の特権が消滅することで、新しい時代環境に適した金融のあり方が生まれるなら、銀行の特権はなくすべきだし、放っておいても、自壊するだろうということです。
 
事業会社としての本源的なリスクテイクを頂点に置いて、経営統制の仕組みを構築すること、これをリスクアペタイトフレームワークというのですね。
 
 リスクアペタイトフレームワークのアペタイトは、食欲のことですが、何を食べたいかについては、理屈も理論もないわけで、それは、各事業会社の勝手な思いであって、いわゆる創業の理念です。しかし、ひとたび、ある本源的リスクテイクを事業目的に定めたら、そのリスクを、自覚的に、一貫して、とり続けることが肝要です。そのためには、必要資源を適切に配置して、付随リスクの管理を徹底できるように、経営統制の態勢を構築しなくてはなりません。
 リスクアペタイトフレームワークは、第一に、自覚的なリスクテイクの任意性(アペタイト)を前提にし、第二に、より重要なことに、自覚的リスクテイクの貫徹を目的として、高度な統制態勢(フレームワーク)の構築を求めるものです。
 これまでの銀行は、既に先に、預金を中軸にした銀行業があるものとして、歴史的起源においてはともかくも、今となっては、全く無自覚的にリスクテイクがなされているのに対して、リスクアペタイトフレームワークは、改めて、各銀行に対して、それぞれに固有な自覚的リスクテイクの対象の再定義を求めるのです。
 
自覚的なリスクテイク対象を再定義するためには、銀行の枠を超える必要があり、そのためには、預金を特権的地位から引きずり落とす必要があるということですね。
 
 現在の歴史的状況のなかで、おそらくは動かし得ない方向性として、預金の特権性は意味を失いつつあるわけですが、事実としては、最高度に規制され、同時に保護された環境のなかで、銀行は、預金を中核として、現に、少なくとも見かけでは、強固な基盤のうえにあるのです。
 従って、銀行の危機は、潜在的な、あるいは、可能的なものとしては、想像し得ても、現実的なものとしては、銀行界の誰にも、認識し得ないわけです。故に、銀行の危機は、まずは、銀行界の意識の危機でなくてはなりません。その危機意識醸成のためには、預金をなきものとしたうえで、改めて、銀行のあり方を再検討するという思考実験は、不可欠だと思われます。
 
ところで、根本に戻りますが、預金の特権的地位とは、どういうことでしょうか。
 
 預金というのは、決済機能、貯蓄機能、信用創造機能を密接不可分に統合した極めて高度なものであって、もしかすると、人間が発明した社会制度のなかでも、最高傑作の部類かもしれません。しかも、グローバルに結合した巨大な銀行システムの中核になっている点でも、また、金融政策の舞台を提供している点でも、極めて優れたものです。
 預金は、原点において、貯蓄ですが、各銀行の預金は、結合されて、一つの巨大な銀行システムとなり、そのシステムは、一つの帳簿として、銀行間決済を可能にし、同時に、金融行政の実行のための舞台となります。
 さらに、預金を原資とした融資は、当然に、債務者の預金となることで、預金の増幅をもたらします。これが信用創造機能です。この信用創造は、いうまでもなく、経済成長のための原資を効率的に供給するものとして、非常に有効であったのです。
 銀行とは、預金を主役として、預金を取扱うことのできる特権的法人として、設立されたもので、故に、銀行とは、預金取扱金融機関と同義であり、預金の特権性のうえになりたつ法人なのです。
 
その預金が特権的地位を失うとは、どういうことでしょうか。
 
 銀行は、資本主義経済体制の創成とともに、その不可欠の構成要素として発足した歴史的存在です。故に、資本主義経済の成熟と構造変化により、その歴史的性格を変じていかなければならないのです。例えば、1980年代の初頭に、英国と米国において、銀行機能の一部を資本市場に移転する大改革がなされたのは、有名な歴史的事実です。
 さて、この21世紀初頭の経済社会環境において、また、高度化した技術環境において、銀行の諸機能を再検討してみると、もはや、預金のうえに結合しておかなければならない本質的理由は、見出しにくいのです。故に、預金の特権的地位など、廃止しても差し支えないのではないかと思えますし、むしろ、昔の武士の特権的地位と同じで、廃止したほうが、社会のためかもしれないのです。
 例えば、フィンテックの重要な分野は決済機能であって、決済と預金の分離は不可避でしょうし、信用創造機能など、資金不足の時代でこそ、有効でしたが、超成熟経済のもとでは、資金余剰なのですから、不要でしょうし、貯蓄は、全く魅力のない預金から、資本市場へ移転していくでしょう。
 また、銀行は、預金取扱金融機関であることによって、最高度に規制されていることから、あまりにも経営拘束が大きく、積極的な融資業務の展開が制限されることも、今では、よく知られている事実です。
 しかも、かつては、預金は、低利で安定的な原資調達の手法であったわけですが、現在では、事務経費、預金保険料等を考えれば、決して低利調達ではなくなっていますし、むしろ、貯蓄の資本市場への移転にともなって、資本市場調達の可能性が大きくなることを考えれば、預金に依存する必要もなくなってくるのです。
 
では、預金をなくすという思考実験のもとで、各銀行の課題は、どのようなものとして、あらわれてくるのでしょうか。
 
 食欲の対象に、良いも悪いも、ありませんから、各銀行の置かれた状況の差を反映し、経営戦略の差を反映して、好きなものを食べればいいのですし、また、体の大きさにより、健康状態によって、微妙な影響を受けることも、当然でしょう。ここには、理論だの、金融庁の意向だのがあるはずもないのであって、あるのは、顧客だけです。要は、顧客が食べたいものを、銀行も食べればいいのです。
 
現段階では、リスクアペタイトフレームワークの記述を公表しているのは、メガ三行等に限られますが、それを読んでも、少しも、食欲を感じませんね。
 
 例えば、金融庁は、昨年の金融行政方針において、リスクアペタイトフレームワークに注を付して、「自社のビジネスモデルの個別性を踏まえたうえで」と述べているのですが、残念ながら、メガ三行の間には、「ビジネスモデルの個別性」など全くないらしく、金融庁の意向に沿った記述ができないのです。
 だからこそ、預金をなくすという思考実験のもとで、銀行を廃業するというところまで本質的に突き詰めて、考え抜く必要があるのです。そして、その先に、自己の顧客基盤を徹底的に見直すとき、顧客の視点で、どこに本源的リスクテイクの対象を見出すべきか、おぼろげに、わかってくるのです。
 
例えば、どのような像が見えてくるのでしょうか。
 
 預金を軸に考えるので、個人金融サービスとしての預金業務と、産業金融の担い手としての融資業務が対等化してしまい、そこに、戦略の不在があらわれるのです。
 それに対して、総合的個人金融サービスに食欲を感じるなら、それを本源的リスクテイクの対象にして、リスクアペタイトフレームワークを構築すればよく、そのとき、融資については、住宅ローン等の個人ローンだけが本源的リスクテイクの対象になる一方で、法人融資は、限界的な投資対象の一つに、相対化されてしまうでしょう。
 このとき、投資信託や保険の販売は、到底、現状の手数料稼ぎ的なものではなりたたないことが明らかとなって、フィデューシャリー・デューティーの徹底のもと、総合的個人金融サービスの体系のなかで、抜本的な改革がなされるのです。逆に、手数料稼ぎに堕している現状の問題は、預金を軸にして、投資信託や保険の販売を従属業務とする思考形態に、根差しているともいえます。
 産業金融の担い手としての機能に食欲を感じるのなら、融資などという限界的な道具立てでは、多様な産業界の資金調達に対応できないことは、すぐにわかります。また、預金を原資にして融資をすることの制約の大きさも、強く自覚されてくるはずです。そのとき、預金業務から完全に切り離されたところに、産業金融の担い手としての新しい像が見えてくるのです。
 
以上

 
 次回更新は、9月15日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2016/07/28掲載「創造的な闘争としての金融のリスクテイク
2016/07/14掲載「金融におけるリスクカルチャーの醸成
2016/07/07掲載「金融における本源的リスクテイクとリスクアペタイトフレームワーク
2016/06/30掲載「リスクに、おいしい、まずい、はあるのか
2016/06/23掲載「金融におけるディリスキングとリスクシェアリング
2016/06/16掲載「金融における「動的な監督」とリスクアペタイトフレームワーク
2016/02/10掲載「資産運用に携わる君よ、組織の反対を押し切れるか
2016/01/28掲載「資産運用に携わる君よ、賭けているか



森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。